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JOG(538) 国作りは人作り ~ 山川健次郎(上)

会津の白虎隊士・山川健次郎が多くの人々に助けられて、エール大学を卒業するまで。


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■1.「会津の少年を書生に使ってくれるよう」■

「秋月先生、こたびはつらい戦争をされましたなあ」と奥平謙輔は言った。「無残きわまりない戦争でした。女子供も武器をとって戦い、死んでいきました」と秋月悌次郎は答えた。

 時は明治元(1968)年、会津落城の直後、所は越後の水原(すいばら)であった。二人は8、9年ぶりの再会であった。かつて会津藩士・秋月悌次郎が萩を訪れた時、当時19歳の長州藩士・奥平謙輔が詩文の添削を頼んだのが、縁の始まりだった。

 戊辰戦争では奥平は二十代の青年だったが、長州干城隊参謀として越後攻めを指揮し、戦後はこの地の鎮撫に忙殺されていた。そして秋月の身を案じて、手紙を出した。そこで秋月は、会津落城後、猪苗代に謹慎していたが、密かに抜け出して、越後までやってきたのだった。

 秋月は会津藩主・松平容保の救済、および藩士とその家族2万人の生計の道を涙ながらに訴えた。奥平は深く同情して、助力を約束した。「この際、もう一つ、お願いがござる」と秋月が言った。「なんなりと申し出てください」と奥平が答えると、秋月は会津の少年を書生に使ってくれるように頼んだ。

 今の会津藩は罪人として謹慎中であり、子弟の教育もままならない。藩の再興は次代の少年たちに託すしかない。そのためには、勉学の場を与えることが必要だ、と秋月は考えたのである。「なるほど。分かりました。お預かりしましょう」と、奥平は約束した。これほどの窮地に陥っても、次世代の教育を案ずる秋月の見識に、心打たれたのだろう。「かたじけない。本当にかたじけない」と秋月は声をつまらせた。

■2.「かならずや会津のために役立つ人間になるのです」

 書生として選ばれた一人が15歳の山川健次郎だった。山川家は中流武士の家柄だったが、健次郎の祖父・山川兵衛は家老にも抜擢された人物だった。父はすでに病没していたが、家督を継いだ兄・大蔵(おおくら)が若年寄として、存亡の危機に立った会津藩を支えていた。

 籠城の際には、健次郎も城内にいて白虎隊士となっていた。落城の時に、白虎隊士20名が飯森山で自決するという悲劇が起きたのだが、健次郎は年少のため城内に残されていて助かったのである。

 健次郎は明治元(1868)年11月13日、雪の降りしきる晩に、もう一人の少年と猪苗代を脱出した。翌々日、家族が身を寄せている水谷地村に立ち寄った。「健次郎ではないか」と母は絶句した。祖父が二人の姉たちに支えられて出てきて「健次郎か、健次郎か」と涙をこぼした。

 これから越後に行って書生となることを語ると、二人の姉はたいそう喜び、「死にもの狂いで勉強し、かならずや会津のために役立つ人間になるのです」と言った。

 祖父は「爺いも年をとった。もうお前には会えないかも知れぬ。これが形見じゃ」と言って、いつも腰につけている愛刀を健次郎に手渡した。健次郎は刀を掴んで、泣いた。

 祖父は、籠城中でも「いずれ戦争は終わる。そうなれば学問が大事になるのじゃ」と言って、健次郎にフランス語の勉強を命じたような人物であった。

 健次郎は商人の小姓に扮し、刀はその荷物に隠して越後に向かった。途中、何度か詮議されたが、なんとか辿り着くことができた。

■3.恩人・奥平謙輔■

 健次郎らは奥平のいる佐渡に渡った。当時は賊軍の会津人は罪人であり、その罪人の子弟を堂々と書生に連れてきたのである。しかも「会津は立派に戦ったものよ」と開け広げに語っていた。

 奥平は時には健次郎らに、吉田松陰のことを話した。

 先生は身分差を一切無視した方であった。人間は皆、平等じゃと説かれた。ただし怒ると怖い人で、勉強をせぬと紙と筆を奪って庭に投げ捨て、死を恐れずに進むべしと怒声をあげた。

