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JOG(399) 東郷平八郎 ~ 寡黙なる提督 (上)

寡黙なる提督に率いられた連合艦隊は、ロシア旅順艦隊を撃滅した。


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■1.「かういふやうな長官が来ちや、これは叶わん」■

 東郷平八郎中将が連合艦隊司令長官として佐世保に赴任したのは、明治36(1903)年10月19日だった。その後、日本海海戦で大勝を収めて「アドミラル・トーゴー」と世界に名を馳せた東郷は、この時は海軍の一般の将兵にすらほとんど知られていなかった。停車場に出迎えたのは、わずか数人の幕僚だけだった。
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 何しろその存在さえ判然と頭になかったものさへ少なくなかつた様です。・・・戦争が起こると言ふのに、かういふやうな長官が来ちや、これは叶わん、鹿児島の人だから寄越したのだらう。・・・

 さうする中に、いろいろな人が「東郷といふ人は偉い人だ」といふことを段々いひ出してきた。なンだこいつ等、どこかでお世話になつたんで、長官を褒めるのだらう。僕等はさう思ってゐた。さうすると、一ケ月ばかりすると誰も東郷さんに頭を下げる。水兵までが東郷さんが甲板を散歩して居つたと感服する。我々もソロソロ妙だなア・・・と思ふやうになった。[1,p35] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
東郷中将の連合艦隊司令長官としての寡黙なデビューであった。

■2.マカロフ中将の登場■

 明治37(1904)年2月8日、開戦劈頭、連合艦隊は仁川港外にてロシア艦2隻を撃沈。さらに旅順港外にあった戦艦2隻、巡洋艦1隻を撃破した。ロシア艦隊は旅順港内に逃げ込んだが、その士気を奮い立たせ、戦局を挽回するために新しい司令長官として任命されたのが、マカロフ中将であった。

「海軍戦術論」の著作によって、世界的戦術家としての声望を得ていたマカロフを迎えて、ロシアの全将兵の士気はたちまち高揚し、旅順艦隊の活動は急に活発になった。

 東郷は海軍大学校長であった時、マカロフの著書が出版されるや、ただちに翻訳させ、自ら書き写したり、書き込みをして研究に余念がなかった。連合艦隊司令長官として赴任した時にも、この著書を携行したと言われている。

 マカロフ率いる旅順艦隊は、たびたび港外に出ては、日本艦隊を挑発し、旅順要塞からの砲撃範囲に誘い込もうとした。しかし、その手に乗る東郷ではなかった。

■3.「そうだよ」■

 何度かこうした挑発が繰り返されたが、参謀の秋山少佐がロシア艦隊がいつも一定地点で反転して帰港するのに気がついた。そこでその地点に機雷を敷設して待ち伏せた。4月13日の明け方、日本艦隊は敵の駆逐艦1隻が港外に出ているのを見つけて、すかさず砲撃し、航行不能に陥れた。

 マカロフは駆逐艦を救うべく、戦艦ペトロパウロフスクに将旗を掲げ、旅順艦隊を率いて港外に出てきた。いつもなら機雷を掃海してから出撃するのだが、この時は急いで駆逐艦を救うために、掃海の指示を出すのを忘れていた。

 艦橋の東郷は、ツァイス双眼鏡を握りしめて、マカロフの座乗する旗艦が機雷を敷設した海域を進む様子を凝視していた。その瞬間、巨大な黒褐色の煙が立ち上り、爆発音が耳をつんざいた。戦艦ペトロパウロフスクは艦首から沈み始め、艦尾が直立して、スクリューが空中で回転しているのが見えた。やがて、マカロフの旗艦は、火炎を巻き上げながら、わずか1分30秒ほどで、海中に沈んだ。東郷はゆっくり双眼鏡をはずした。

「長官、マカロフの旗艦ではありませんか?」と秋山参謀が叫んだ。肉眼で見ていたために判別できなかったのである。東郷は静かに微笑して、「そうだよ」と答えた。

「無線電信で弔意を敵艦隊にうちましょうか」と幕僚の一人が進言したが、東郷は一言「無用」と退けた。後に東郷は「その気にならなかっただけだ」と説明している。浮かれている場合ではない。戦いはまだまだこれからだ。

 東郷は翌日、旅順港口で機雷を沈める偽の動作をして、敵の弾丸を消費させよと命じた。敵の意気が沈んでいるときこそ、さらに一撃を浴びせてなければならない。しかし、敵砲台は全く沈黙を守って応戦してこなかった。マカロフを失った衝撃があまりにも大きく、敵は沈みきっているようであった。

