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JOG(471) 本多静六 ~ 国土づくりの道楽人生

多くの国立公園、鉄道防雪林、水道水源林を育てた「国土づくりの神様」。


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■1.国土づくりの神様・本多静六■

 日比谷公園と明治神宮は、東京都民の憩いの場としても代表的なものである。かたや明るい開放的な西洋式都市庭園、かたや鬱蒼(うっそう)とした伝統的な神社林と、性格は対照的であるが共通点が一つある。どちらも本多静六が中心となって設計・創設されたものである。

 その業績を見れば、本多静六はまさに「国土づくりの神様」と呼ぶに相応しい。まず鉄道防雪林。東北本線沿線はじめ、我が国の鉄道防雪林は総延長1300キロメートル、面積にして1万900ヘクタールと世界有数の規模を誇っている。これを最初に提案し、実現に向けて力を尽くしたのが本多静六であった。

 さらに東京の奥多摩をはじめとする各都市の水道水源林の整備と拡充、国立公園運動の主導と国立公園法の制定。北は北海道・大沼公園から南は九州・霧島公園まで全国70余の公園の設計・改良。 国立公園だけで総面積200万ヘクタール、国土面積の約5.4パーセントを占め、年間利用者4億人というから、日本人で本多静六のお陰を蒙っていない人はほとんどいないだろう。本稿では、この「国土づくりの神様」の足跡を辿ってみたい。

■2.何でも一生懸命にやれば道楽になる■

 本多(旧姓・折原)静六は、慶応2(1866)年、埼玉県に生まれた。折原家は代々庄屋を務める家柄であったが、静六が11歳のとき、父が亡くなり、家産も傾いて、静六は農作業の手伝いをしながら漢学や英語の勉強をした。18歳にして、東京の山林学校に入る。半官費で安いからという理由だった。これが生涯、国土づくりに生きる出発点となった。

 しかし、正規に代数や幾何をやったことのない静六は、この2科目で落第点をとり、親兄弟に会わせる顔がない、と寄宿舎の裏庭の古井戸に飛び込んで自殺を図ったが、腕が途中の井桁にひっかかって、死に損なった。
「郷土の先輩、塙保己一は盲目でありながら群書類従630巻を著した[a]。両眼のあるお前は、保己一以上の勉学を続けたら、さらに大きな仕事ができるはずじゃ」とは、上京するおりに祖父が贈ってくれた言葉であった。

 以後、死力を尽くして勉強し、幾何などは千題ある問題集を3週間ばかりですべて片付け、次の学期からは満点続きで、試験を受けるのが楽しみになった。こうした体験から、何でも一生懸命にやれば道楽になる、というのが、静六の人生哲学となった。

■3.ドイツ留学■

 まだ在学中であった24歳の時に、婿に来て欲しいという話が持ちあがった。教授から「私の顔を立てるつもりで、見合いだけしてくれ」と頼まれ、会食の席では初めて見るご馳走に、見合い相手の分まで平らげた。

 しかし、相手にもその父親にも気に入られてしまい、静六は一計を案じて、「卒業後、ドイツに4年間留学させてくれますか」と申し出た。とんでもない条件をつければ、破談にしてくれるだろうと考えたのだが、相手はこの条件もすぐに呑んでしまった。こうして断り切れなくなった静六は、本多家に婿入りし、卒業後にドイツ留学することとなった。

 ミュンヘン大学で勉強を始めて間もない頃、本多家の預金していた銀行がつぶれて、送金ができなくなったとの知らせがあった。静六は一時は茫然自失していたが、手持ちの資金でなんとか4年課程を2年で修了して、学位を取得する計画を立てた。

 一日3時間の睡眠で、粗末な食事に耐えながら、猛勉強し、なんとか論文を書き上げて、論文審査はパスした。難物のブレンターノ教授による口頭試問は、3週間で教授の著書を全部暗記して無事通過した。演説討論は、ミュンヘン大公園の滝の下に立って、7日間朝から晩まで練習して切り抜けた。近隣の農民達は変人が自殺でもするのでは、と心配げに見ていたという。

