JOG(520) 重光葵(下) ~ 大御心を体した外交官
(前号より続きます)
終戦工作、降伏文書調印、占領軍との交渉、戦犯裁判と、重光の苦闘は続く。
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■1.「時期が来たら鶴の一声で終戦を実現しよう」■
「大東亜共同宣言」は発せられたが、戦局はすでに時遅しだった。外相として重光は戦争終結の道を探った。そして年来、親交のあった木戸内大臣とこう誓い合った。「宮中の事は木戸が引き受ける。政府の方は重光の方で引き受ける。時期が来たら鶴の一声で終戦を実現しよう。その時期は常時連絡して見定めよう」「鶴の一声」とは、陛下による御聖断である。
重光は、東条、小磯内閣と外相を続けたが、昭和20(1945)年4月7日に鈴木貫太郎内閣が登場して、外相を辞任した。7月26日、米英中3国首脳によるポツダム宣言が発せられた。これを国体護持の条件のみで受諾しようとする外務省案と、さらに軍隊の自主的撤兵など3条件を付加しようとする軍部案の間で、決着がつかずにいた。
重光は、いまこそ「鶴の一声」の時期と考えて、木戸内大臣に会い、「陛下の勅裁によって、国体護持の条件のみでポツダム宣言を受託すべきだ」と述べた。木戸は「すでに陛下の勅裁でようやく平和終戦の途がついたのに、さらにその措置についてまで勅裁を求めるのでは、政府や外務省は何をしているのか」と不機嫌だった。重光は言った。
君の言うことはもっともだが、このまま帰るわけには行かぬ。軍部の意向をくつがえすことができぬからだ。これをくつがえすには勅裁しかない。それも今日の場合はすでに土壇場に来ている。日本の運命を決する最後の線に立っているわけである。政府内閣の出来ぬところを陛下にお願いして日本の運命を切り開きたいのである。[1,p161]
木戸は納得して、すぐに陛下に拝謁し、「陛下は万事御了解で、非常な決心でいられる。君らは心配ない」と言った。その言葉通り、御前会議が開かれ、御聖断によって、ポツダム宣言受諾が決定された。[a]
■2.降伏文書の調印役■
停戦の実現した8月15日、鈴木内閣は総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が後を継がれた。東久邇宮は陸軍大将でもあり、皇族軍人として軍の動揺を抑えるには最適な人物だった。この内閣で重光は再び、外務大臣に任ぜられた。
内閣の最初の仕事は、降伏文書の調印であった。しかし、日本の長い歴史でも初めての不名誉な文書に名を留めるという屈辱的な役割を誰もが避けようとしていた。
結局、天皇のご意向で政府の代表として重光外相、軍部代表として梅津美治郎(よしじろう)陸軍参謀総長が選ばれた。重光はこの歴史的大任を果たすに当たっての覚悟を、次のように天皇に申し上げた。
帝国今日の悲境は、帝国の統治が明治以来一元的に行われてこなかった点にあります。一君万民は日本肇国(ちょうこく、建国)以来の姿でありますが、いつの間にか一君と万民の間に軍部階級を生じ、陛下の御意は民意とならず、民意は枉(ま)げられ、国家全体の十分関知しない間に日本は遂に今日の悲運に遭遇しました。
ポツダム宣言の要求する民主主義は、我国本然の精神に合するもので、今日はその完成に邁進すべき時に到達しました。[1,p168]
天皇は「外務大臣の言葉は完全に自分の意に叶うものである。その精神で使命を果たしてもらいたい」と力強く言われた。
■3.「敵艦の中にたたずむひと時は」■
9月2日、降伏文書調印式に向かう前に、重光は次の2首を詠んだ。
9時10分前、横浜港外30キロに停泊中の米戦艦ミズーリに到着。小艇から長い急なタラップを登るのは、右足義足の重光にとっては難儀だった。
甲板には大勢の水兵や新聞記者、カメラマンが立錐の余地もないほど立ち並んでいた。40センチ主砲の砲身にまたがって鈴なりになっている水兵たちもいる。好奇と憎悪の視線が一斉に重光らに注がれた。敵艦の中にたたずむひと時は心は澄みて我は祈りぬ
9時ちょうどにマッカーサーが現れて、「自由と寛容と正義」を求める武人らしい簡潔な演説をした。満座の中で痛烈な侮辱を与えられることも覚悟していた重光一行の随員の一人は「暗夜に一条の光明を見る思ひ」がした、と後に述べている。
