JOG(688) 義に生きる ~ 台湾を救った根本博・元中将(上)
∂国共内戦で台湾まで危なくなった時、「自分が行かねば」と根本・元中将は立ち上がった。
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■1.「自分たちがあの戦争で死ななかったのは、ある日本人のお陰だ」
福建省厦門(アモイ)市は、さすがに台湾の対岸らしく、台湾では「原住民」と呼ばれている民族と同様の色黒の人々が目につく。そのアモイの港からわずか2キロの海上にある金門島は、台湾領である。
台湾からは180キロもあるが、この金門島が台湾領であるがために、台湾海峡の両側は台湾領土となっており、台湾、そして日本のシーレーンの安全上、戦略的な価値は計り知れない。
金門島は四国のような形をしているが、その西北端にある古寧頭村は、蒋介石の国府軍と毛沢東の共産軍の最後の激戦である金門戦争が行われた土地であった。
台湾の金門戦争の研究家・管仁健は現地を調査していて、次のような発見をした。
根本元中将がどのような動機でどのように台湾を救ったのか、その足跡を辿ってみたい。
■2.「私が身命を賭して守り抜く」
昭和20(1945)年8月15日の敗戦の日を、根本は北京の北西150キロほどにある張家口で迎えた。張家口は万里の長城のすぐ外側にあり、そこから先は内モンゴルの地である。根本はモンゴルの大部分を警備する駐蒙軍の司令官であった。
ラジオから流れてきた昭和天皇の玉音は、9年前の北海道での陸軍特別大演習で、巡視中の陛下から「将兵はみな元気か?」と直接かけられたお声そのままだった。
玉音放送の後は、根本がマイクに向かって、「彊民(地元民)、邦人、および我が部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です」と語りかけた。玉音放送の直後だけに、根本の声はモンゴル地区に散在していた日本人居留民たちを安心させた。
放送の後、根本は全軍に命じた。「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」
本国からは武装解除命令が出ていたが、ソ連軍の本質を見抜いていた根本中将はそれに従わなかった。日本軍が武装解除すれば、ソ連軍は邦人に対して略奪、虐殺、強姦の限りを尽くすだろう。6日前の8月9日から満洲に侵入してきたソ連軍の蛮行は刻々と伝えられていた。
本国からの武装解除命令を無視してソ連軍と戦うことは、戦勝国からは「戦争犯罪」とされるが、根本中将はその責任は自分一人で負えば良いと覚悟していた。
司令官の断固たる決意に、駐蒙軍の将兵も闘志を燃やし、攻め込んできたソ連軍と激戦を展開した。8月15日、16日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、駐蒙軍の頑強な抵抗によって、戦車15台の残骸を残して退却していった。
■3.4万人の日本人居留民を脱出させる
駐蒙軍の目的はただ一つ、侵入してくるソ連軍と戦って、時間を稼いでいる間に4万人の居留民が安全に引き上げる時間を作ることだった。
張家口から脱出した当時25歳の早坂さよ子さんは、当時の体験をこう語っている。
根本率いる駐蒙軍がソ連軍と激しく戦っている間に、4万人の居留民は、こうして無事に引き揚げる事ができたのだった。
8月21日の午前中に、居留民の撤退が完了したという報告があがり、その夕刻から夜にかけて、駐蒙軍にもひそかに撤退命令が下された。将兵は、途中、生のトウモロコシなどを食べながら、歩いて北京に向かった。
■4.蒋介石への感謝
その後、根本は北京に留まり、北支那方面の最高責任者として在留邦人および35万将兵の祖国帰還の指揮をとった。
その年1945(昭和20)年12月18日、根本は中華民国主席・蒋介石の求めに応じて面会した。蒋介石と最初に会ったのは、陸軍参謀本部の支那研究員として南京に駐在していた1926(大正15)年、南京においてであった。二人は共に「東亜の平和のためには、日中が手をつないでいかなければならない」との理想を同じくしていた。
蒋介石が北京に乗り込んできて、根本中将に会いたいと使者をよこした時、根本中将には蒋介石に対して、言葉では尽くせない感謝の気持ちがあった。
一つには、在留邦人、将兵の帰国は、国府軍の庇護と協力によって無事に行われているのであり、それは満洲を略奪し、数十万と言われる日本人捕虜をシベリアに連れ去ったソ連とは対照的であった。
もう一つは、1943(昭和18)年11月に行われた「カイロ会談」で、蒋介石がアメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相に対して、日本の戦後の国体に関して、「我々は日本国民が自由な意思で自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」と主張し、賛同を得たことである。ここから天皇制存続の道が開けていった。[a,b,c]
■5.根本の約束
根本は、椅子が二脚しかない書斎に入っていった。蒋介石は根本の手をとり、椅子に座らせた。周囲には、国府軍の高官たちが立ったままでいる。
蒋介石は、にっこりと微笑みながら言った。
その態度には、戦勝国代表の驕りは少しも感じられなかった。この時点で、国府軍と共産軍の衝突が中国各地で始まっており、蒋介石には、早く日本が復興して、自分たちを支援して欲しい、という気持ちがあったのだろう。
「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と、根本中将は約束した。
在留邦人と将兵の帰国は約1年で無事完了し、根本中将は1945(昭和21)年7月に最後の船で帰国の途についた。