 かくして計画通り2年でドクトルの学位を取得した本多は、明治25(1892)年に帰朝し、帝国大学農科大学の助教授に就任した。しかし当時の山林学は、「山林(三厘)は天保銭(八厘)より安い学問」と言われ、仙人の道楽仕事だと冷笑されていた。この「道楽仕事」に、以後の本多は打ち込むのである。

■4.鉄道防雪林を提案■

 日本財界の大立者・渋沢栄一は本多と同郷で、帰朝を歓迎する宴を催してくれた。その席で本多はドイツ、ロシア、カナダなどで鉄道防雪林が列車の安全運転を確保する上で大きな効果を上げている事を紹介し、日本でも実施しては、と提案した。

 前年に日本鉄道株式会社によって東京-青森間に東北本線が全通していたが、至る所で列車が吹雪に閉じこめられたり、雪崩で脱線転覆するという惨事が起こっていた。また、除雪のために多額の人夫賃を払いながらも、列車運行は連日、支障をきたしていた。

 日本鉄道株式会社の重役を兼ねていた渋沢栄一は、本多の提案をさっそく採用し、実施に移すこととした。こうして26歳の青年教授が、鉄道防雪林の創設という国家的事業を担うことになった。

 以後、渋沢は本多を知恵袋として、その提案を次々に実行していった。渋沢は企業5百、公共・社会事業6百の設立に貢献して、明治日本の産業近代化に大きな貢献をなしたが[b]、それも本多を知恵袋として活用した事が一因である。

■5.鉄道防雪林の成長■

 鉄道の雪害は、降り積もった雪よりも、強風で吹き飛ばされた雪が、吹き溜まりに積もってしまうことから起こる。防雪林は風に飛ばされてきた雪を受け止め、線路上での吹き溜まりを防ぐ役割を果たす。本多はさらに、伐採木の売却益により、保守管理の費用も捻出することを目指した。

 そこで本多は、100メートルほどの幅を持った林を作り、そこに1ヘクタールあたり1万本規模の常緑針葉樹を植える計画を立てた。そして最初の植樹地域として水沢-厨川間(岩手県)の3.6ヘクタールと下田-小湊間(青森県)の45.9ヘクタールを選び、明治26(1893)年5月に造林を始めた。

 しかし、樹木が育つには時間がかかる。植栽後10年間はその効果はなかなか現れず、雪害は続いた。本多もこの間は気が気でなかったろう。 

 しかし、樹木が成長するにしたがって、少しづつ防雪効果が認められるようになり、小湊の近くに設置されていた5千メートルもの雪覆いはすべて撤去された。 また樹木の伐採による木材生産も順調に伸び、昭和15年には直営の製材所を設け、そこで加工された木材が駅舎や枕木に使われるようになった。さらに余剰の丸太の売却益で、鉄道林の保守費用をまかなって余りあった。

 鉄道林の防雪効果は広く認められるようになり、磐越西線、奥羽本線、上越線などにも防雪林が設けられた。これらの沿線では毎冬百件以上もの雪崩が発生して多大の犠牲者が出ていたが、防雪林が造成されてからは、ほとんど皆無となった。

■6.多摩川上流地域の荒廃■ 

 明治30(1897)年秋頃から、本多は東京の水源にあたる多摩川上流地域の山岳地帯を踏査して、博士論文の研究を続けた。明治33(1900)年1月には、日本最初の林学博士を授与されたが、同時にこの地域の山林荒廃を見て、憂慮した。

 この地域の住民は、江戸時代には一定の規則の下で林産物をとることを認められていたのだが、明治維新後、政府はその利用を禁じてしまった。それに反発した地元住民が、盗伐、乱伐、焼き畑などを繰り返した結果、5千ヘクタールほどが「はげ山」となってしまった。森林は緑のダムである。「はげ山」になっては、雨が降れば洪水や崖崩れが発生し、降らないと水不足となって、水田灌漑にも支障を来した。

