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JOG(684) ミクロネシア連邦建国の父 ~ トシヲ・ナカヤマ大統領

「無国籍」と書かれたパスポートに、トシヲは「この手で国家建設を目指そう」と誓った。


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■1.「はい、父は今大統領をしております」

「ローズマリー・ナカヤマ? それは日本人の名前ではありませんか」。昭和54(1974)年8月、南太平洋に広がるミクロネシア連邦からやってきた小中学生52名が東宮御所を訪れた際に、引率リーダーの一人、ローズマリーのネームプレートを見て、皇太子殿下(今上陛下)は尋ねられた。

「はい、私はトラック(諸島)出身で、父は日系二世、祖父は神奈川出身の日本人です」とローズマリーは答えた。

「そうですか、お父様はご健在ですか、なにをなされておられるのでしょう。」
「はい、父は今大統領をしております」
「ほう~、日系人の大統領ですか!! お父様にもぜひお会いしたいものですね」

 子どもたちを引き連れてきた数人の大人たちとも、殿下は日本語で会話をされた。一行の中には、一目で日本人の血を引いていると分かる子どもたちもいた。そんな子どもたちを見守る殿下の眼差しは、温かく、優しさに溢れていた。

■2.日系人大統領が次々と登場

 フィリピン群島とハワイ諸島に挟まれた広大な海域には、かつて「南洋群島」と呼ばれた島々が点在し、現在は、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国の3つの共和国、および、サイパンなど米領北マリアナ諸島となっている。

 この一帯は18世紀にスペインに領有されたが、19世紀にドイツ帝国がスペインから買収。第一次大戦で日本が占領して、1920(大正9)年、ヴェルサイユ条約により、日本の委任統治領となった。

 日本統治は第二次大戦末まで続き、日本人の入植が進んで、最盛期には現地人5万人に対して、邦人8万4千人を数えるまでになった。漁業や農業、燐鉱石・ボーキサイト採掘などの産業が発達し、サイパンやパラオでは、邦人の家屋、商店、映画館などが立ち並び、あたかも日本の地方都市のようであったという。

 敗戦とともに、米軍は在留邦人を強制退去させたが、日本人と結婚した現地人妻や子供は留まり、現在も日系の子孫は、住民21万人の20パーセントを占めるという。

 1979年から81年にかけて、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国と次々に独立を果たしたが、冒頭のローズマリーの父親、ミクロネシア連邦のトシヲ・ナカヤマ初代大統領をはじめ、日系の大統領が次々と登場した。

 同連邦のイマニュエル・モリ、マーシャル諸島共和国からはアマタ・カブア、ケサイ・ノート、そしてパラオ共和国からはクニオ・ナカムラ、トーマス・レメンゲソウなどである。

■3.「わたしのラバさん 酋長の娘」

 トシオ・ナカヤマは、昭和6(1931)年にトラック諸島の北西離島・ウルル島で生まれた。父・中山正実は横浜市出身、母はウルル島の酋長家系の娘マルガレッタ。六男一女のうちの三男だった。

 父・正実がトラック諸島に渡ったのは、大正7(1918)年、日本軍が南洋群島を占領してからわずか4年後のことだった。親戚筋が経営する貿易会社から派遣され、グアム島に赴任する途中だったが、支店のあるトラックに逗留しているうちに、貿易会社が倒産し、行く先を失って、トラックに住み着いたのだった。

 正実は大正10(1921)年に設立された南洋興発株式会社に入社する。これは南洋群島での製糖業、水産業、鉱物資源開発を一手に手がける国策会社で、「北の満鉄(満州鉄道)、南の南興」と並び称された。

 正実は来島の翌年、すぐにウルル島酋長の娘マルガレッタと結婚している。ミクロネシアは母系社会で、酋長の継承者は娘の息子となる。したがって、娘の結婚相手に外国人を迎える事に抵抗は少なかった。正実のように酋長の娘と結婚した日本人男性は他にもあり、トシヲの幼友達であるアイザワ・ススムの父もその一例で、ススムは戦後、実際に酋長を継いでいる。

「わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人」という歌詞の『酋長の娘』が、昭和5(1930)年にヒットしているが、それを地でいく人生であった。

 教育を重んずる日本の統治で、南洋群島にも近代的な学校教育が導入された。日本人子弟が通う尋常小学校と、現地人のための公学校の二本立てで、父親が日本人の場合は、母親が現地人であっても、日本人として扱われたので、トシヲも尋常小学校に通った。

■4.「何がなんでも春島に渡り、学校に行くぞ」

 しかし昭和20(1945)年の日本の敗戦が、14歳のトシヲの人生を大きく変えていった。南洋群島は米軍に占領され、在留邦人は日本に強制送還されることになった。妻や子供を日本に連れて帰ることは可能であったが、終戦直後で住宅も焼き尽くされ、食糧もない日本に帰っても生活が成り立つはずもなかった。多くの在留邦人が泣く泣く、家族をおいて帰国しなければならなかった。

