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JOG(293) 川路聖謨とプチャーチン ~ 幕末名外交官の激突

通商と国境策定の問題を激しく論じ合う二人の間にひそかな共感が芽生えていった。


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■1.プチャーチンあらわる■

 嘉永6(1853)年12月14日、長崎の港に4隻の大船が停泊していた。中央に陣取るのはロシア使節プチャーチンの乗る旗艦「パルラダ号」。左右52門の大砲で港全体を威圧していた。

 午前11時、パルラダ号から6艘のボートが降ろされた。随伴艦からは祝砲が放たれ、快晴の空のもとで長崎の港を囲む丘陵にいんいんとこだました。

 やがてボートが次々と波止場につき、軍楽隊を先頭に武装兵、ロシア使節と士官、水兵らが二列縦隊で続き、ラッパ・太鼓に合わせて行進を始めた。隊列は西役所の前でとまり、使節と士官は日本側の役人に案内されて対面所に入る。そこには4人の幕府高官が応接掛として待ちかまえていた。

 応接掛次席の勘定奉行・川路聖謨(としあきら)は、使節プチャーチンを60歳ぐらいと見た。髪は茶色で髭をたくわえ、ゆったりとした表情から、高位の人物であると察せられた。 その川路を随行秘書官で作家のゴンチャロフは「45歳くらいの、大きな鳶色の眼をした、聡明闊達な顔付の人物」と後に書き残している。

■2.ロシアからの国境策定、通商要求■

 川路聖謨の父・内藤吉兵衛は日田(大分県)の幕府代官所の小吏であり、その地で聖謨も3歳まで過ごした。その後、父は念願かなって幕府の徒士(かち、騎乗を許されない徒歩の軽格の武士)に採用され、江戸は牛込北御徒町に移り住んだ。

 その後、聖謨は小普請組(無役の旗本御家人)川路三左衛門光房の養子となり、家督を相続して18歳から幕府に出仕するようになった。その後、実力を求められて次々と引き立てられ、幕府三奉行の一つである勘定奉行にまで栄進できたのは、聖謨自身夢想だにしていなかった。

 嘉永6年6月にペリー率いる米国艦隊が来航し、通商要求を聞き入れない場合は戦争になるだろうからと、降伏の際に使う白旗を送るという露骨な砲艦外交を展開した[a]。回答を受け取るために来年に再び来航する、と言い残してペリーが去ったのが6月12日。そのわずか1ヶ月後の7月18日に今度は4隻のロシア艦隊が長崎に入港したのである。 

ロシアからの国書には、樺太・千島の日露国境を定め、日本との交易を開きたい、という要求が記されていた。幕府老中たちは応接掛として、西丸留守居役・筒井政憲、川路聖謨他2名に長崎に下るよう命じた。

■3.困難な綱渡り■

 長い泰平の時代に衰退した日本の防備力では、戦乱と技術革新で鍛えられた欧米諸国の敵ではなく、戦いとなればアヘン戦争で英国に蹂躙された清国の二の舞になることは明らかだった。

 一方、識者の間では開国・通商は世界の大勢として避けられないと考えられていたが、鎖国論の根強い国内世論を慎重に導きながら進めなければ、どのような混乱が起こるやもしれなかった。まして領土問題で寸土でも譲歩したら、国内の攘夷派が憤激して争乱は必至だろう。外国との戦争か、国内の争乱か、一歩踏み誤れば亡国に至る、そういう困難な綱渡りを川路らは迫られていた。

 ロシア使節と日本側応接掛の会談は、まず相互の挨拶から始まり、ついで昼食に移った。ロシア人たちは初めて見る日本の食事にとまどいの色を見せたが、おずおずと口に入れると思いがけないおいしさに眼を輝かせた。

 食事後、プチャーチンが即刻協議を始めることを提案した。長崎にて5ヶ月も待っていたので、すでに予定の日限も過ぎ、速やかに協議をまとめ、帰国しなければならないというのである。それに対し川路は、国境策定は両国にとってきわめて大事なことであり、慎重な話し合いが必要であるとして、日を改めての協議を主張した。何度かのやりとりの後、主張を曲げない日本側にプチャーチンが折れて、ロシア側は引き揚げた。

 3日後の17日、日本側が答礼としてロシア艦を訪問。川路は、もしそのままロシアに連れ去られたら、ロシア皇帝に直談判しようと決心していたが、幸い訪問は穏やかな空気の中で無事に終わった。18日にはプチャーチンを西役所に招いて、幕府からの回答書を手渡し、第一回協議を20日に開くことで合意した。こうした儀礼の間にも、筒井や川路はどう交渉を進めるかについて、綿密な打ち合わせを繰り返していた。

■4.協議始まる■

 20日、朝からの激しい雨をものともせずにプチャーチンは随員を伴って9時過ぎに西役所につき、協議が始まった。幕府からの回答書には、鎖国政策には固執せずに協議には応じるが、通商を容認するかどうかは、朝廷の意向を伺い、諸大名の考えも質す必要があるので、3年から5年待って欲しい、との趣旨であった。以後、数度にわたる協議は紆余曲折があったが、おおむね次のように進んだ。

