JOG(519) 重光葵(上) ~ 大御心を体した外交官
昭和天皇の大御心を体して、重光葵は中国・アジア諸国との親善友好と独立支援の外交を展開した。
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■1.「爆弾だ!」■
昭和7(1932)年4月29日、上海の日本人租界の新公園で、天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀会が盛大に開かれていた。1月に勃発した第一次上海事変も、重光葵(まもる)公使の懸命な交渉によって、蒋介石の第19路軍との間でまもなく停戦協定に調印という運びになっていた。重光は上海派遣軍司令官・白川義則大将ともども、明るい気分で参列していた。
海軍軍楽隊の演奏で君が代斉唱が始まった。その最中に、水筒のようなかたちをした金属性のものが式台に投げつけられた。
「爆弾だ!」
爆音と共に、重光は「鬼の金棒」のようなもので下半身を強打され、その場に倒れた。手にしていたステッキを支えに立ち上がろうとすると、ステッキが体重を支えきれずに3つに折れた。倒れたまま最も痛む右脚を見ると、鮮血がズボンの裂け目からほとばしっているのが見えた。
「やられたな、これで死ぬのかもしれない」と重光は思ったが、すでに外交官として国に捧げた命である。それよりも不安になったのは停戦交渉のことだった。この爆弾事件から停戦交渉が不調になって、大事に至りはしないか。
犯人はすぐに捕まり、25歳の朝鮮共産党員と判明した。日本軍と蒋介石政権を戦わせて、漁夫の利を占めようという共産党の策謀であろう。
■2.「遅滞なく軍を引き揚げて帰って来い」■
第一次上海事変とは、1月18日に日本人僧らが中国人に襲撃され、1人死亡、2人負傷した事件をきっかけに、日本海軍陸戦隊と蒋介石軍との間で始まった武力衝突である。陸戦隊はわずかに千名程度であり、十数倍の第19路軍には敵うべくもない。日本政府は不拡大方針を表明しつつも、数万の在留邦人を守るために白川大将を司令官とする2個師団を急遽、派遣した。
到着した白川大将に、重光公使が労をねぎらうと、大将は余人を遠ざけて、公使にこう伝えた。
重光自身が1月に帰国した際、中国方面の状況について上奏した際にも、やはり陛下は「上海方面においても、和平を旨とするよう」という言葉を賜っていた。
3月3日、派遣軍は第19路軍を撃退した。重光はここで停戦を実現すべきだと考えた。この日はジュネーブで国際連盟の総会が開かれる予定であり、このまま日本軍が勝ち誇って追撃すれば、日本に対する制裁措置が発動されるかもしれない。開会までの時差7時間の間に、なんとしても派遣軍の停戦を表明しなければならない。
重光は白川に会い、国際連盟の状態、わが国の国際上の位置などを諄々と説き、大将に停戦の決断を促した。大将は聞き入ったまま、数時間が過ぎた。
■3.「白川は戦争を止めます」■
午後一時になろうとするので、重光はやおら姿勢を正して、最後の切り札を出した。
白川大将は胸を打たれた様子で、しばらく熟慮の後、いきなり立ち上がって、「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」と言った。
午後2時、停戦命令が出された。ジュネーブの国際連盟総会では、日華両国に対して停戦協議の開始を要請したのみで、日本に対しての非難は避けられた。
その後、日華両国と、上海に租界を持つ英米仏伊4カ国の公使・武官を交えて、停戦交渉が進められた。重光は「自分が経験したもっとも複雑な交渉」と言っている。外国だけでなく、国内の陸海軍も納得させるものでなくてはならなかった。
そして4月28日になんとか停戦協定の案文を確認する所まで漕ぎ着け、晴れて天長節の祝いの席を迎えた。そこに爆弾を投ぜられたのである。白川大将は30数カ所の創傷を受けて、余病を併発し、5月26日、死亡した。
翌年、停戦1周年の3月3日、昭和天皇は次の御製をお詠みになり、白川家に下賜された。
をとめらのひなまつる日にいくさをばとどめしいさをおもひてにけり
■4.「かねてより国に捧げし命なれば」■
病院に運び込まれた重光は160カ所もの傷を受ける重傷であったが、激痛に唸っている暇はなかった。公使館の幹部を呼んで、芳沢外相あての緊急電報を口述筆記させた。
今回の事件にかかわらず、停戦協定はこのまま成立せしむること、国家の大局よりみて絶対に必要と愚考す。
この際、一歩を誤らば、国家の前途に取り返しのつかざる羽目に陥るべし。
重光は同様の趣旨をジュネーブの関係筋にも打電させ、事態を憂慮していた英国をはじめとする各国を安堵させた。
痛みのために不眠状態で苦しんでいる重光の所に、岡崎書記官が停戦協定案を持ってきて、署名を依頼した。重光は驚くとともに喜んだ。英国や中国の書記官も入ってきて、嬉しそうにしている。重光は署名を済ませて、中国の書記官にこう言った。
停戦協定が正式にできるようになったのは、日中両国にとってきわめて喜ばしい。東亜における両国の関係は、元来、親善でなければならない。この協定がその親善関係の有力な基礎となることを希望し、それを郭代表に伝えて貰いたい。
重光が負傷していない方の左手を差し出すと、中国の書記官は感動の面持ちで、その手を握った。重光のこの発言は、外国通信員によって世界に報道された。かねてより国に捧げし命なればつとめの甲斐を知るぞうれしき
■5.「もう一本の脚でご奉公できるではありませんか」■