その後、重光が杖をついて進み出て、降伏文書に署名した。連合国の代表たちが署名を済ませる間、炎暑の日差しを浴びながら、シルクハットとモーニング姿の重光は、杖を頼りに立ちつくしていた。
東京に戻って、天皇に無事の署名完了を報告すると、陛下も安心された。そして、階段の上り下りに支障はなかったか、と重光の身を気遣われた。
■4.マッカーサーとの直談判■
皇居から戻って、休養していた重光に、緊急の情報がもたらされた。占領軍司令部が軍政を敷き、直接統治するという布告を発したというのである。「それはいかん!」と重光は大きな声を出した。占領軍と国民との間を調整する日本政府が機能を失っては、重大な摩擦を生ずるかもしれない。御聖断により、なんとか終戦にこぎつけて、まだ3週間しか経っていないのだ。
翌朝7時半、重光はマッカーサーに会って、握手もせずに直談判を始めた。重光は練達の外交官らしく、法理論と実務の両面から軍政反対を説いた。[b]
法理論的には、ポツダム宣言は明らかに日本政府の存在を前提としており、軍政を敷くことは宣言を超えるもので、日本が受諾したことではない。したがって、軍政によって生ずる困難な事態はすべて占領軍の責任となる。
実務面では、昭和天皇は戦争を回避しようと最大限に務めてこられ、今はポツダム宣言を忠実に履行しようとされている。その天皇が指名する日本政府を通じて、占領政策を実行することが、最も有利である。
重光の話を聞きながら、マッカーサーの表情はほころんでいった。剛直直截な重光の態度を、気に入ったようだ。「よく分かった」と言い、すぐに軍政施行の発令を中止するよう命じた。そして占領下で問題となる諸点の解決案を作成して貰いたい、と依頼した。重光はこれを諒解し、さらに国民生活に必要な物資を製造する工場の操業を許して貰いたい、と要望し、許可を得た。
会談後、官邸に戻ると、宮中から「遅くなっても差し支えないから、マッカーサー元帥との会談の模様を聞きたい」とのお召しがあり、重光は夜7時半に参内して、会談内容を上奏した。陛下は軍政の中止を非常に喜ばれ、「それはよかったね!」と何度も繰り返された。重光は一途に国内の安定を願われる天皇の御心を偲んで、目頭が熱くなった。
■5.ソ連の意趣返し■
昭和21年4月29日、戦後初めての天長節(天皇誕生日)。14年前のこの日、重光は上海で爆弾事件に遭遇し、片脚を失った。それを思い起こしていると、電話が鳴って、重光を戦争犯罪容疑で収監するという。まもなく若い米人検事と大男の憲兵がやってきた。
重光は軍用ジープで運ばれながら、「平和と国交の維持に専念してきた自分が、なぜ戦争犯罪人として収容されねばならないのか」と自問した。収容された巣鴨プリズンでは、共に対中平和外交を進めた広田弘毅元首相もいた。
5月29日、アメリカ人弁護人ファネス少佐がやってきて、「米国検事は重光に対して拘束はおろか、なんら起訴の理由を発見していない」と述べた。さらに「ソ連は一回も尋問せずして起訴したのは不当である、と論ずる者がいる」とも教えてくれた。
重光は昭和13年7月にソ連軍の侵入によって勃発した張鼓峰事件を駐ソ大使として交渉し、無事に収拾させたが、相手側のソ連外相リトヴィニョフが重光を逆恨みして、8年後の今、意趣返しに出たらしい。
後日、キーナン主席検事が弁護人に宛てた書簡には、検事個人としては重光の起訴に反対であったが、裁判では無罪になると信じていた、と認(したた)めてあった。
■6.「無限の誇りと愉快」■
8月6日、日華事変審理の段階で、米人新聞記者パウエルが証言台に立った。パウエルは重光を指さすと、「ミスター重光が被告席にいるのはまことに不思議である。重光公使は上海において、つねに各国代表と共同して事変の早期処理に努力し、ついに停戦協定に持ち込んだ」と弁護した。
12月3日、法廷は重光の審理に入った。ファネス弁護人は、アメリカ大使デーヴィス、英国大使クレーギー、スウェーデン公使バッゲなどの口述書を朗読した。いずれも重光の平和を求める努力を明らかにしていた。唯一、ファネスの弁護に挑戦したのはソ連検察官のみであった。
重光は、欧米人の間にも多数の思いがけない支持者がいることを知って、「無限の誇りと愉快」を感じた。