 3、5年待てとははなはだ常識を欠く、と不快そうに眉をひそめたプチャーチンに対して、川路は、文化3(1806)年と翌年にロシア艦が樺太、択捉、利尻を襲って、放火、略奪、番人拉致を行い、8年には国後島に来航したゴロブニンを日本側で抑留した事実を指摘した上で、こう続けた。

それ以来50年近く、貴国からは絶えて音沙汰もなく、気の長いお国柄であると思っておりましたのに、3、5年お待ち下されと申し上げておるのを待てぬとは、何分にも合点がゆきませぬ。

 川路の揶揄まじりの発言に、プチャーチンはかすかに顔を紅潮させて、蒸気船の発明で世界は著しく狭くなり、時勢が急速に変化した、などと苦しそうに述べた。

 ロシア船が薪、水、食料を絶やして日本の港に入った折りに日本側はどう対応するのか、とプチャーチンが聞くと、川路はどの国の船であろううと、無償で提供すると答えた。有料にして欲しいとのプチャーチンの要請に対しては、筒井が伏していた眼をあげて「それではとりもなおさず貿易のきっかけを作ることになる。あくまで協定を結ぶことが先決で、そのような事は大事の前の小事であり、論じない方がよろしい」と一蹴した。

■5.さてもさても不法なことを申される■

 国境に関しては、川路はゴロヴニンの著書に日本側との間で択捉島は日本領という協約を結んだとある事実を挙げ、さらに日本の番所も設けられているので、わが国の所領であることはいささかの疑いもない、と断言した。プチャーチンは、ゴロヴニンはロシアの正式の使節ではなく、その著書を協議の参考にすることは承伏しかねると反論した。

 樺太の国境問題では、川路は実地調査をするのが前提であり、それには数年を要するので、この会談で決定するのは不可能である、と主張した。プチャーチンはその意見に理解を示したので、川路はさらに、樺太のロシア守備隊が現地調査に赴く日本の役人に無礼な行為を働かぬようプチャーチンから命令書を出すことを要求し、了解を得た。

 プチャーチンは日本役人を調査に至急派遣する事を要求し、来年の3、4月頃までに赴かぬ場合にはロシア人を樺太全島に移住させる、と主張した。この言葉に川路はにわかに色をなし、

さてもさても不法なことを申される。(樺太の)アニワ湾付近はわが国の古くからの確実な所領であるのに、勝手にその地に植民するなどと乱暴なことを申される。そのようなお気持ちであるなら、協定などむすべるはずはなく、協議は一切無用である。


 プチャーチンはしばし黙っていたが、真意は速やかにこの問題を解決したいからであり、御気分をそこねられたことをお詫びする、と言った。∂■6.敬意と親愛の情■

 川路はプチャーチンと話しているうちに、アメリカ使節ペリーが終始、武力を背景に恫喝的な態度をとり続けたのとは対照的に、川路の主張にもよく耳を傾け、日本の国法国情を尊重して冷静に協議を進めようという姿勢を見てとった。そしてひそかにプチャーチンに対して敬意と親愛の情を抱き、日記に「この人、第一の人にて、眼ざしただならず。よほどの者也」と記した。

 一方、プチャーチンの秘書官ゴンチャロフは川路をこう評した。

 川路を私達はみな気に入っていた。・・・川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、なおこの人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが――すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。

 協議はあくる年1月4日まで続けられ、条約締結は当面拒絶、択捉島は日本領、樺太は実地調査の上で再協議という日本側の主張の線で決着した。唯一、日本が他国との通商を結んだ場合には同条件をロシアに許すという事で、プチャーチンは満足し、北方の地を巡回した後に再び来訪すると言い残して、8日に出港していった。

■7.大地震■

 2月にはペリーが再び来航し、日米和親条約が結ばれた。通商は認めないが、下田・函館を開港し、そこでの物品の購入は認められた。川路はわが国の信義のためにも、同様の内容をロシア側に許す必要があると老中阿部正弘に上申して、許可を得た。

 プチャーチンは10月14日、新鋭の「ディアナ号」で下田にやってきた。すでに英仏との間でクリミア戦争が勃発しており、ディアナ号は英仏艦の攻撃に備えて臨戦態勢をとっていた。筒井、川路らが江戸から駆けつけ、協議は11月1日から始められた。

 翌2日午前8時過ぎ、大地震が襲った。川路が泊まっていた寺では樹木が折れ、塀がすべて倒れた。津波が来るとの警報に川路らは裏手の山に駆け上った。海面が盛り上がって、田畑や家並みに襲いかかり、その上に大きな船が投げ出された。津波が引くと下田の町は消滅し、あたり一面、泥に覆われていた。

 ディアナ号も何度も回転し、左右に大きく傾き、沈没こそ免れたものの、船の背骨にあたる龍骨が折れ、浸水が激しかった。水兵たちが交替で排水に努めて、なんとか沈没を免れていた。そんな中でも、ロシア側は海に投げ出された老女と水主2名を救助し、手厚い看護をして川路らに感銘を与えた。