 やがて、奥平は新潟に戻り、さらに翌明治2(1869)年夏には健次郎らを連れて、東京に戻った。東京では健次郎は奥平とともに、長州藩江戸屋敷の一角に住んだ。

 しかし数ヶ月のうちに、奥平は明治政府内での権力争いに嫌気がさして、長州に戻ることになった。出発の朝、奥平は、数冊の漢籍と荻生徂徠(おぎゅうそらい)の本を健次郎らに贈った。健次郎は敵軍の子弟である自分たちにここまで面倒見てくれた奥平に心底、頭が下がった。

 奥平とはこれが最後の別れになった。奥平は明治9(1876)年に萩の乱の首謀者として捕らえられ、斬首される。その日以来、健次郎は恩人・奥平の書を自分の部屋に飾り続けた。

■4.「アメリカに留学せよ」■

 健次郎は奥平の言いつけにしたがって、越後の大庄屋の世話になり、その土蔵にある万巻の蔵書を読んで勉強に励んだ。明治3(1870)年春、会津藩の人々も罪を許されて、斗南藩(現在の青森県むつ市)3万石として再出発を許された。

 斗南藩の兄・大蔵から手紙が来たのは、その秋のことだった。「アメリカに留学せよ」と、夢のような事が書いてあった。

 北海道開拓使次官の黒田清隆は「おいどんが思うに若い者をアメリカに留学させ、そこで学んだ知識と体験を大いに活かして開拓に当たらせねばならん」と、強引に北海道開拓のための留学生派遣を実現させた。そして「北海道は寒い、薩長の子弟だけではだめだ。賊軍である会津と庄内からも選ぶべきだ。反対はおいどんが許さぬ」とぶちあげた。

 黒田の要請を受けて、兄・大蔵が健次郎の派遣を決めたのだった。健次郎は兄がいつも自分のことを考えてくれていることに、いまさらながら頭が下がった。そして長州の奥平謙輔先生がこの事を知ったら、どんなに喜んでくれるだろうか、と思うと、涙が止まらなかった。

 先に長州人・奥平謙輔の恩を受け、今度は薩摩人・黒田清隆の英断で、米国留学の機会を与えられた。これらの人々にとって、国家有為の人材を育成するには、薩長も会津もなかったである。

■5.「山川、お前は勉強せねばいかんぞ」■

 明治4(1871)年正月元旦、黒田に引率された健次郎らを乗せた汽船「ジャパン号」は横浜港を出て、一路アメリカ西海岸を目指した。

 健次郎は片言の英語を使って外国人に話しかけ、何でも聞いた。船員たちはみな親切で、「ボーイ、ボーイ」と健次郎を呼んで、英語を教えてくれた。

 サンフランシスコからは大陸横断鉄道に乗った。煙を吐いて矢のように走る汽車には、腰が抜ける思いがした。「山川、お前は勉強せねばいかんぞ。会津人は苦労しているんだ。分かってるな」と黒田は健次郎には特に目をかけてくれた。健次郎は黒田の言う意味が痛いほど分かっていた。

 日本のための留学ではあるが、極寒の斗南で苦労している会津の人々の期待を健次郎は一身に担っていた。石にかじりついてでもアメリカの大学を卒業して日本に帰り、日本のため会津のために、何事かをなさねばならなかった。

 問題は、何を勉強するか、だった。会津の武士道は立派だったが、兵備は西洋式の薩長に遅れをとった。「これは理学が足りなかったせいではないか」と健次郎は考えた。理学とは今日の科学技術のことである。

 会津だけではない。日本が西洋列強の武力・経済力に遅れをとっているのも、理学が足りないせいである。蒸気船にしろ汽車にしろ、すべて科学技術の所産だ。健次郎は決心した。

■6.「いい加減なことをしたら国辱ものだ」■

 健次郎が移り住んだのは、ニューヨークから150キロほども北西に入った人口1万人の田舎町ノールウィッチで、そこの中学校に入学した。日本人は一人もいなかった。「ケンジロウ、なにも心配することはない」

 ハチソン校長は東洋の島国から来た18歳の留学生を温かく迎えてくれた。合衆国の地理や歴史、ラテン語、算術などをすべて英語で勉強するのだから、大変である。健次郎は無我夢中で勉強した。3カ月もすると相手の言葉を聞き分けられるようになり、半年が過ぎると会話にも不自由しなくなった。

