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JOG(485) 田中久重 ~ 日本近代技術の開祖

「精巧な機械を造って新しい日本の建設に役立ちたい」


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■1.日本最初の蒸気船・蒸気機関車の実験■

 安政2(1855)年8月、佐賀の城下町の一角にある佐賀藩精煉方(せいれんかた、理化学研究所)で、蒸気船と蒸気機関車の模型を実際に走らせるという実験が行われた。藩主の鍋島斉正(なべしまなりまさ)をはじめ、重役陣、藩士、藩校・弘道館の学生たちが集まっていた。保守派の人々は「精煉方の物好きが造った蒸気船と蒸気車は本当に走るのだろうか?」などと斜に構えていた。

 池に浮かべられた蒸気船の模型は長さ1メートルほど、外輪式で煙突がついていた。蒸気機関車の方は長さ約40センチで2両の貨車がつなげられ、4メートルほどの円形のレールの上に置かれていた。両方ともアルコールを燃料としていた。

 実験が始まった。蒸気船は大きな池の中を動き回り、蒸気機関車もレールの上を走り回った。保守派の重役陣も、思わず声を上げた。若い弘道館の学生たちは目を丸くした。

 その中の一人の若者に、精練方の主任・佐野栄寿左衛門が、「どうだ? 感想は?」と聞いた。18歳になる大隈八太郎(後の重信)である。大隈はコチコチの勤王論者で、弘道館の儒教を中心とした教育を批判していたので、わざと聞いてみたのである。

 大隈は感動を隠さずに言った。「模型ではもったいない。実際に日本国中を走らせるべきです。こんな凄いものを造る人物が佐賀藩にいたことを誇りに思います。」 大隈は後に明治政府の中心的人物として、鉄道の敷設を進めた。それもこの時の体験が原点だったのだろう。

 大隈の素直な感動に、佐野は喜んでいった。「蒸気船と蒸気機関車を実際に造ったのは、あそこにいる人物だよ」とレールの側に立っている初老の人物を指さした。

 田中久重、この時57歳であった。

■2.「からくり」で、人を喜ばせる■

 久重は、寛政11(1799)年、久留米の鼈甲(べっこう)細工師の家に生まれた。幼名を儀右衛門と言った。子供の時から、父親やその弟子たちが櫛やかんざしを作る作業を見て育った。久重自身も手先が素晴らしく器用で、9歳になって寺子屋に通うようになると、貧しい子供たちのために、硯(すずり)箱を作ってやった。引き出しに紐をつけて、そのひねり具合によって開閉する。「からくりだ、からくりだ」と皆喜んだ。

 自分が知恵を絞り、手を動かして作った「からくり」で、人を喜ばせる事ができて、久重は満足した。そして、もっともっと世の中の役に立つような工夫をしたい、と思った。しかし、子供の久重にそんな機会はなかなか訪れなかった。父親の職場の隅っこに一日中、座り込んで、じっと考え込む日々が続いた。

 15歳になった時、お伝という女性が尋ねてきた。お伝は少女の時に、霰(あられ)の降ったような模様をつける木綿の織り方を発明して、名をなした人物である。お伝は織物に、もっといろいろな模様をつけたいと思って、久重の知恵を借りにきたのだった。

 久重ははずむような思いで、お伝の依頼を受けた。まず機織りの機械を凝視して、その仕組みを理解した。しばらくして、久重は織物に自由な模様をつける独創的な工法を考案した。模様を彫った版木に糸を横巻きにし、版画印刷の要領で、糸に色模様をつける。その糸を横糸として織物にすれば、版木の模様が復元される。こうして開発された新しい「久留米がすり」は、大評判となり、飛ぶように売れた。

■3.「からくり儀右衛門」■

 それから、久重は次から次へと「からくり」を作っていった。
 
 その中でも最高傑作と言われているのは、「茶運び人形」である。これを近くの五穀神社でのお祭りに出し物として披露した。

 幕があがると、60センチほどの振り袖姿の娘人形が登場する。お盆を両手に支え、その上にお茶を入れた茶碗が乗っている。カチャカチャと音を立てながら歩いてくる。内部はゼンマイ仕掛けの三輪車が動いているのだが、両足の前後運動にあわせて頭も前後に動くので、いかにも本当に歩いているように見える。

 そして舞台前面に着くと、「どうぞお茶をおあがりくださいませ」というしぐさをする。一人の客が茶碗をとって、お茶を飲み、空になった茶碗をお盆に戻すと、娘人形はくるりと振り返って、またカチャカチャと戻っていく。

 あまりに見事な人形の動きに場内は一瞬シーンと静まりかえった。人形が楽屋に消えると、観客は互いに顔を見合わせ、「まるで生きている人間と変わらないじゃないか」「いったいどういう仕掛けになっているのだ」などと、声を上げた。