■4.「ありがとう、ペケナムさん」■

 しかし、ロシア艦隊にも作戦家がいた。日本艦隊が要塞砲の射程距離外を旋回して、ロシア艦隊をおびき出そうとする作戦を繰り返しているのを見て、その地点に機雷を敷設したのである。

 5月14日、戦艦初瀬と八島が相次いで機雷に触れ、二隻とも沈没してしまった。6隻しかなかった戦艦のうち、2隻をわずか一日で失ってしまったのである。九死に一生を得て、救助された初瀬の中尾艦長らは、東郷の顔を見るなり、男泣きに泣き出してしまった。「お許しください」との声がようやく艦長の口から出た。

 東郷は「ご苦労だった」と一言いったきりで、卓上にあった茶菓を全員に勧めた。翌日も、いつものごとく、東郷が童顔をにこにこさせて、甲板を散歩する姿が見られた。

 観戦武官として乗艦していたイギリスのペケナム大佐は、散歩中の東郷を見つけると、手を差し伸べて弔辞を述べたが、東郷は「ありがとう、ペケナムさん」と何か、ささやかなプレゼントでも貰ったように礼を述べて、固い握手を返した。

 後に東郷はこの時の心境を聞かれて、「彼我(ひが)勢力の転倒なきを考え自信を有したり」と簡潔に答えている。沈んでしまった戦艦の事をくよくよ考えていても、事態が変わるわけでもない。まだまだ我が方が優勢であって、自信を持って今後の戦いに望もう、という静かな闘志である。

 こうした東郷の姿に、連合艦隊は士気を取り戻し、旅順港封鎖を続けた。いささかでも動揺の気配を見せたら、ロシア艦隊が日本の封鎖を突破して、旅巡から脱出する危険があったが、常と変わらぬ日本艦隊の姿に、絶好の好機を逃してしまったのである。

■5.「司令塔は外が見えにくうてなあ」■

 
旅順要塞を背後から攻める乃木の第3軍は、8月7日から旅順旧市内に砲撃を行った。港内を見渡せる203高地がいまだ確保できず、推量による砲撃だったが、旧市内に大火災を起こし、また戦艦数隻にも命中弾が出た。

 これ以上、艦隊を損傷させてはならないと、皇帝から「旅順の艦隊を率いてウラジオストックに向け出向せよ」との命令が下り、8月10日の夜明けに戦艦7隻、巡洋艦3隻が出港した。

 単縦陣でなんとかウラジオストックに逃げ込もうとする敵艦隊に対して、東郷率いる連合艦隊はT字型に敵の行く手を遮り、さらに3千メートルまで接近して、猛撃を浴びせた。黄海海戦の始まりである。

 敵艦隊の陣形が崩れたが、その反撃も凄まじく、特に旗艦三笠は狙い打ちされて20余発の命中弾を受けて、死傷者が続出した。東郷は前艦橋に立って指揮を続けたが、近くにも一弾が炸裂し、すぐそばの伊地知艦長や参謀たちが負傷した。東郷は鮮血のしぶきを浴びながら指揮を続けた。

 島村参謀長は「長官! 司令塔内に入ってください」と叫んだ。司令塔は厚い鋼鉄で覆われ、はるかに安全である。東郷は「司令塔は外が見えにくうてなあ」と答えたきりだった。その間にも砕けた砲弾が近くを飛び交う。

 結局、ロシア艦隊は戦艦1隻、巡洋艦3隻を失い、残る艦船も無惨に変わり果てて、旅順港に戻った。

 12月5日、乃木軍は死闘の末、旅順港内を見渡せる203高地占領に成功した。そこから観測しながら、ただちに港内への砲撃を開始し、8日までにはほとんどの敵艦船を沈めた。

■6.「誓って敵の増援艦隊を撃滅し」■

 12月30日、連合艦隊主力は呉に帰着し、東郷らは汽車で上京した。新橋駅には数万の群衆が押しかけ万歳を連呼したが、東郷は時々手を挙げて応えるだけで、その表情は硬かった。ロシアのバルチック艦隊が極東に向けて出発していたからである。

 東郷は宮中に参内して、天皇皇后両陛下に拝謁した。天皇からバルチック艦隊を迎え撃つ方策について御下問があると、東郷は簡潔にこう奉答した。

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 誓って敵の増援艦隊を撃滅し、宸襟(しんきん、天皇のお心)を安んじ奉ります。
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 その言葉を聞いていた山本権兵衛・海軍大臣が「平八どん、ようもはっきり言いもしたなぁ」と感心し、伊東祐亨・海軍軍令部長が「撃滅できんときゃあ、これじゃ」と腹を切る格好をしてみせたが、東郷は確信があるのか、黙ったままでいた。