■6.「わが屍(しかばね)を野に曝(さら)さん」
根本が東京南多摩郡の自宅に戻ったのが、昭和21(1946)年8月。敗戦からちょうど1年経っていた。それから3年、国共内戦は共産党の圧倒的な勝利に終わろうとしていた。
「自分が行かねば」と根本は思った。蒋介石への恩義を返すために、日本人として「何か」をしたい。押し寄せる共産軍に対して、自分が行って、たとえ役に立たなかったとしても、一緒に死ぬことぐらいはできる。「わが屍(しかばね)を野に曝(さら)さん」と根本は決心した。
家計は困窮していたが、旅費を作るために、大切にしてきた書画骨董を売り払った。しかし戦後の混乱期ではたいした値段では売れなかった。
「李鉎源」と名乗る台湾人青年が現れたのは、そんな時だった。台湾訛りの日本語を話すその青年は、「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」と語った。傳作義将軍は、根本が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に、面倒を見てくれた恩人であり、その人柄に深い感銘を受けていた人物である。武装解除命令に従わなかった根本が戦争犯罪人として訴えられなかったのも、傳作義将軍のお陰だった。
なんとか蒋介石を助けたい、と思っていた矢先に、深い縁のある傳作義将軍を通じて、先方から難局の打開を頼み込んできたのである。その依頼に、根本はただ嬉しく、ありがたい、と思った。「私でできることであれば、何とか助力したい」とその場で答えた。
■7.根本を台湾に送り込んだ明石元長
しかし、当時の日本はいまだ米軍の占領下にあり、海外渡航は自由ではなかった。したがって台湾には密航しなければならない。なによりも、そのための資金もなかった。
根本を台湾に送り込むための金策と渡航工作に奔走したのが、明石元長(もとなが)だった。元長は、第7代台湾総督を務めた明石元二郎の息子で、本人も小学校を卒業するまで台湾で育った。
明石元二郎は総督として、水力発電所建設、金融・教育・司法制度の整備、道路・鉄道の拡充、森林保護など、きわめて大きな業績を上げたが、赴任後、1年余にして惜しくも病死した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、また明石を慕う多くの人々の寄付によって、200坪もある壮大な墓が作られた。[d]
その息子、元長も台湾への思いは強く、戦後も台湾からの留学生や青年を援助していた。その縁で、李鉎源青年とも知り合っていた。
国府軍が敗走を続け、台湾までが危うくなった時に、元長も何かしなければならない、と考えた。そこで、根本を蒋介石のもとに送り込むための資金作りと渡航の工作を始めたのである。
元二郎は台湾総督まで務めたが、金銭面はきれいな人物で、何の財産も残さずに死んだ。元長の学費すらおぼつかない状況だったが、政府の要人や友人たちが工面してくれたのである。だから元長自身にも財産はなく、あちこちのつてを辿って頭を下げ、資金提供を求めた。
その甲斐あって、昭和24(1949)年6月26日、根本は延岡港から小さな釣り船に乗り、台湾に向かって出港した。
根本を送り出した元長は、疲労困憊して東京の自宅に戻ったが、わずか4日後、突然の死を迎えた。まだ42歳だったが、根本を送り込む工作で、精も根も尽き果てたのだろう。
■8.「着いた。本当にやってきた」
根本は元長の手引きで、警察や占領軍司令部に見つからないよう、転々としながら延岡まで行き、手配された釣り船に乗船した。6人の日本人が同志として付き従っていた。
夜11時に出港した釣り船は、次第に激しくなる風雨の中で、木の葉のように揺れた。高波をかぶって、船室まで海水がどっと入ってくる有様だった。「こんな船で台湾まで本当に辿りつけるのか」と皆が思った。
出航から4日目、時速5ノット(9キロ)しか出ない釣り船は、まだ種子島の西方を航行中だった。その夜、左舷船腹のあたりから、ガリガリと音がした。浅瀬の岩に船底をこすったのである。船底に穴が開き、海水が入ってきた。一同、手押しポンプとバケツなどで海水の汲み出し作業をしながら、なんとか近くの島にたどり着いた。
応急修理として空いた穴に綿を詰め、板を打ち、再び、漕ぎ出したが、水漏れは完全には止まっていなかった。10分交替で常時一人が水汲みをしながら、のろのろと台湾に向かう。
ついには食糧もなくなり、水も残り少なくなった頃、「山が見えた!」という声が聞こえた。根本が船首の方を見ると、鋸(のこぎり)のような連山の頂が薄く見えていた。
防波堤の入り口に入ると、電灯がまばゆく輝く台湾北端の港湾都市・基隆(キールン)の市街が広がっていた。「着いた。本当にやってきた」
腹の底から、喜びが湧き起こってきた。「これで、日本人として蒋総統に恩義を返すことができる」 延岡港を出航して14日目のことだった。
(文責:伊勢雅臣)
次回に続きます。
■リンク■
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これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注いで台湾の民生向上と発展のために尽くした。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 門田隆将『この命、義に捧ぐ ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡~ 』★★★、集英社、H22
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