 この評判が口コミで伝わり、「からくり儀右衛門」の名は北九州一帯に広がった。その後、久重は九州一円を回って、各地で興行を行い、ついには大阪にまで進出した。

 大阪の道頓堀でからくり人形の興行をすると、たちまち「九州から来たからくり儀右衛門の人形はすごい」との評判が立ち、我も我もと客が押し寄せてきた。

■4.「本当の生活において、助けになるような発明をしたい」■

 大評判の陰で、久重はある種の空しさを感じていた。それは「どんなに見物人を喜ばせても、結局の所、それは一時の娯楽であり、見物人たちの生活の本筋において助けているわけではない」という思いだった。そして人々の本当の生活において、助けになるような発明をしたい、と思った。

 そこで、久重は大阪の町中を歩いて、何か困っていることはないか、探し歩いた。その答えはすぐに見つかった。夜間の照明である。

 当時の灯火は、行灯や提灯などが使われていた。これらは平皿に菜種油を入れ、それに灯芯を浸して点火する。浅い皿なので、ちょっとした振動で油がこぼれ、火事の心配がつきなかった。その上、始終、油をつぎ足し、灯芯も少しずつ切り取る必要があった。

 明るさも不十分で、夜なべ仕事もできなかった。また商品をよく見ることができないので、夜間の取引もできなかった。

 久重は、文久2(1826)年、26歳にして久留米に戻り、そこでこれらの問題をすべて解決する灯火を発明しようと志した。

■5.人の役に立つ発明■

 久重が開発した「無尽灯」は、高さ60センチほどの細長い銅製の装置で、下部に油槽があり、上部にガラスで覆われた火口がある。油槽から菜種油を圧搾空気で火口に押し上げる。圧搾空気は、上部の芯筒を上下することで得られる。

 従来の行灯より10倍も明るくなり、夜なべ仕事や夜間の取引ができるというので、大阪商人の間で飛ぶように売れた。 次に、消火器の開発にも取り組んだ。天保8(1837)年の大塩平八郎の乱で、大阪の町は放火され、1万2千戸以上が焼け出された。久重の大阪での家も丸焼けになってしまった。当時の消火器は水鉄砲を大きくしたようなもので、もっと良い消火器があれば、多くの家を火災から守れる、と久重は考えたのである。

 久重によって開発された消火器は、4人掛かりの手押しポンプを用いたもので、水がとぎれることなく、9メートル以上も放水できた。この「雲竜水」と名付けられた消火器は、明治年間に蒸気ポンプ式の消火器が輸入されるまで、広く使われた。

 さらに久重は時計作りにも挑戦した。当時は様々な和時計が開発・販売されていたが、久重は一度ねじを巻いたら、1年間止まらない時計を作ろうと思った。それには高精度のゼンマイが必要だが、久留米の刀鍛冶に頼んで作ってもらった。

 約1年かけて完成した「万年自鳴鐘」は、高さ36センチ、一辺が16センチの六角形をしていた。その6つの面で、洋式の12時間時計、昼夜の長さを自動調整する和式時計、七曜表など、6種類の時計が連動して動くという、精巧なものだった。

  和時計の技術は、この「万年自鳴鐘」で絶頂に達したと言われている。 こうして「からくり儀右衛門」は、人の役に立つ発明を次々と世の中に送り出していった。

■6.近代的な海軍力構築を目指していた佐賀藩■

 嘉永3(1850)年、久重は52歳にして、京都の30余歳の若きオランダ学者・広瀬本恭の門を叩いた。西洋の技術を学んで、さらに進んだ発明をしようと志したのである。この広瀬本恭の門下に佐賀藩から学びに来ていた佐野栄寿左衛門がいた。

 佐野は久重よりも20歳以上も若かったが、日本一の技術を持ちながらも、天真爛漫な子どものような精神を持つ久重に親しみを感じた。

 そしてある日、佐野は「佐賀に来て、藩公のために田中さんの科学知識や技術を大いに活用していただきたい」と切り出した。久重は自分の技術が、国家公共のために役立てる良い機会だと、佐野の申し出を受け入れた。

 こうして久重は、嘉永5(1852)年、肥前佐賀藩で佐野が主任を務める精煉方に籍を置いた。佐賀藩は幕府から長崎防衛の任務を与えられており、藩主・鍋島斉正公はひたひとと押し寄せる西洋諸国に対抗して、佐賀藩独自で近代的な海軍力を築こうとしていた。

 佐野はオランダ製の小型蒸気船を買い入れ、久重を筆頭とする技術陣に解体させた。彼らはオランダの原書とつきあわせながら、蒸気船の構造を学んだ。そして、3年後には、冒頭で紹介した模型の蒸気船と蒸気機関車の実験にこぎつけるのである。 

■7.日本初の国産蒸気船■

 模型が成功したので、佐野は次のステップとして、いよいよ本物の蒸気船建造に取りかかった。時あたかも長州藩が米英仏蘭の4カ国艦隊と砲撃戦を行ったり、薩英戦争が勃発したりと、多事多難な時期であったが、佐賀藩は着々と蒸気船建造を続けた。約2年ののち、慶応元(1865)年に完成した船は長さ約18メートル、幅3メートルの木製外輪船であった。