 父・正実は英語が堪能だったため、米軍に引き揚げ作業を手伝わされた。なんとかトラックに留まりたいと米軍に在留許可を申請したが許されず、終戦から一年半後、最後の引き揚げ船で帰国させられた。「日本国内が落ち着いたら、必ず帰ってくるから」と言い残して。 大黒柱を失った一家の家計は一気に苦しくなり、トシヲは兄弟とともに、アメリカ人の始めた水産会社の下働きをして、母親を助けた。一家はなんとかやりくりして、母の郷里であるウルル島に戻った。

 トシヲは大好きだった父への思いを募らせ、「船乗りになり、日本に行って父を捜したい」といつも考えていた。それには英語や数学を学ばなければならないが、離島には学校はなかった。

 そんな折、耳寄りな話を聞いた。米海軍が諸島統治の拠点を置いた春島で、学校教育を始めるというのである。トシヲは「何がなんでも春島に渡り、学校に行くぞ」と決心した。

 それから間もなく、離島を巡る巡回船が来ることになった。「このチャンスを逃してはならない」と母親にだけ打ち明け、自分で育てたブタ一匹を抱えて巡回船に潜り込んだ。ブタは、春島に住む遠い親戚への下宿代であった。

■5.父への思い

 春島にできた学校は教室が一つしかなく、しかも満員だった。無登録のトシヲの席はなかったが、教室の外から授業を聞くことは許された。ほどなく何人かの生徒が落ちこぼれて教室に空きができ、トシヲは教室内に席を与えられた。家でも自分で石油ランプを作って、一心に勉強を続けた。

 それからわずか一年で、トシヲの英語力、数学力はアメリカ人教師を驚かせるほどに急伸し、年下の生徒たちに勉強を教える役割を務めるまでになった。勉強熱心で成績抜群のトシヲは、その後、正式な中学の教員となり、さらに22歳には信託統治政府の職員に採用された。

 仕事は順調だったが、別れた父への思いは募る一方だった。トシヲの父への思いを知ったアメリカ人将校が、日本にいる正実を見つけ、連絡をつけてくれた。しかし、その直後に届いた父からの手紙に、トシヲの胸は張り裂けそうになった。

元気でいるが、諸事情があって島には帰れない。家族との再会は諦めた。私のことは忘れて欲しい。今の生活を大事に、みなで頑張ってくれ。[1,p54]

■6.「この手で国家建設を目指そう」

「どうして? あの戦争さえなければ、父と切り離されずにすんだのに」という気持ちが、トシヲに大学進学を決意させた。人々の暮らしは政治や行政に左右される。それならば本格的に政治学や行政学を学び、島々に貢献できる仕事がしたい、と考えた。

 トシヲは信託統治政府が提供する奨学生プログラムに応募し、なんなく合格してハワイ大学に入学した。

 ハワイ大学の東西センターには、世界中の途上国から青年たちが集まっていた。彼らは自国に誇りを持ち、国家建設への意欲に燃えていた。しかし、日本人であったはずの自分のパスポートには「無国籍」と書かれていた。

 ミクロネシアは国家でなければならない、この手で国家建設を目指そう、とトシヲは心に誓った。自分は大勢の人の前で演説するのは得意ではないので、政治家には向いていない。しかし「アメリカの言いなりではなく、私たち自身の国を作るには、自ら政治家にならなければならない」と思った。

 そのチャンスは意外に早くやってきた。1957(昭和32)年、地元民による意思決定機関として、トラック諸島に地区議会が設置され、その翌年には選挙が行われることになった。 

トシヲは急遽ハワイから帰島して、立候補した。圧倒的多数で当選、27歳の若き政治家が誕生した。

■7.父との再会

 トシヲが30歳となった1961(昭和36)年、日本に行くチャンスが巡ってきた。国連の議会に派遣されることとなり、その際に日本への立ち寄りが可能となったのである。

 音信が途絶えた父を捜して一目会いたい、それだけがトシヲの願いだった。しかし唯一の手がかりは、父の手紙の差し出し区域が「品川」であったことだけだった。

 事情を知ったホテルのボーイとタクシーの運転手が、トシヲを助けてくれ、一緒に品川一帯の交番を回って、父を捜した。二日目の夕方、大井町の交番でお巡りさんが、管轄地域に「大関正実」という人がいるが、その旧姓が「中山」だったらしい、と教えてくれた。

 お巡りさんはトシヲを、2階建ての木造アパートに案内してくれた。胸が高まり、立ち尽くしていたトシヲを、ボーイとタクシー運転手が「行ってこいよ」と後押ししてくれた。

 震える手でノックすると、扉が開き、そこに初老の男が立っていた。「トシヲか!?」 男は驚いたように顔をこわばらせて、やがて小さな笑みが顔中に広がって行った。「紛れもなく15年前に別れた俺のオヤジだ」と、トシヲは心の中で叫んでいた。

