JOG(169) 欧州合衆国案の母・クーデンホフ光子
欧州連合の原案を提唱したカレルギー伯爵は、日本人として誇りを抱く光子に生み、育てられた。
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■1.欧州合衆国の理想■
ウィーンの街は、王宮、市庁舎、オペラ座、シュテーファン大寺院、そしてやや郊外にあるシェーンブルン宮殿と、重厚かつ壮麗な建築物に富み、650年も続いたハプスブルグ王朝の盛時を今も偲ばせる。
19世紀にはオーストリア・ハンガリー二重帝国として12もの多民族を抱えていたが、民族独立の風潮の中で、1914年、皇太子フランツ=フェルディナンドがセルビアの一青年に暗殺されたことを契機に、ヨーロッパ全体を巻き込む第一次大戦となった。
死傷者3千5百万人もの犠牲を出して大戦は1918年に終わったが、このような悲惨な戦争を二度と起こさないためには、欧州の諸民族が平等に結束して、一つの共同体となる以外にない・・・第一次大戦後にそう主張して、今日のEU(ヨーロッパ連合)の起源となる案を提唱した人物が、オーストリアに現れた。リヒャルト・クーデンホフ・カレルギー伯爵である。このリヒャルトを生み、育てた母親は日本人で、光子という。
■2.ハインリッヒと光子■
明治25(1892)年2月29日、オーストリア・ハンガリー帝国の代理公使として、青年貴族ハインリッヒ・クーデンホフ・カレルギーが来日した。クーデンホフ・カレルギー家はハプスブルグ王家に近い名家であり、現在のチェコに広大な所領を持つ大貴族であった。
その世継ハインリッヒは華麗な軍人生活を送っていたが、愛好するショーペンハウエルの影響で仏教の研究をしたいと思い、日本に来ることを熱望していたのである。
来日早々、牛込の坂を馬で登っていた所、乗馬が路上の氷に足を滑らせて横転し、ハインリッヒもしたたかに体をうった。それを目撃した青山光子は臆する所無く、家の者を呼んで救護し、医者に手当をさせた。
かいがいしく看護する光子の姿は、ハインリッヒの心を打ち、感謝の意も含めてオーストリア公使館に勤めてはくれないか、と頼むと、すぐに応諾した。出会って半月もたたない3月16日に二人は結婚届けを出している。まさに運命的な出会いであった。
■3.外交官夫人■
当時は人種差別が公然と行われていた時代である。日本は極東の未開な一小国として見られていた。光子はそんな日本の、しかも平民の出身である。ハインリッヒは、東京・横浜に居留する全ヨーロッパ人に次のような宣言を伝えた。
もし、わが妻に対して、ヨーロッパ女性に対すると同等の取り扱い以外を示す者には、何人を問わず、ピストルによる決闘をいどむ。
これに関して、ベルギー公使のダヌタン男爵は、次のように日記に記している。
■4.日本人の誇りを忘れないように■
明治29(1896)年、ハインリッヒは足かけ5年に及ぶ日本滞在を終え、帰国した。その年の正月に二人は宮中参賀に招かれている。光子が母国日本を去る前に、せめて最上の光栄の思い出を作ってやろうという思い遣りもあったのであろう。光子は皇后陛下から次のようなお言葉を賜った。
遠い異国に住もうとなれば、いろいろ楽しいこともあろうが又随分と悲しいことつらいこともあろう。しかしどんな場合にも日本人の誇りを忘れないように―。宮廷衣装は裳を踏んで転んだりすることがあるから気をつけたが宣い。
二人は、現在はチェコに属するボヘミア地方の広大な領地の丘にそびえる古城ロンスペルグに落ち着いた。ハインリッヒはちょうど父が亡くなり、一族の長となったので、外交官生活から退き、大地主として領地の管理に専念することにした。
一族の親類知己は、東洋の未開国から連れられてきたアジア人女性に冷たい目を向けた。小姑たちは光子の着こなしや立ち居振る舞いという末梢的なことでチクリチクリとあてこすったりしたので、光子はつらさのあまり何度も日本に逃げ帰ろうと思った。
そのような時に、光子を励ましたのが「日本人の誇りを忘れないように」という皇后陛下のお言葉だった。そして「裳を踏んで転んだりすることのないように」という一見些末な注意が、貴族社会で生きていく上で、いかに大切なことか、身にしみて分かった。
■5.女学生の生活■
ある日、子供が教科書を開いて自習している時に、「お母様、これは何でしたっけ」と光子に聞いたが、日本で尋常小学校しか出てない光子には答えられない。光子は、はっと思った。「これではいけない」 ヨーロッパ人の母なら当然心得ている事を、自分が知らないのでは、日本女性の名折れである。
そこで光子が考えたのは、自分も家庭教師について、子供より先に勉強しておき、子供から何を聞かれても答えられるようにしておく、ということであった。さらに周囲に馬鹿にされないための語学や教養も必要だ。次男のリヒャルトは、自伝でこう回想している。
母は一家の主婦としてよりも、むしろ女学生の生活を送っていて、算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、フランス語、歴史、および地理を学んでいた。その外に、母はヨーロッパ風に座し、食事をとり、洋服を着て、ヨーロッパ風に立ち居振る舞いすることを学ばなければならなかった。
睡眠時間を削ってまで、立派な母親となるために勉強に打ち込む光子の姿は、子どもたちの心に深い影響を与えたようだ。後にこのリヒャルトは、ヨーロッパ合衆国の実現に向けて、終生たゆみない研究と運動を続けていくことになる。