 明けて明治38年1月7日、日比谷公園で東京都民による大祝賀会が開かれた。東郷も断り切れずに出席した。東郷が紹介された瞬間、7万余人の歓呼が会場に充満した。

 東郷はただ頭を下げ、答礼を繰り返すのみだった。謙虚な東郷の態度に参会者はかえって感動したのだが、国民が熱狂すればするほど、東郷の心は醒めて、来るべきバルチック艦隊との決戦を思うのだった。

■7.バルチック艦隊はどこを通るか?■

 日本海軍が頭を悩ませていたのが、バルチック艦隊がどのような経路をとって、ウラジオストックを目指すか、という点だった。この時点でバルチック艦隊は、地中海から大西洋を南下し、アフリカ大陸の南端・喜望峰を回って、マダガスカル島に到達していた。この後、インド洋を東進し、シンガポールを経て、東シナ海に入るだろう。

 ここから朝鮮海峡をまっすぐ北上するか、日本の太平洋岸から津軽海峡、または宗谷海峡を抜けるか。いずれにしろ、バルチック艦隊がウラジオストックに逃げ込む前に、これを捉え、撃滅しなければならない。

 山本海相・伊東軍令部長・東郷の三者会談が開かれた。山本が、地図で太平洋の真ん中あたりを指先で示して言った。

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 シンガポールから真っすぐ東に進み、わが小笠原諸島の一部を占領し、北上の機会をうかがうかもしれんと、イギリスシナ艦隊の幹部は考えとるそうな。
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■8.「これで、きまいもしたぁ」■

 東郷は重い口調でこう返した。
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 イギリス人は、非常の頭が良うごわす。それにじっくり勝機をつかむまでのねばり強さも持ちょいもす。敵がイギリス艦隊じゃったら、おそらく、小笠原諸島を狙うかもしれもはん。じゃが、ロシア人は、大体において、朴訥で、男気で、大ぼっかいな所がごわす。皇帝の命令に忠実に従い、祖国のためには生命を投げ出して戦いもす。ほんに勇敢でごわした。[2,p314]
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 山本はテーブルをどんと叩いて言った。「実戦で得た、これは貴重な意見でごわすっそ。伊東どん。これで、きまいもしたぁ」

 山本の指先は、地図の上で仏領インドシナからまっすぐ北東にのび、東シナ海から朝鮮、対馬の両海峡まできて、ぴたりと止まった。

■9.「我が一門は彼の三門と対抗するを得べし」■ 

 この間に連合艦隊は各艦の補修を急いでいた。呉のドックに入った戦艦・霧島は特に損傷がひどく、技術官は修理に2ヶ月半はかかると見ていた。艦長はバルチック艦隊との決戦に間に合うか、気を揉んでいた。

 ところがいざ修理が始まると職工たちは昼休みも休まず、食事も手足を動かす合間に握り飯を頬張るだけで働き続けた。乗組員の方が気を使って、茶を運んだり、間食を振る舞ったりした。こうして2ヶ月半の予定がわずか半分で修理を完了した。職工たちもロシアとの戦いに参加していたのである。

 2月21日、東郷率いる連合艦隊は朝鮮南岸の鎮海湾根拠地に入り、猛訓練を開始した。戦艦、巡洋艦は砲撃の命中精度を上げるべく訓練を重ね、駆逐艦、水雷艇は魚雷発射の訓練を続けた。東郷は連日の猛訓練に弁当持参で立ち会い、着弾距離と命中精度を頭の中に叩き込んだ。

 バルチック艦隊は主力艦の数では、連合艦隊と同数の12隻だったが、旗艦スワロフ以下4隻は新鋭戦艦であり、また30サンチ、25サンチの主力砲は33門と、連合艦隊の17門に対して2倍近かった。

 しかし、東郷は砲の数などよりも、乗務員の士気と技量こそ、勝敗を決める鍵であることを、これまでの歴戦の経験から掴んでいた。東郷は次のような訓示を行った。

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 我が砲数少なき場合に於いても、其の照準発射迅速確実なるときはあたかも我が砲数を倍加せるが如し。黄海海戦に見るに我の三発する間に彼一発するの比例なりし故に、我が一門は彼の三門と対抗するを得べし。いはんや我が射撃の連度ははるかに敵に優るあるに於いてをや。[2,p331]
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東郷は冷静にバルチック艦隊を迎え撃とうとしていた。

(文責・伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(236) 日本海海戦 世界海戦史上にのこる大勝利は、明治日本の近代化努力の到達点だった。

b. JOG(386) 救国の軍師・児玉源太郎(下) まさに児玉は国を救うために、天が遣わした軍師であった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1.下村寅太郎、『東郷平八郎』★★★、講談社学術文庫、S56

2. 真木洋三、『東平八郎 下』、★★★、文春文庫、S63


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