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JOG(466) 徳富蘇峰 ~ 文章報国70余年

近代日本最大のオピニオン・リーダーは、 なぜ忘れ去られたのか。


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■1.忘れ去られた我が国最大のオピニオン・リーダー■

 明治・大正期のベストセラー作家と言えば、まずは夏目漱石が挙げられよう。明治38(1905)年に出版された『我が輩は猫である』は、大正6(1917)年の大蔵書店版で1万1500部も売れている。

 しかし、同時期に出版されて約100万部も売れた本がある。徳富蘇峰(そほう)の『大正の青年と帝国の前途』である。蘇峰は500点を数える著書があるが、そのほとんどが当時のベストセラーか、グッドセラーとなった。

 蘇峰が明治20年、25歳にして発行した雑誌『国民之友』は、創刊号からたちまち売り切れ、再刊、三刊と重ねて1万部を超えた。普通の雑誌の発行部数がせいぜい千部以下の頃である。明治23年に念願の日刊紙『国民新聞』を創刊すると、たちまち当時の5大新聞の一つになる勢いを示した。

 大正7(1918)年、55歳にして執筆を始めた『近世日本国民史』は、昭和27(1951)年までの実に34年間、88歳まで書き続け、100巻を数えた。10巻まで出たところで帝国学士院から恩賜賞を授与され、国史学界の大御所・黒板勝美博士から「国史学界における画期的一大事業」と賞賛された。個人著述の史書としては質量ともに世界有数のものとされている。

 徳富蘇峰は、明治初期から昭和前期までの期間において、我が国の最大のオピニオン・リーダーであった。これだけの人物が現在、ほとんど忘れ去られているのは、どうしたわけだろう。

■2.「言論によって国民同胞を導きたい」■

 蘇峰の名が世に知られたのは、明治19(1886)年、23歳にして『将来の日本』を自費出版した時だった。東京英語学校(第一高等学校の前身)に入学したり、同志社英学校に学び、また父親の関係から勝海舟との知遇も得ていたので、官僚や学者となって立身出世の道に進むことは容易だったはずだ。

 しかし蘇峰の志は新聞記者となり、自らの言論によって国民同胞を導きたい、という事だった。英国の「タイムズ」を理想としたのだろう。しかし日本で本格的に新聞の発行が始まったのは明治5(1872)年だから、まだ十数年ほどの歴史しかない。新聞記者の社会的地位など日本ではほとんど認められていなかった頃である。 『将来の日本』の根底には、欧米列強のアジア侵略への危機感があった。「今日に於いて東洋諸国が欧州より呑滅せらるる所以(ゆえん)のものは他なし、唯(ただ)我は貧にして野蛮なる国にして、彼は富んで文明なる国なるが故なることを」

 列強が誇る軍備は、彼らの「富と智力」の結果である。旧来の少数独裁の軍事型国家では対抗できない。広く産業を起こし、平民が中心の政治、すなわち今日流に言えば民主主義社会によって独立を保つことが「将来の日本」の姿である、と蘇峰は主張した。英国をモデルとした近代化を目指したのである。

 この主張は世間の注目を集め、蘇峰の名は一躍世に知られるようになった。

■3.「国民的驕傲を否定す」■

 翌明治20(1887)年、蘇峰は月刊誌『国民の友』を創刊した。タイトルは同志社時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネーション』から取ったという。

 明治23(1890)年には、いよいよ本来の志であった『国民新聞』の発行を開始した。この時、蘇峰はまだ27歳の青年であったが、ジャーナリズムの世界ではすでに無視できない存在になっていた。

 明治27(1894)年7月に始まった日清戦争において、極東の小国日本が清国に勝利すると、蘇峰はこう論じた。「吾人は清国に勝つと同時に、世界にも打ち勝てり。吾人は知られたり。ゆえに敬せられたり、ゆえに畏(おそ)れられたり、ゆえに適当の待遇を受けんとしつつあるなり」

 西洋列強が跋扈する当時の国際社会において、日本が「眠れる獅子」と恐れられていた清国を打ち破ることによって、国際的な認知を受けた事の喜びが弾んでいる。

 しかし、それは夜郎自大の腕力自慢ではならなかった。「孤立を否定す、排斥を否定す。国民的驕傲(きょうごう、おごりたかぶること)を否定す。満足を否定す」(『国民新聞』明治27年11月7日)として、「世界の文明」と協調した謙虚な姿勢こそ、大国民への道だと主張した。