 鍋島公は、この船に「凌風丸」と名付け、慶応3(1867)年には、自ら船に乗り込み、近海を航行させた。日本で最初の国産蒸気船である。船上で鍋島公は久重を呼び、「よくここまで精を尽くしてくれた。礼を言う。私も日本国内において鼻が高い」と褒めた。久重は感涙にむせんだ。

 ちょうどこの頃、幕府でも江戸前の石川島で軍艦千代田を建造中だったが、気罐が動きが思わしくなかった。佐賀藩に優れた技術者がいる、と聞きつけた幕府は、千代田向けの気罐とその他2基の気罐製造を佐賀藩に依頼した。当然、久重が担当した。 

 久重は、もはや「からくり儀右衛門」ではなかった。国家のために奉仕する近代的技術者であった。生地の久留米藩からも軍備の近代化のために戻ってきて欲しい、という要請があり、久重はやむなく佐賀藩と久留米藩の両方に籍をおいて、活動を続けることとなる。

 明治元(1868)年3月22日、即位されたばかりの明治天皇は、大阪湾で諸艦船の観艦式を行った。旗艦は佐賀藩の「電流丸」。オランダから購入した蒸気船だが、久重が気罐の修理を行った船である。従うは久留米藩の千歳丸以下、山口藩、熊本藩、薩摩藩からの蒸気船5隻。千歳丸は久重が久留米藩の買い付け役として購入した船だ。この日本で最初の観艦式の様子を伝え聞いた久重は、自分の奉公が実を結んだ事を嬉しく思った。

■8.新しい日本の建設に役立ちたい■

 明治6(1873)年、久重は東京に出て、工場を構えた。翌年、久重はモールス電信機の製造に成功した。久重の作った電信機は、輸入品と違わぬ精巧さを持ち、操作性はそれ以上だったので、すべて工部省が購入し、全国の電信所に設置された。電信は明治6(1873)年に東京と長崎間が開通したばかりだったが、その翌年には、早くも国産の電信機が使われ始めたのである。「田中久重の工場のおかげで、これからは欧米から電信機を輸入する必要はない」と関係者は鼻高々だった。

 もう一つの久重の重要な発明は、生糸の試験器だった。開国後の日本で貴重な外貨を稼いでいたのは生糸だったが、「輸出する生糸は優良なものでなければならない」と明治政府は考えて、久重に試験器を作らせたのである。

 久重は自分の工場の前に「万般の機械考案の依頼に応ず」という看板を掲げた。そして様々な機械の開発に携わっている職人や技術者たちの相談に乗った。ここから「機械のことなら、田中先生は何でも相談に応じてくださる」と大変な評判となった。

 時には、昔、久重が作ったからくり人形に、さらに工夫を加えれば、さぞかし大当たりになるでしょう、と提案してきた人もいた。久重は、こう言って断った。 
ああいう子どものおもちゃには今の私はまったく興味がないし、またそんな暇もない。これからは、精巧な機械を造って新しい日本の建設に役立ちたいと思って、こういう看板を立てたのです。

■9.「人間に奉仕する技術者精神」■

 久重は明治14(1881)年に83歳にして亡くなった。その数年前に工場はそっくり工部省に買収されていたが、養子に迎えられていた二代目久重は、明治15(1882)年に芝金杉新町に大きな工場を建てた。この工場では電信、電話、電池、火薬砲など、当時の日本の技術界の最先端をいく製品を送り出した。

 明治26(1893)年、三井家がこの工場を買収し、「芝浦製作所」と改称した。これが後の東京芝浦電気、現在の東芝の発祥である。しかし、東芝は初代久重が開いた工場を「東芝の原点」としている。初代久重の「人間に奉仕する技術者精神」を「東芝の初心」として、経営の基盤にしているからである。

 久重は日本における近代技術の開祖とも言うべき人物であるが、その長く実り豊かな一生は、「新しい日本の建設に役立ちたい」という報国の志を原動力にしていたのであった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(274) 日本の技術の底力 幕末の日本を訪れたペリー一行は、日本が工業大国になる日は近いと予言した。
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) 

1. 童門冬二『小説 田中久重―明治維新を動かした天才技術者』★★★集英社、H17

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■「田中久重 ~ 日本近代技術の開祖」に寄せられたおたより

icchi1966さんより
 東芝に入社して20年、現在は分社された会社の勤務ですが、創業が田中久重氏から始まっているのを知ったのは入社してからのことでした。

 このような形で、自分が最も尊敬できるメルマガで紹介されたことを誇りに思い投稿させて頂きました。

 本当に世の中(お客様)に役立つ製品を送り出そうとう気概は、いまも確実に東芝内に受け継がれていると思います。 

 創業者の精神を受け継ぎ、謙虚に開発に携わって行きたいと思います。 ありがとうございました。

■ 編集長・伊勢雅臣より 
 
 先人への感謝が志を生みます。 

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