■7.「平和に対する罪」■
昭和23(1948)年11月12日、判決が下された。重光は7年の禁固刑に処せられた。重光を有罪とした「平和に対する罪」の中には「ソビエトに対する張鼓峰事件の遂行」という項目があった。張鼓峰事件はソ連軍の侵攻から始まったのであり、重光はそれを外交官として大事に至る前に収拾したのである。それが「平和に対する罪」とされていた。
米人将校たちも「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わないところであった」と憤慨した。重光を有罪とした一点のみでも、東京裁判の「復讐裁判」たる本質が窺われる。
昭和25(1950)年11月21日、重光は巣鴨から仮釈放され、4年7ヶ月ぶりに自宅に戻った。重光の仮釈放にはソ連と中共から抗議があった。驚くべき執念深さというほかはない。
■8.「高くかかげし日の丸の旗」■
昭和29(1954)年12月、戦後7年間にわたって政権を担当した吉田茂に替わって、鳩山新内閣が発足すると、重光は外相兼副首相として、ふたたび日本外交を指導する立場に立った。
昭和31(1956)年12月18日、国連総会は全会一致で日本の国連加盟を承認し、重光が日本政府を代表して、受諾演説を行った。その結びは次のようなものだった。
わが国の今日の政治・経済・文化の実質は過去1世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分理解しておるのであります。私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終わります。
ハマーショルド国連事務総長が、「深く感動した」といって握手を求めると、重光はいかにも満足そうであった。演説の草稿の仕上げを手伝ってくれた初代国連大使・加瀬俊一の手を堅く握って、「有り難う。もう思い残すことはないよ」と語った。
日本の国連加盟が承認され、本部前に初めて日の丸が掲揚された。霧は晴れ国連の塔は輝きて高くかかげし日の丸の旗
■9.「四方の海みなはらから(同胞)と思ふ世に」■
重光が帰国したのは12月25日で、それからわずか一ヶ月後の翌年1月26日、己の天職を全うしたかのように、重光は卒然として世を去った。享年69歳。
重光の足跡を振り返ってみると、第一次上海事変での停戦実現、ソ連との張鼓峰事件の収拾、三国同盟反対、中国を独立国として扱い支援と友好を図った対支新政策、アジア各国の独立と共栄を願う大東亜宣言、終戦工作、と常に世界各国との友好と平和を実現しようとする外交活動に一心に取り組んできた。「四方の海みなはらから(同胞)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」との明治天皇御製を常に拝誦されてきた昭和天皇の大御心を忠実に体して、それを現実の国際外交に生かそうとしてきた一生であったと言える。
しかし、その「波風」はあまりにも激しく、「四方の海みなはらから」という理想はあまりにも遠かった。その身においても、上海で朝鮮共産党員から爆弾を投げつけられて片脚を失ったり、ソ連の逆恨みから「戦争犯罪人」として4年7ヶ月も獄舎につながれたりもした。
日本の国連加盟での受託演説は、一時的にではあっても「四方の海みなはらから」という理想を現出した舞台であった。外交官として国家国民の安寧と世界の平和のために捧げられた重光の一生を天は嘉して、最後の花道を与えたのであろう。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 渡辺行男『重光葵―上海事変から国連加盟まで』★★★、中公新書、H8
2. 豊田穣『孤高の外相 重光葵』★★、講談社、H2
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■「重光葵(上・下)」に寄せられたおたより
■ 編集長・伊勢雅臣より
ご声援ありがとうございます。立派な国際派日本人となるべく、頑張ってください。
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