■4.「速やかに日英同盟を組織せよ」■

 ロシア・ドイツ・フランスからの三国干渉に屈服して、清国から割譲された遼東半島を返還する、という報に接したのは、蘇峰がちょうど現地を視察中の時だった。そして日本軍が占領していた旅順口の小石をハンカチに包んで持ち帰ったという。

 蘇峰は「戦争によりて一夜のうちに巨人となりし国民は、平和談判のために、一夜に侏儒(しゅじゅ、こびと)となれり」(「日本国民の活眼目」、『国民の友』第263号)と描写した。弱肉強食の国際社会の中で、日本はまだまだ非力であることを思い知らされたのである。

 三国干渉から1年後、蘇峰は1年余の欧米歴訪の旅に出る。欧州に向かう船中で「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民の友』に掲載し、ロンドンでは英国の新聞界とさかんに接触して、根回しを行った。日英同盟が締結されたのは、これから6年後のことである。

 モスクワではトルストイを訪問し、この世界的文豪が「人道と愛国心は背反する」と述べたことに対して、反論した。蘇峰は日本が国際社会において「相当の位地」を占め、列国と対等の立場に立つことが大事だとする。日本国民として、国家を通じて世界に寄与するのが自分の本願であり、ロシアのようにみだりに他国を侵略する国の国民であるトルストイとは、意見が異なるのは当然だと考えた。

■5.「引き際が大切なのである」■

 三国干渉とロシアの満洲侵攻から、蘇峰は日露の衝突に備えて海軍を強くする必要があり、そのために増税政策を掲げた松方・大隈内閣を支援して、勅任参事官にまでなった。不人気な政策を説く上に、新聞人が内閣に加わるとは何事ぞという反感から、『国民新聞』はあっという間に発行部数が6分の一に落ちてしまい、新聞社は破産の危機に見舞われた。

 しかし、蘇峰はこの苦境にもめげずに、艦隊増強案を持つ政府を支持し続けた。日露戦争が始まるや、蘇峰の主張が正しいことが明らかになり、購読者数は飛躍的に増大した。

 しかし、戦勝後の講和条件には賠償金もなく、領土割譲も樺太の南半分だけという事に、国民は激高した[a]。蘇峰はこう反論した。

 講和条件が日本国民の理想でないにせよ、しかし宣戦布告の趣旨はすべて達成されているのである。樺太全部と沿海州を取り、バイカル湖を国境として、更に30億以上の償金までもらおうなどというのは、勝利にのぼせ上がった空想であり、そういう理想が実現されないからとてすぐに講和条約を呪うなどと言うのは正気のさたではない。図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。[1,p232]

 講和に賛成したのは、4千万人の日本人中ただ16人、内閣・元老・全権委員の15人と徳富蘇峰ぐらいだと、他の新聞は書き立てた。東京朝日など各紙は一斉に蘇峰と『国民新聞』を売国奴と罵り、暴徒が国民新聞社に押しかけて焼き討ちを図った。社員は二日間も棒や日本刀で防戦に務めた後、ようやく軍隊が出動して囲みが解かれた。しかし、新聞の購読者数は市内で十数分の一まで激減したと言われ、その回復に数年を要した。

 蘇峰は国民の受けなどを意に介さずに、常に自ら正しいと考える所を主張して止まなかった。

■6.日米の親交が世界平和の「中枢」■

 第一次大戦の後、急速に大国として浮上したのは、アメリカと日本だった。そのアメリカは、ハワイ併合、フィリピン領有と太平洋に進出し、日本も朝鮮、満洲に勢力を広げたので、両国の衝突は不可避の様相を呈していた。

 日米の確執は、明治39(1906)年サンフランシスコにおける日本人学童隔離事件に始まり、日系移民の土地所有を禁止する排日土地法を経て、大正13(1924)年の排日移民法によって決定的となった。

 排日土地法は、ヨーロッパ移民には認められていた帰化と土地所有を、日系移民には認めない、としたものだった。「世界の一等国」となったと自負していた日本国民は、面目をつぶされた。

『国民新聞』は、当初、日米の親交が世界平和の「中枢」であると述べて反米ムードを抑える論調だったが、排日土地法の成立に至って、蘇峰は、大和民族が人種と宗教による差別を甘受している事実を直視し、自恃(じじ、自分自身を頼みとすること)の精神を持てと論じた。

 それでも日米戦争不可避の世評を否定して、日米は経済的には「共存共栄」だと強調し、日米戦争」の音楽にみずから踊り出す愚を犯してはならない、と戒めた。

 蘇峰がもっとも困難な敵と見なしていたのはソ連だった。日中戦争の真の敵も中国自体でなく、その背後にいるソ連であると考えた。この見方が正しかったことは、その後の歴史研究が明らかにしている。[b]

