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JOG(839) 国民のおばばさま、貞明皇后(上)

関東大震災直後、大正天皇は病床にあり、摂政宮はまだ23歳。貞明皇后は自分が率先して国民を勇気づけようと決心した。


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■1.「肉親の情」という伝統的精神

 東日本大震災から早3年が経とうとしている。今も約26万人もの被災者が仮設住宅などで暮らしていると聞くと、心が痛む。しかし、本誌でも紹介したように、この間の自衛隊や警察、地方自治体企業などの精魂込めた救助・支援活動には、心が洗われるものがあった[a]。

 そして、それらの人々の被災者を救う活動の励みとなったのが、両陛下をはじめとする皇族方の被災者へのお見舞いだろう。[b,c]

 2008年の中国の四川大地震では死者・行方不明者9万人規模と、東日本大震災よりもはるかに大きな被害が出たが、その一割は学校校舎倒壊による教師と生徒の被害で、特にコンクリートの中に木片を入れて材料費を抑えるなどという手抜き工事が発覚した。

 大地震に際して汚職が発覚して、被災者の苦しみを増幅させる国と、皇室を中心に一丸となって被災者を救おう、支えようとする我が国を対比してみれば、たまたま日本に生まれついた幸福を思わざるを得ない。

 同時に思いを馳せるべきは、ひたすら国民を思われる皇室の「肉親の情」は、両陛下の個人的な人徳だけではなく、皇室の伝統的精神そのものであることだ。「万世一系」とは血筋だけでなく、「肉親の情」も継承しているのである。

 その一例として、今回は今上陛下の祖母にあたられる大正天皇のお后、節子(さだこ)皇后(崩御後、貞明(ていめい)皇后と追号された)の生涯をたどってみたい。「国民のおばばさま」と敬愛された節子皇后が関東大震災に際してとった行動は、まさに現在の両陛下の御振る舞いと同じく、国民への「肉親の情」からであった。

■2.皇后の決意

 大正12(1923)年9月1日、節子皇后は病気療養中の大正天皇とともに、日光の田母沢御用邸に滞在していた。正午近くになって、御用邸は激しい地震に襲われ、柱はきしみ、棚からは物が落ちて砕ける音が響いた。女官たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。

 その女官たちを皇后は静かに手で制し、身体の不自由な大正天皇を抱きかかえて、階段を降り、庭先の芝生まで連れ出した。そして侍従を呼ぶと、急いで東京に電話して、こちらは無事であると知らせるように、また東京の様子を聞くように、と命じた。

 侍従は電話をかけたが、つながらない。そこで皇后は伝書鳩を使うように、と命じた。御用邸では、こうした場合に備えて伝書鳩を飼育していたのである。侍従は鳩の足に「両陛下は御安泰」との通信文を巻き、東京方面に向けて放った。

 暗くなるにつれて、東京の方向の空が真っ赤に染まっているのが見えた。皇后は東京にいる摂政宮(長男の昭和天皇)の身の上を案じながらも、天皇は自分がしっかりとお守りしなければと、決意していた。

 1週間もすると、東京はじめ関東各地の被害が甚大であることが報告された。摂政宮も天幕の中で生活していた。一日も早く天皇が宮城に帰還することが、国民を安心させる方法だと皇后は考えた。しかし、天皇の病状は一進一退を繰り返しており、移動は難しい。せめて自分だけでも帰京しようと皇后は決心した。

 天皇は病に倒れ、摂政宮はまだ23歳。この時、皇后はまだ39歳の若さだったが、自分が率先して国民を勇気づけようと思われたのだろう。

■3.「おばばさま」の被災地お見舞い

 皇后がまだ混乱の続く東京に向かったのは9月29日だった。その服装は夏の白い洋服に帽子だった。もはや秋も近づくので、「お召しかえをなさいましては」と女官が進言したが、皇后は、東京では多くの被災者が着の身着のままでいるのだから、自分もしばらくこのままでいたい、と言って、譲らなかった。

 皇后を乗せた列車が上野駅に着いた。駅舎も焼けて、バラック建てだった。皇后は宮城には向かわず、そのまま被災者の慰問に駆けつけた。上野自治館内の被災者収容所から宮内庁巡回病院、三井慈善病院を見舞った。皇后から声をかけられた被災者の中には、感激して泣き出す者もいた。

 当時の写真が残っているが、そこでは母親らしき女性の横で、正座した2,3歳前後の幼児4人ほどが、皇后に声をかけられている。まさに「おばばさま」が孫たちを見舞っているかのような情景である。