 本多はこのまま放置すれば、将来さらに大きな災害を引き起こすことになると東京府の千家尊福(せんげたかとみ)知事に説いた。千家知事は、水源問題は一日の猶予も許されないと考えて、すぐに「一切の調査経営を貴君に委託する」と依頼した。

■7.はげ山を美林へ■

 本多は自分で政府と交渉して、8200町歩の大水源地を東京府に譲り受け、水源林回復に取り組んだ。本多が最初に取りかかったのは、荒廃したはげ山にヒノキ、カラマツなどを植栽することであった。

 大量の苗木や器具、食料は馬車や牛車で運び、また植え付けはすべて人力で行われた。水源地内に車道が敷設された今日でも、最寄りの車道から1時間も歩いた奥山に「工作場尾根」「学校尾根」など、当時の林業労働者が住み着いて、植栽作業に従事した形跡が残っている。

 この間、本多は千メートルの高所での寒害から植樹を守るために、失敗を繰り返しながら、独自の植栽方法を開発したり、また伐採した雑木を木炭にして売るのに、学者商法で失敗を重ねたりと、10年以上も苦労を続けた。

 明治34(1901)年に始まった植林作業は、その後39年間、営々と続けられ、25百万本の苗木を植栽した結果、当時のはげ山が、今日ではヒノキとカラマツの美林となった。東京の水源は昭和30年代までは、この多摩川水系からの水でまかなわれたのである。

■8.億万長者■

 この後も、本多は森林学者として、冒頭に紹介したように豊かな美しい国土づくりに多大な貢献をなしていくのだが、もう一面では蓄財家としても手腕を発揮した。

 ドイツでの恩師ブレンタノ教授は、本多の赤貧洗うが如き留学生活を見て、「これまでのような貧乏生活から脱して、経済的生活で自由にならなければならない。金のために精神的自由を奪われ、屈辱を受けることになる」と忠告した。

 実際に留学から帰って、郷土の苦学生を支援するために、同郷の実業家や富豪に募金を募ったが、行く先々で嘲笑され、軽蔑の言葉を浴びせられた。ブレンタノ教授の忠告が身に沁みたのであろう。本多は他人の懐などあてにせず、独力で育成会を作ろうと決意した。

 ブレンタノ教授は、「まず貯金をし、それがある額に達したら、有利な事業に投資するがよい。日本のような発展途上国では幹線鉄道や山林や土地などに投資するのがよかろう」と助言してくれた。この言葉にしたがって、帰国後の数年間は節約に節約を重ねて、1万円余の貯金を作り、それで埼玉県秩父郡の人里離れた安い土地や山林を買い入れた。その後、日露戦争後の好景気がやってきて、1町歩4円で買い入れた土地の立木だけで280円で売れたという。

 こうした土地や山林への投資で、本多は億万長者になり、ある年の収入が28万円で、当時の淀橋税務署管内の年収ナンバーワンになったこともある。

 その後、帝国森林協会会長となり、また国立公園の主唱者としての立場から、広大な山林を所有しているのは良くないと考えて、昭和5年、この山林をすべて地元の埼玉県に寄付した。その時の条件として、これを県有林として経営し、その純益が100万円を超えたら、育成事業を始める事とした。この計画通り、埼玉県は昭和29(1954)年度から、無利子での奨学金貸し付けを開始した。

■9.「最大最高かつ永遠の幸福」■

 努力家の本多は、生涯で376冊もの本を書いているが、その中には、『我が処世の秘訣』というような人生の指南書まである。その中で、本多はこう説いている。

 私の体験によれば、人生の最大幸福はその職業の道楽化にある。富も名誉も美衣美食も、職業道楽の愉快さには遠く及ばない。・・・かの名人と仰がれる画家、彫刻家、音楽家、文士などが、その職業を苦労としないで、楽しみに道楽にやっているのと同様に、すべての人がおのおの職業をその仕事を道楽にするということである。[2,p51]

 いやしくも、成功した人は決してその職業を月給のためや、名誉のためのみでやってきた人でなく、必ずやその職業に趣味(おもしろみ)を持ち、道楽的に勉励した人に相違ないのである。[2,p53]
 