■7.「百敗院泡沫頑蘇居士」■

 大東亜戦争が始まると、蘇峰は大日本言報国会の会長に就任して、『興亜の大義』『必勝国民読本』など、戦意高揚を意図した書物を次々に出版した。戦いが始まってしまったからには、勝つために全力を尽くす、というのが、蘇峰の「言論報国」の姿勢だったのだろう。

 昭和20(1945)年8月15日に敗戦を迎えると、82歳の蘇峰は一切の公職から退き、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」との戒名を名乗った。「百敗」して、興国の夢が「泡沫」に帰した、という無念の思いが込められている。

 しかし「頑蘇」すなわち頑固な蘇峰は健在である。東京裁判弁護団に依頼されて執筆した宣誓供述書は『宣戦の大詔に偽りなし』との題名をつけた。

 戦争は日本が望んだものではなく、強いられたものだった。米国は日露戦争後、「賭け馬」を日本から中国に変えた。そして日本に対しては、移民問題、パリ講和会議、ワシントン会議など、事あるごとに力づくの「懲戒」じみた行動をとった。追いつめられた日本は「乾坤一擲(けんこんいってき)の策」に出た。隠忍しなければならないところで我慢できず、相手の「策謀」に乗って敗れたのは日本の「自業自得」だ、と言う。

 蘇峰は8月15日の玉音放送のとき、徳川家康に思いをいたしたという。家康は小藩の領主として、強大な信長に隠忍自重しつつ、攻守同盟を結び、ついに天下を手に入れた。「家康をして今日に在らしめたならば、彼はあらゆる苦情、あらゆる反対に眼を瞑(つぶ)って、米国と攻守同盟を締結したであろう」(『勝利者の悲哀』)と述べた。

 そのような偉大な政治家を持ち得なかった日本の敗戦は、まさに「自業自得」だった。この言葉には自らの言論で、この「自業自得」を避け得なかった無念の気持ちも籠もっていよう。

■8.米国の引いた貧乏くじ■

 一方、勝った米国は、東欧から中国までを勢力圏とするソ連との冷戦に陥り、「世界中の心配を一手に引き受けねばならぬような貧乏籤(くじ)」を引いた。

 日露戦争後に、「もし米国が日本に手を差し出し、日本がその手を握って」いたら、日本は東アジアで一流国として安定し、米国もそんな「貧乏くじ」を引かずに「商売繁盛」していたろう、と推測する。

 米国が「貧乏籤」を引いた原因は、日本をここまでに追いつめた自身のアジア政策の失敗にある。

 今後、占領下の日本を第二のハワイのような属国にすることは、日本人の反発を招き、共産陣営に追いやる道につながる。一君万民の日本的民主主義の発展を支援し、日米提携の道をとるべきだ、と主張した。

 この見方は、米軍の高官や共和党の政治家にも共有化されていたもので[c]、冷戦下において米国の対日政策はこの日米同盟路線に転換された。

■9.70余年に及ぶ「言論報国」の人生■

 蘇峰は、昭和31(1956)年6月まで最後の著書となる『三大人物史』を書き続け、翌年94歳にして、明治19(1886)年以降、70余年に及ぶ「言論報国」の人生を閉じた。

 戦後、蘇峰は「平民主義者から国家主義者に変節した」とか、「戦時中に時局便乗のお先棒担ぎをした」などと罵倒され、やがて黙殺と忘却のうちに葬り去られた。

 戦後のこうした罵倒は、ちょうど日露戦後の講和賛成を各紙がこぞって「売国奴」と非難したのと同じようなもので、蘇峰の思想が間違っている事を立証するものではない。その時代の迷妄が解ければ、どちらが正しいかは自ずから明らかになってくる。

 今頃、蘇峰は草場の陰で、かねてから主張していた「日米同盟」「日米の共存共栄」が現実のものとなっている事を喜んでいるであろう。いかに罵倒されようと、忘れ去られようと、蘇峰にとってはどうでも良いことであったろう。その志はあくまでも「日本が強くなることはとりもなおさず日本国民の幸福」[1,p237]という所にあったからだ。

(文責:伊勢雅臣)

 ■リンク■

 a.

 b.

 c. JOG(096) ルーズベルトの愚行
対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
【リンク工事中】

 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 渡部昇一『腐敗の時代』★★★、文藝春秋、S50

 

2. 米原謙『徳富蘇峰―日本ナショナリズムの軌跡』★★

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