 正実は体を壊し、経済的にも苦しい中で、トラック島への帰還の道もなかなか開けなかった。そんな正実を心配した親戚の世話で、かつての知り合いの女性と結婚していたのである。

 正実は親戚一同と共にトシヲを歓迎し、「体調が優れないのを整え、仕事の区切りをうけたらトラックに帰る」との約束をしてくれた。

 正実がトラックに戻ったのは、それから11年後、再婚相手を亡くした翌年の1971(昭和47)年だった。その後、トシヲの子供たち、すなわち孫達に囲まれて、穏やかな余生を送った。

■8.「トシヲは将来の大統領候補だ」

 父との再会を果たしたトシヲは、ますます国家建設の仕事に打ち込んでいった。1965(昭和40)年、ミクロネシア全域をカバーする上下両院からなる議会が設置された。トシヲはトラック地区から立候補し、当選。その後も当選を繰り返し、3期目からは上院議長に選出された。

 行政府の長は、アメリカが送り込んだ高等弁務官であったから、上院議長であるトシヲが現地側の最高指導者であった。「シャイで内気な感じ」という印象を与えるトシヲだったが、信念を貫いてアメリカ側にも主張していく姿に、「トシヲは将来の大統領候補だ」との呼び声が高まっていった。

 1979(昭和54)年、トシヲのリーダーシップによりミクロネシア連邦自治政府が発足すると、トシヲはそのまま初代大統領に選出された。その後も、トシヲはアメリカとの交渉を続け、1986(昭和61)年11月、ついに独立国家へと移行した。大統領になってから、7年半が過ぎていた。

 翌年、トシヲは2期8年の任期を全うして、政界を引退した。30年に及ぶ政治家としての活動で国家建設の初志を貫徹したのである。

■9.「これまで、一生懸命頑張ってきてほんとに良かった」

 娘のローズマリー・ナカヤマが、皇太子殿下から「お父様にもぜひお会いしたいものですね」とのお言葉を頂いたのが、大統領となった最初の年だった。それを聞いたトシヲは大変喜び、独立を目指す国家を代表して、殿下にお会いし、その光栄を国民に報告したいと願った。今でも皇室を尊崇しているミクロネシアの日系人にとって、それは最高の喜びとなるだろう。

 ただ、未だ正式な独立国となっておらず、日本との外交関係も確立していない段階で、公式にお会いすることは出来なかったが、殿下御自身のご意向で、私的に午後のお茶に招くという形で、トシヲの願いが叶えられた。昭和59(1984)年5月15日、トシヲは、東宮御所において皇太子・同妃両殿下に拝謁した。拝謁後、トシヲは興奮気味にこう語った。[1,p113]

 殿下、妃殿下とも素晴らしく美しい英語を話され、日系人であるわれわれに対する思いやりにも深いものがありました。 

 皇太子殿下、妃殿下にお会いできたことは、私たちの生涯で最大の栄誉でした。両殿下は、島の人々の暮らしぶりや日系人のことにとてもご関心が高く、いろいろ質問されました。・・・これまで、一生懸命頑張ってきてほんとに良かった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
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■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 小林泉『南の島の日本人―もうひとつの戦後史』★★★、産経新聞出版、H22

■「ミクロネシア連邦建国の父、 トシヲ・ナカヤマ大統領」に寄せられたおたより■

■元一さんより
 今回の「ミクロネシア連邦建国の父、 トシヲ・ナカヤマ大統領」の話に感動すら覚えました。

 逆境の連続とも言えるなかで、希望を失わず、何か方法があるはずだと追求し続ける トシヲ・ナカヤマ氏の生きざまは、まさに孔子が君子(リーダー)の条件に掲げた「いかなる状況でも、希望を掲げ、民の幸せを志す」に合致する生き方だと思います。

 私にもトシオ・ナカヤマ氏と同じく、日本人のDNAが引き継がれていることにエネルギーをもらいました。また、この話を紹介していただき、感謝です。

■英信さんより
 トシヲ・ナカヤマ大統領の話は、日本人の先祖・両親を敬う心、勤勉さ、誠実さのDNAを受け継いで、より良い社会を築き人々に幸せをもたらすために働いた日本人の感動の物語でした。

 今日の日本人はこの先祖に感謝し善良に生き、社会に貢献すると言う「善に生きる」「善良なる国民」の心を取り戻し、一人ひとりがお互を認め合い、尊重し合い、助け合い、国際社会に貢献するという意志を持たねばならないと痛感しました。


■編集長・伊勢雅臣より 我々現代日本人も、先祖から頂いたDNAを目覚めさせねばなりませんね。





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