 職業の道楽化によって、自然に富という「かす」が貯まる。本多は、その「かす」の使い方にも工夫がいるという。

 美衣美食はいわゆる物質的享楽で、飽くなき欲望だからいくらあっても足らぬのみか、飲み過ぎ食い過ぎの結果はその身を害し、真の享楽は得られない。・・・しかし、精神的享楽----慈善事業とか社会事業とくに公園、学校、図書館、クラブ、苦学生補助その他の公利公益のためには、いくら金を使っても、身に毫(ごう)も害もなく、かえっていよいよ精神的享楽を増し、自分も人をも幸福にするのである。[2,p74] 

 職業を道楽とし、さらにそこで貯まった「かす」を世のため人のために使って精神的享楽にふける。実際に本多はそういう人生を送り、それこそ真の幸福だと実感した。この体験から本多は「幸福」を次のように定義した。

 幸福とはまず人生すなわち努力(学び働く事)、努力即幸福と悟って、早くより働学併進その職業(あらゆる仕事)を道楽化し、面白く愉快に、いよいよ死ぬまで働き続け学び通す事である。しかもその職業の目的が自分個人のためよりは他のため人類のためである場合が最大最高かつ永遠の幸福である。[2,p37]

 日比谷公園、明治神宮、そして多くの鉄道防雪林、水道水源林、国立・国定公園などは、わが国の美しい国土を形成して、国民の幸福に役立っているが、これら自体が本多静六の「最大最高かつ永遠の幸福」なる人生の所産なのであった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a.

b.

■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 遠山益『本多静六 日本の森林を育てた人』★★★、実業之日本社、H18

2. 本多静六『わが処世の秘訣』★★★、三笠書房知的生き方文庫、S60

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「本多静六 ~ 国土づくりの道楽人生」に寄せられたおたより

 広ノボさんより

 この記事を読んで、奥多摩の今ある森林もご紹介の本多静六をはじめとする先人の手によるところが大きいことを知りました。日本の国土の66%を占める森林は、秋田の白神山地、安芸の宮島などに残るような原始林はほとんどなくて植林によるもの。

 思い浮かべるのは中東のレバノンは名高い「レバノン杉」の産地で古代エジプトの時代からの有用材またギリシャ、ローマ時代には船の建造材としても広く利用されていましたが、その巨大な杉を伐採した後を放置したため森が消滅し、荒涼とした大地のみが残ったと何かで読みました。

 今の日本の豊かな森林の緑は先人のたゆまぬ努力があってのもの、自然のままで森林・山の緑が残っているわけではないことがよく分りました。また、絶え間のない川の流れを必要とする稲作を維持するためでもあったのでしょう。そういえば、富山和子さんの著書の中で先人の植林活動の例として明治初期には禿山だった六甲山の緑の復活が紹介されていました。われわれの先人には本当に頭が下がります。


黄色さんより

 いつも う~~~んと、うなってしまう先人たちを書いていただきありがとうございます。回こんな日本人がいたんだ~~と感心しておかげさまで、ますます、この日本が大好きになりました。

 本多静六さんって「蓄財の神様←お金儲けが上手な人」とのイメージしかありませんでしたが、この号を拝読して本多静六さんの書かれている本を読んで見たくなりました。(渋沢栄一さん・・好きでしたが そこの影に本多静六さんもいたのですね・・・勉強になりました、ありがとうございました)

■ 編集長・伊勢雅臣より

 我々の美しい豊かな国土は、先人の贈り物ですから、これをますます美しく豊かにして、子孫に引き継いでいかねばなりません。

 ドイツとの国際交流を続けている佐賀県鳥栖市の青年会議所で、「国際社会で自分自身を語れますか」と題して、1時間ほどお話をさせていただきました。50人ほどの若手企業人の皆さんが真剣に聞き入ってくれる姿に、こういう人たちがいれば、明日の日本も大丈夫だな、と心強く思いました。

 © 平成18年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.



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