爆弾の多くの破片を浴びた右脚では敗血症を発し、切断しなければ生命に関わるという状況となった。片脚で公使、大使というような激職に耐えて、国際的な外交活動ができるだろうか。なんとか右脚を残して、もっとご奉公したい、と重光は考えたが、九大から急遽やってきた外科の権威・後藤博士はこう諭した。「あなたはたとえ右脚を日本国に捧げても、もう一本の脚でご奉公できるではありませんか」
重光は切断を決意した。
5月5日、英国公使館で、停戦協定文書の正式調印、署名が行われた。重光は多くの人に支えられて車で英国公使館に運ばれ、署名を済ませて、病院に帰ってきた。
その午後、切断手術が行われた。数日間は熱が下がらず、また切断部分のガーゼを取り替えるたびに、激痛が電流のように走る。
7日午後、天皇皇后両陛下の勅使が到着して、見舞いの品を下賜された。皇后陛下からは義足を賜る、という。また総理・外相の代理として見舞いに来た人からは「外相が参内するたびに、陛下は『重光の様子はどうか?』とご下問になり、恐懼の至りであった」と聞いて、重光は感激した。
内地からも多くの見舞い、激励の電報が届いた。小学校生徒からの手紙もたくさんあった。そうした手紙や電報の束を見て、重光は思わず涙ぐんだ。「こんなに多くの国民が自分の身を気遣ってくれていたのか。」
■6.「御国のためになほ生きてあり」■
重光は帰国の船に乗せられ、しばらく別府にて療養した。年が明けて、体調が回復すると、重光は上京し皇居に参内した。車は、群衆の万歳に送られて、坂下門をくぐった。
天皇は重光の脚を痛ましそうにみやり、「長い間ご苦労であった。上海で難局に善処しつつあるとき、はからずも重傷を負い、幸い快方に向かったのはなによりであった」と言われた。重光は感泣して退出した。そして、新しい勇気が湧いてくるのを感じた。
国民の心の泉たづねきて尽きせぬ力我も承けつつ
足落ちて心のおつるひまもなし御国のためになほ生きてあり
■7.「支那を完全なる独立国として取り扱はんとする」■
重光はその後、外務次官、駐ソ大使、駐英大使と重職を歴任した。外務次官の時は、廣田外相のもとで日中親善に努めた[a]。駐ソ大使としては昭和13(1938)年7月11日、ソ連軍が満洲国境の張鼓峰に侵入し、日本軍と衝突した事件を、外交交渉によって収めた。
英国ではチャーチル首相と懇意となり、三国同盟に反対して、「欧州戦争に介入すべからず」との意見書を東京に送り続けたが、志かなわず大東亜戦争勃発を防げなかった。
開戦直後の昭和16(1941)年12月19日、重光は駐華大使に任ぜられ、翌年1月南京に赴任した。そしてかねてから考えていた対中新政策を実現しようと決心した。
日本の真精神とは、明治天皇がお詠みになり、昭和天皇が対米開戦前の御前会議で示された「四方の海みなはらから(同胞)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」の大御心であろう。
重光はしばしば日本に戻って、要路の人々に新政策を説いて回った。陛下にも御進講し、後押しをいただいて、東条首相も熱心な信奉者となった。軍部の間にも、英米相手の大戦争を完遂するには、中国大陸での戦いを止めるべきだ、という声が強かった。
■8.「ね!今度は支那問題をね、よくやってね!」■
昭和17(1942)年12月21日の御前会議において、「大東亜戦争完遂ノ為ノ対支処理根本方針」が決定された。翌年1月、三笠宮崇仁(たかひと)親王は支那派遣軍参謀として南京に着任された。親王は赴任の際、「対支新政策」の徹底に関する天皇の親書を賜り、「対支新政策くらい、陛下の御意に副い、お喜びになったものは近来ない」と上海の軍官民首脳部に訓辞された。
これに従い、日本軍が占拠していた建物等を逐次、中国に返還し、また日本人が独占的に管理していた企業や工場を、日中合弁に改めたので、中国側からは非常な好意と感謝が寄せられた。
昭和18(1943)年4月20日、重光は東条から呼び出しを受けた。内閣改造をするので、外相になって貰いたいという。
23日に宮中に伺うと、昭和天皇は非常なご機嫌で、「ね!今度は支那問題をね、よくやってね!」と言われた。
■9.「大東亜共同宣言」■
重光は外相として対華新政策を軌道に乗せると、その精神を欧米の植民地支配に喘ぐアジア諸国にも及ぼそうとした。
同時に、重光は、この点を戦争目的として明確化することが、戦争終結への道につながると考えていた。
すなわちアジア諸民族の独立という戦争目的さえ達成されれば、戦闘の勝ち負けがどうであっても戦争を終結させる、という和平への道を視野に入れたものでもあった。
この方針のもとに、11月5、6日の二日間、東京の国会議事堂において大東亜会議が開かれた。中国、タイ、満洲国、フィリピン、ビルマの各国首脳、およびインド仮政府代表チャンドラ・ボースが出席し、「大東亜共同宣言」を採択した。「共存共栄の秩序建設」「自主独立の尊重」「各民族の伝統尊重」などが謳われた[b,c]。
(文責:伊勢雅臣)
(次回に続きます。)
■リンク■
a.
b. JOG(338) 大東亜会議 ~ 独立志士たちの宴
昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。
【リンク工事中】
c.
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 渡辺行男『重光葵―上海事変から国連加盟まで』★★★、中公新書、H8
2. 豊田穣『孤高の外相 重光葵』★★、講談社、H2
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