 そんな健次郎をハチソン校長は支え続け、健次郎の個人指導も買って出てくれた。

 1年後の1872(明治5)年夏、健次郎はエール大学付属のシェフィールド理学校に見事合格した。ハチソン校長は我が事のように喜んでくれた。

 この年の晩秋、わずか12歳の妹の捨松が、日本人初の女子留学生の一人として健次郎の元にやってきた。女子留学生の派遣も、黒田清隆の発案だった。捨松はアメリカ人牧師の家に下宿し、そこの娘と仲良しとなって、元気一杯のおてんば娘に育っていった。捨松は11年後に帰国し、薩摩出身の参議陸軍卿・大山巌の夫人となる。

 エール大学には何人かの日本人留学生がいたが、皆、日本の将来は我々が築く、という意気込みで勉強していた。そんな中でも健次郎は「いい加減なことをしたら国辱ものだ」と、謹厳な先輩格になっていった。

 そんな中で斗南に移住した人々が開墾に失敗し、全国にちりぢりになっていった事を知ると、健次郎は涙が止まらなかった。

■7.「証文を書きなさい」■

 日本政府は多くの留学生をアメリカに送り込んでいたが、遊び半分の学生もかなりいて、国費の無駄使いであると、日本国内で問題になっていた。なかなか実態も分からないため、留学生は成績に関係なく、いったん帰国させる、という乱暴な結論が出された。

 健次郎は窮地に立たされた。学業半ばで帰国するわけにはいかない。そんな時、同級生が「ケンジロウ、私の叔母に会ってくれ」と声をかけてくれた。叔母・ハルドマン夫人は大富豪だという。

 夫人は健次郎の身の上を聞くと、「オーケイ、心配しないで下さい。ただし条件があります」と言った。「どのようなことでしょうか」と健次郎が緊張した面持ちで聞くと、ハルドマン夫人は「証文を書きなさい」と言う。「はい、どのような証文でしょうか」「学業を終えて帰国したならば、心を込めて国のために尽くすことを誓うのです。ケンジロウ、そう書くことが出来ますか。」

 もちろんである。自分は会津のため、祖国のために役に立ちたいからこそ、必死で勉強しているのである。夫人は、健次郎の書いた証文を読んで、ニッコリ笑い、健次郎の手を握って「頑張りなさい」と言った。

 ハルドマン夫人の援助によって、健次郎はシェフィールド理学校を優秀な成績で卒業し、さらにエール大学に進んで学士号を得た。「ケンジロウ、おめでとう」とハルドマン夫人は誰よりも喜んでくれた。

■8.「死ぬ気で頑張ったな」

 健次郎がアメリカ留学を終えたのは、明治8(1875)年5月であった。22歳の青年になっていた。わずか4年半で中学校からエール大学の卒業までこぎつけたわけで、健次郎がいかに努力したか、がよく分かる。

 洋服姿の健次郎を見て母は絶句した。「なんと立派になったこと」と涙ぐんだ。「死ぬ気で頑張ったな」と兄も賞めてくれた。祖父の位牌に帰国の報告をした。

 米国の名門大学の学士号を携えての帰国だったので、就職先はすぐに決まった。本来は北海道開拓のための留学だったが、物理学を学んだことで、東京大学の前身・東京開成学校の教授補に任ぜられた。■9.健次郎を導き、助けてくれた人々■

 健次郎は15歳の白虎隊士から、22歳にしてエール大学学士となったのだが、それは何人もの人々に導かれ、支えられてきたお陰だった。

 まずは書生として勉学の機会を与えるよう頼んでくれた秋月悌次郎、それに応えて長州人ながら賊軍の子弟を世話してくれた奥平謙輔、会津人にも留学の機会を与えてくれた薩摩人・黒田清隆。米国に渡った後、健次郎を支えてくれたハチソン校長やハルドマン夫人。

 まるで、健次郎の一身に期待を寄せる会津の人々の執念が、こうした人々を操りでもしたように、次々とタイミング良く現れては、健次郎を助けてくれたのである。

 あるいは、会津の人々の期待になんとか応えようと必死に勉強する健次郎の姿勢が、そうした人々の助けを引き寄せたのか。

 いずれにせよ、ここから健次郎の教育者としての長い人生が始まる。健次郎は我が身に受けた恩を何倍にもして、郷里と国家のために返していくのである。

(次号に続きます)

(文責:伊勢雅臣)

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

 1. 星亮一『山川健次郎の生涯』★★★、ちくま文庫、H19

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