 特に犠牲者が多かったのが、本所の被服廠(ひふくしょう)跡だった。2万坪以上の広大な敷地は運動公園を建設する予定で空き地となっていた。そこに殺到した避難民たちを業火が襲い、実に3万8千人が犠牲となった。東京市の死者の半分以上の犠牲者数である。皇后は東京市長に案内されて、この被服廠跡を訪れると、じっと長い黙祷を捧げ、犠牲者の冥福を祈った。

 また上野公園や日比谷公会堂にも足を運び、家を失いテントで暮らす人々の間をゆっくりと縫うように歩き、優しく声をかけて慰めた。

 摂政宮も9月15日と18日の2回にわたって市内の惨状を視察していた。あまりの被害の大きさに衝撃を受けた皇太子は秋に予定されていた自身の結婚式を延期した。皇后もそれに賛成した。

 11月5日、皇后は横浜の被災地を見舞った。もう肌寒い時期となっていたが相変わらず日光を出たときに着ていた夏服だった。皇后は12月19日に沼津に行くまで、ずっと同じ服装を通した。

■4.元気なお転婆娘

 節子妃は、明治17(1884)年6月27日、九条道孝(みちたか)の四女として生まれた。生後7日目に高円寺の豪農・大河原金藏の家に預けられた。これは当時の高貴な家のしきたりで、幼少の頃に世間の風にあてて、強く育てたい、という願いからだった。

 金藏の妻ていは働き者で、信心深い女性だった。朝早く起きては、農作業に精を出した後、仏壇に灯明をあげた。その頃には節子姫も起き出して、一緒に手を合わせて仏壇を拝んだ。後に、皇后となってから、神道を究めようと努力し、戦後はキリスト教などにも関心を示したが、それはこの時の幼児体験が影響していたようだ。

 5歳の時に赤坂の九条邸に戻り、やがて華族女学校の初等科に入学した。小柄だが、とても元気で、一日も休まず、毎日徒歩で学校に通った。1年生の時に、庶民の間で流行っていたオッペケペー節を歌って、上流階級の令嬢ばかりの同級生たちは「九条さまは変な歌をお唄いあそばす」と驚かせた。元気なお転婆娘だったようだ。

 数えで16歳の時に、皇太子(後の大正天皇)の妃に内定。華族女学校の学監だった下田歌子が伊藤博文からの内命を受けて、推薦したと語っている。際だって美しいわけでも、優秀なわけでもなかったが、家柄だけでなく、元気で明るい性格が買われたようだ。

 明治33(1900)年5月10日、挙式。それまでの結婚式は宮中の内部で執り行われていたが、この時、初めて国中で奉祝行事が開催され、皇太子と節子妃の乗った4頭立ての馬車が宮城から東宮御所までパレードをした。

 皇太子の主治医ベルツは、銀座通りを歩いて、どの店にも何かしらお祝いの気持ちを表すものが飾られており、「全く絵のように美しい集団を作っている」と記した。近代的国家として勃興しつつある明治日本の国民統合の中心として、皇太子と節子妃の結婚は大いに国民の間で祝福されたのである。

 節子妃は東宮妃となると、皇太子の身の回りの世話をすべて行った。皇太子も節子妃の姿が見えないと、大声で呼んで探し回ったという。皇室における一夫一婦制が確立されたのも、この時からである。そして、成婚後、皇太子は積極的に地方巡啓を始めた。

■5.父親としての満悦ぶり

 翌明治34年4月、最初の親王、後の昭和天皇が誕生した。御成婚後、わずか1年での吉報に国民は湧いた。皇太子が明治天皇のたった一人のお世継ぎだっただけに、国民の喜びは大きかった。各地で陸海軍の祝砲が轟いた。

 親王は生後、わずか2ヶ月あまりで、里親として選ばれた海軍卿かつ枢密顧問官・川村純義伯爵のもとに移された。川村伯爵は「居常謹厳にして温良長者の風ある武人」と評される人物であった。裕仁親王は、川村伯爵のもとで3年半を過ごした。

 明治35(1902)年6月25日、節子妃は18歳の誕生日を迎え、同日、第二子が誕生した。淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)親王、後の秩父宮である。雍仁親王も、数ヶ月後には川村伯爵のもとに里子に出され、兄弟そろって育てられることになる。

 明治38(1905)年1月1日は、日露戦争で旅順要塞が陥落し、日本中が勝利を祝ったが、その翌々日、3日には第三子、光宮(みつのみや)宣仁(のぶひと)親王が誕生。後の高松宮である。節子妃は満20歳の若さで、3人の皇孫の母宮となったのだった。