■8.善良な、博愛の心にみちた民衆よ!■

 ロシア側の要請により、ディアナ号を20里ほど離れた戸田(へだ)村の砂浜で修理することとし、11月26日朝に下田を出港したが、途中で風が強くなり、激浪の中で船は沈下し始めたので、プチャーチンは退避を命じた。逆巻く激浪の中をディアナ号から降ろされたボートは浜辺を目指した。浜辺でそれを見つけた日本の漁師たちは波の中をボートに泳ぎ着き、その太綱を掴んで引き返した。浜に待ちかまえていた大勢の男女は太綱でボートを引き寄せた。この救助作業により500人の乗組員全員が無事救助された。

 司祭ワシーリイ・マホフはこの時のことを次のように航海誌に記した。

 善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ! この善男善女に永遠の幸あれ。末永く暮らし、そして銘記されよ――500人もの異国の民を救った功績は、まさしく日本人諸氏のものであることを!

 ディアナ号はまだ波の上に浮かんでおり、プチャーチンの要請に応えて、百艘もの漁船、荷船で曳航しようとしたが、その途中で突然の風雨に襲われて、ついに沈没してしまった。

 プチャーチンはこの不運にもくじけずに、戸田村で50人乗り程度の洋船を建造し、それで迎えの船を呼びに故国に戻るので、資材や大工道具を提供して欲しいと日本側に要請した。

 日本側は資材と大工のすべてを無償で提供する事とし、近隣の船大工40人がロシア人の指示に従って、洋船建造に取り組んだ。日本人大工は洋船の設計・建造が和船とまるで違うことに驚き、ロシア人は日本人大工の優れた技量に感嘆の声をあげた。この中の棟梁の一人、上田虎吉は後に洋船の国産化の中心人物となる。

■9.国は違候へども、志に於いては兄弟の如く■

 洋船建造の間も、プチャーチンは下田で川路らと談判を続けた。激しい協議の結果、千島列島については択捉島以南は日本領、樺太はこれまで通り国境を定めないが嘉永5(1852)年までに日本人と蝦夷アイヌ人が居住した土地は日本領とする、通商はアメリカと同様にいまだ認めず、ただ函館または下田でロシア領事駐在を認めることとした。これらはほぼ日本側の主張に沿った妥結だった。

 故郷を遠く離れて11年間も極東海域でさすらい、さらに船を失いながらも、なおも祖国の国益のために尽くすプチャーチンの姿に、川路は真の豪傑だと感じ入った。

 使節格別の人物なる事も相知れ、且つ各主君の為に忠を尽くさんと思ふ処は同じなれば、国は違候へども、志に於いては兄弟の如く睦くも存ずる事に候。

 協議の場では激しく言い争っても、それは互いの主君ひいては祖国への忠誠を尽くさんがためであって、その志においては兄弟のように親睦の情を覚える、という。第一級の外交官どうしの共感が二人の間に育っていた。

 戸田村で建造されていた洋船は3月15日に完成し、プチャーチンは謝意を込めて村の名から「ヘダ」号と名付けた。16日、プチャーチンは日本滞在中の幕府の好意を深く感謝する書簡を送り、23日に出港した。川路は交渉が終わって、すでに下田を離れていたが、長く激しい談判を続けてきたプチャーチンにもう二度と会うことはあるまいと思うと寂しい思いをかみしめつつも、航海の無事を祈った。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a.

■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 吉村昭、「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」★★★、講談社文庫、H11

2. 松本健一、「日本の近代1 開国・維新」★★★、中央公論社、H10

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「川路聖謨とプチャーチン」について

宏さんより 
 
 幕末から明治初期にかけて、何故こんなにも優秀な人が出てきたのか? とても不思議です。私の勝手な想像ですが、江戸時代には、国と言う観念はそれほど強くなく、国より藩という感覚だったと思っていました。

 でも、今の外務官僚よりはるかに明確で、確固とした国家観をもって何が国益かを命がけで考えています。こういう文章を読むと、今の国家公務員に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいと思うのは、私だけでしょうか?

鈴木さんより(在日ロシア大使館あて弊誌を紹介されたお手紙) 

貴国ロシアと日本は、現在心からの信頼交流が実現できていないのが残念ながら率直な実情です。この原因はいろいろあるでしょうが、日露戦争や第二次大戦後の抑留問題などが絡んでおり、とくに日本側から見ればスターリン体制下のソ連時代の不信感がもたらした部分が大きいと私は思います。 

 イデオロギーに囚われない本来のロシア人と本来の日本人との双方の国民性から見れば、もともと両者は信義を重んじ相手との相違を乗り越えてその存在を認め合う度量をもった民度・文化の高い民族同士だと考えます。

 現在の両国の関係をより信頼感のあるものにするために、是非読んでいただきたい歴史があります。それは両国が始めて国交交渉をした1850年代のことです。日本代表川路聖謨とロシア代表プチャーチンのことを書き記した伊勢雅臣氏の論文を以下にコピーしますので是非お読みくださり、両国の信頼醸成の一助にしてください。

■編集長・伊勢雅臣より

 外交の力は、祖国への忠誠心と相手国への誠実さと、この二つの「誠」から来るのでしょう。

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