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【YouTube版】二宮金次郎と「積小為大」

 二宮金次郎の農村復興事業が、日本人の勤勉な国民性を形成した。

■1.「学者につきあっている暇はない」」■

 天保10(1839)年6月1日、相馬藩(現在の福島県相馬市)藩士の富田高慶(こうけい、26歳)は、二宮金次郎に弟子入りを頼もうと、やってきた。

 富田は相馬藩の財政難を救いたいという志を持って、江戸に出て儒学を学び、数年にして師の代講ができるほど学業は進んだ。しかし、相馬藩の財政問題を解決できるような実践的な教えには出会えなかった。

 そんな時、金次郎が村々の復興に着々と成果を上げていると聞き及び、「それこそ自分の求めている師に違いない」と身の周りを整理して、金次郎のもとを訪れたのである。

 しかし、金次郎は「儒者や学者に会う必要はない」とにべもなかった。「自分は荒廃した農村を復興し、衰亡していく農家を救うのに忙しいのだ。理屈屋の学者につきあっている暇はない」と会ってもくれなかった。その後、数日おきに4度も訪問したが、面会を許されなかった。それでも富田はあきらめることなく、近くの村に漢学の寺子屋を開き、それで生計を立てながら、面会の機会を待ち続けた。

 待つこと4か月。ついに金次郎もその熱意に打たれて「それでは会ってみようか」と初対面が実現し、その場で入門を許した。金次郎がなかなか面会を許さなかったのは、相手の真剣さを試すためであった。

【続きは本編でご覧ください】


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