 この頃、東宮御所を訪問したベルツ医師は次のように日記に書いている。

 東宮から、再び皇子たちを見てほしいとのこと。ただし病気のためではなく、皇子たちはしんから丈夫である。皇子たちに対する東宮の父親としての満悦ぶりには胸を打たれる。

まずは最初、先日拝見したばかりの、一番末の皇子を見舞う。誕生後80日にしては立派な体格、見事な発育で、お母さん似だ。

上の二人の皇子は現在、ほぼ4歳と2歳半になるが、まことに可愛らしい。行儀のよい快活な坊やである。長男の皇子は穏やかな音声と静かな挙止とで、非常に可愛らしく優しいところがある。次男の皇子はいっそうお母さん似で、すこぶる活発で元気だ。[1,p81]

 病弱だった皇太子も、この頃は節子妃の支えですっかり元気になり、3人の皇子に囲まれて幸福な家庭を満悦していた。

■6.明治天皇の後を継ぐ

 明治45(1912)年7月10日、明治天皇が病に倒れた。宮城前には平癒を祈る国民が群れをなした。節子妃は一睡もせずに病床の天皇の傍らに控えて、日夜、看護に努めた。

 しかし、その甲斐なく、7月29日に明治天皇は崩御された。その夜、皇太子が践祚し、節子妃は皇后となった。天皇は32歳、皇后は27歳の若さだった。皇后となった日の気持ちを、節子妃は次のように語っている。

 なんといっても、明治天皇さんがお崩れになったときほど、悲しく心細く感じたことはなかった。涙という涙が、すっかり流れ出してしまったような気がした。あのお偉かった明治天皇さんのお後を受けて、若いわたしたちが、どうして継いで行けることだろうかと、心配で心配でなかなかった。[1,p91]

 明治天皇は、欧米の新聞にも、半世紀の間に日本を極東の小国から、近代的な立憲君主国に導いた英明なる君主として評されていたほどであるから[e]、わずか32歳と27歳の二人が、どうして跡を継いでいけるかと心配するのも当然であった。

■7.皇太后へ

 皇后となった節子妃は「神ながらの道を究めよう」と決心する。国家国民の安寧を祈る宮中の祭祀をきちんと継承するには、神道の理解が不可欠である。節子皇后は神道の権威から講義を受け、納得のいくまで質問を繰り返した。

 同時に、天皇のほとんどの外出に同行した。これは明治天皇の時代にはなかったことだった。大正天皇を支えることで、国家を支える国母としての責務を果たそうとしたのだろう。

 大正4(1915)年12月2日、第四子の澄宮(すみのみや)崇仁(たかひと)親王、後の三笠宮が誕生した。4人の皇子を得て、皇室はまさに安泰と思われた。

 しかし、天皇としての責務の重圧から、大正9(1920)年頃から、大正天皇は病となり、翌10年には裕仁皇太子が摂政となった。その後で、冒頭で記した関東大震災が起こったのである。

 節子皇后は、大正天皇の病を看取りつつ、若き皇太子を支え、奮闘を続けた。しかし大正15(1926)年12月25日、大正天皇は47歳にして崩御した。節子皇后は42歳にして皇太后となった。

■8.「賊軍の娘」たち

 皇太后となってから、節子妃は秩父宮以下3人の弟宮たちの妃殿下選びに情熱を傾けた。秩父宮妃には、かつて朝敵と呼ばれた会津藩の藩主・松平家から松平節子が迎えた。華族ではない平民の家から皇族の妃を迎えるのは、当時の慣習を大きく破っていた。

 松平節子妃は結婚に際して、皇太后の名前と読み方は違えども、同じ字を用いるのは恐れ多いと、勢津子と改名した。「津」は会津の一字をとったもので、そこには会津魂が込められている。

 第3子の高松宮妃には、徳川幕府最後の将軍・慶喜の孫娘にあたる徳川喜久子妃が選ばれた。その喜久子妃は、次のように語っている。

 秩父宮妃殿下は会津の松平家からいらっしゃった方ですし、三笠宮妃殿下のご実家の高木正得(まさなり)子爵は幕臣でしょう。こっちは徳川慶喜の孫。だから嫁が3人寄ると、なんだかみんな、賊軍の娘ばかり揃っているかたちじゃない(笑い)。それだけに、会津でもご結婚が決まると、ご家来衆はたいそう喜んだそうです。[1,p202]

 3人の皇子たちのかつての「賊軍の娘」たちとの結婚によって、幕末に日本を二分した戦争の歴史は幕が下ろされた。節子皇太后は3人の皇子たちの結婚を通じて、皇室の国民統合の中心としての努めを果たしたのである。

(文責:伊勢雅臣)

次号に続きます。

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 工藤美代子『国母の気品 貞明皇后の生涯』★★、清流出版、H20

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