■6.これからは自分でいたします■
1906年、夫ハインリッヒが急死した。わずか14年の夫婦生活であった。異国に一人残された光子は、今まで二人で築いてきた世界が足もとから崩れ去っていくような気がした。
しかし、悲しみに浸っているひまはなかった。ハインリッヒは遺書で、長子ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする他は、いっさいの財産を光子に贈り、子どもたちの後見も光子に託されるべし、と書き残していたのである。
広大な領土と厖大な財産の管理を、未開国から来た一女性に任せておけるはずもない、と家族親戚は驚愕狼狽した。しかし、光子はそんな周囲に断固として言い切った。「これからは自分でいたします。どうぞよろしくご指導願います」
日本女性がこのような任につくには不適当であると、裁判まで起こされたが、光子は自ら弁護士を雇い、時間はかかったが、訴えを退けた。
光子は、法律や簿記、農業経営の勉強もして、領地財産の管理を自ら立派にこなしていった。さらに亡夫の精神に沿って、立派なヨーロッパ貴族として子どもたちを育てようと、育児にも打ち込んだ。長男ハンスは13歳、次男リヒャルトは12歳。子どもたちが成年に達するまでは、日本に帰ることをあきらめよう、と光子は決心した。
表面はけなげな伯爵未亡人として、領地の管理や育児に忙しい毎日を送っていたが、望郷の念はやむことはなかった。時折日本の着物を着て、何時間も鏡の前に座っている時が、最も美しく見えた、とリヒャルトは回顧している。また正座して毛筆で巻紙に両親宛の手紙を書くことが唯一の楽しみで、毎週一通は出していた。
老年になってからの和歌である。「私が死んだ時は、日本の国旗で包んでもらいたい」と口癖のように言っていたという。
■7.オーストリアの愛国者として■
1914年、第一次大戦の勃発に、光子は胸をさし貫かれる思いをした。日本は日英同盟から英国に加担し、極東でのドイツ軍と戦端を開いたが、オーストリア・ハンガリー帝国とは戦うべき理由もなく、友好関係を維持したいと願っていたのだが、国交断絶を言い渡された。
両国間で実際の干戈を交えることこそなかったものの、開戦当時はヒステリックな反日感情が沸き上がった。ウィーンにいた外交官や留学生などもみな国外退去して、光子はこの広大な帝国にただ一人残る日本人となってしまった。
日露戦争の時は、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアに威圧されていたので、日本の連戦連勝に国中がわき上がり、仲間の貴族や領民が次々と光子のもとにお祝いにかけつけたのだが、今度は敵国となってしまったのである。
光子は長男と三男を戦線に送り、自らは3人の娘を連れて、赤十字に奉仕した。光子らの甲斐甲斐しい看護ぶりに、人々は好感を抱いた。
さらに領地の農民を指揮して、森林を切り開き、畑にして大量の馬鈴薯を実らせた。光子は収穫した馬鈴薯を、借り切った貨車に詰め込んで、男装して自ら監督しつつ、国境の戦線にまで運ばせた。
前線でロシア軍に苦戦していたオーストリア軍の兵士達は食糧難に悩まされていたが、「生き身の女神さまのご来臨だ」と、塹壕の中で銃を置いて、光子を拝んだ。馬鈴薯作りは終戦まで続き、周囲の飢えた民を救うのにも役だった。
■8.名誉と義務と美しさ■
大戦後、「民族独立」のスローガンの中で、オーストリア・ハンガリー帝国からは、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどが新国家として独立し、ポーランドやルーマニアにも領土割譲されて、解体の憂き目にあった。
大戦で疲弊した上に、28もの国家がアメリカの2/3ほどの面積でひしめき合い、民族対立の火種を抱えたままでは、いずれヨーロッパに第二の大戦が起こり、世界平和をかき乱す禍の元となってしまう。
ウィーン大学を卒業していた次男リヒャルトはこう考えて、1923年、著書「パン・ヨーロッパ」を発表した。ヨーロッパの28の民主主義国家が、アメリカのような一つの連邦国家としてまとまるべきだ、という大胆な提案だった。
リヒャルトの理想に、人々は、分析を特徴とする西洋思想に対して、総合・統一という東洋的考え方を感じ取った。そしてその著者の母は日本人であるという驚くべき事実が伝えられてくると、さまざまな新聞が光子に新しい名称を贈った。曰く、「欧州連合案の母」、「欧州合衆国案の母」、「パン・ヨーロッパの母」、、、
リヒャルトの生涯をかけたた理想と運動は、その後もヨーロッパの政治思想に大きな影響を与え、第2次大戦後のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、そして現在のヨーロッパ連合(EU)と着実に発展を遂げつつある。
1941年8月28日、光子は卒中発作で、突然、しかし静かに亡くなった。母国を離れて45年目であった。リヒャルトは母についてこう述べている。
彼女の生涯を決定した要素は3つの理想、すなわち、名誉と義務と美しさであった。ミツ(光子)は自分に課された運命を、最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「クーデンホフ光子伝」★★★、木村毅、鹿島出版会、S51.2
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