JOG(1295) アイヌは縄文人の直系子孫、本土人の本家筋
アイヌは縄文人のDNA、言語、風俗、神話、宗教儀式を継承している直系子孫。まさに本土人の本家筋。
■1.アイヌ人は先住民族?
平成31年に施行されたアイヌ新法は、第一条の冒頭に「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々」と書かれています。「アイヌの人々が先住民だ」と断言しているのです。
先住民とは、たとえば北米大陸でのインディアンを、後から来て駆逐した白人と区別して呼ぶ名称です。この場合、インディアンと白人とはまったく違った民族ですので、その区別は明らかです。
しかし、後述するようにアイヌ人は縄文人の直系の子孫であり、現在の一般の本土人から見れば、本家筋にあたる人々なのです。アイヌ新法の正式名称は「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」ですが、アイヌの人々をインディアンのような先住民扱いすることこそ、誇りを傷つける所業ではないでしょうか?
アイヌの人々は我々の本家筋であり、我々の祖先である縄文人の血筋と文化、言語を最も純粋に保っている人々である、と史実に基づいて認識を深めることこそ、アイヌの人々が誇りを回復する正道でしょう。以下、アイヌが縄文人の直系の子孫であることを見ていきます。
■2.DNAで縄文人に一番近いのがアイヌの人々
まず、DNA分析の結果では、縄文人、現在の本土人、琉球人、アイヌを比較して、次のような結論が得られています。
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本土人は弥生時代以降、大陸から渡来してきた東アジア人と縄文人が混血した人びとです。とくに朝鮮半島の人びとと近縁ですが、一方で縄文人に特徴的な遺伝的要素も色濃く認められます。琉球人はこの本土人よりも縄文的要素が高く、アイヌでは非常に高く認められます。その点でアイヌは縄文人にもっとも近い人びとです。[瀬川H28、p43]
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本稿、冒頭の図表参照
東ユーラシアの遺伝的関係[瀬川H29, 47]
外見だけ見ると、アイヌの顔は彫りが深く鼻が高いのでヨーロッパ人と同類のように見えますが、これは縄文人の特徴でもあるようです。
縄文人は北海道から沖縄まで均質なDNAを持っていました。これは、日本人が南方、北方、朝鮮半島経由の3方向から入ってきた人々の混血という従来の考え方を否定する事実です。3方向からの流入と混血では、日本列島全土で均質になり得ません。
もう一つの興味深い発見は、縄文人とアイヌの遺伝子は世界でも孤立したものだという点です。
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近年の縄文人の核ゲノムの解読によれば、かれらはアフリカ、ヨーロッパ、東ユーラシア(中国・日本・ベトナムなど)の人びとのいずれにも属さない、孤立的な遺伝子的特徴をみせています。
そのため縄文人は、北東アジア人と東南アジア人の共通祖先が旧石器時代にユーラシア東端の日本列島で孤立し、独自の進化を遂げてきた、現生人類のなかでも古層の集団と考えられています。[瀬川H29、448]
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とすれば、縄文人は人類の中での旧家で、アイヌはその直系の本家ということになります。
■3.アイヌ語は縄文語の直系
言語の研究からも、DNAと一致した結論が得られています。まず、日本語とアイヌ語は大変近い関係にあります。
世界の約50言語で、「手」「目」「山」「川」「鳥」などの身体や自然の基礎語彙200語で「子音の一致する単語」「そのうち音も一致する単語」を比較すると、日本語にずば抜けて一致するのはアイヌ語(子音36単語・音19単語)だという研究結果が得られています。
日本語と大陸系の言語との関連性は全く認められていません。中期朝鮮語とはある程度一致が見られますが、それにしても子音15単語、音3単語というレベルですから、アイヌ語との一致はダントツです。これは、日本語もアイヌ語も同じく縄文語の子孫だと考えれば、当然の結果でしょう。
さらに日本の北海道、東北以外のあちこちにアイヌ語で解釈できる地名が残っているということから考えると、日本語よりもアイヌ語の方が縄文語に近い、と推定できます。
たとえば、日本各地に田んぼもない浜辺で「田」の字の入った地名が見つかります。岩手県宮古市「太田浜」、静岡県牧之原市「太田浜」、三重県鳥羽市「小田浜」、福岡県福岡市「小田浜」、鹿児島県薩摩川内市「太田の浜」などです。
「オタ」とはアイヌ語で「砂」を表します。したがって「オタ浜」とは「砂浜」を意味するのです。アイヌ語は1万年以上にわたってほとんど言葉の変化を受け付けず、したがってアイヌ語を通して、縄文語を推定できるのです。[澤田、144]
また有明海周辺で砂干潟の地名である網田(おうだ)もota(砂)に由来しますが、さらに付近の小田良はota-ra(砂丘の低地)、大田尾はota-o-i(砂の多いところ)、宇土(うと)はota-etu(砂・岬)と解釈できるとされています。[瀬川H29、503]
同様に福岡県糸島中南部にも、アイヌ語で解釈でき、かつ地形とも整合的な地名が集中して見つかっています。志登はshitu(山の走り根)、浦志はurai-ushu(梁が多い川)、波呂はparまたはchar(河口)、伊都はetu(岬の根もと)という具合です。[瀬川H29、475]
■4.抜歯とイレズミの習俗
アイヌ人が縄文人の直系の子孫であることは、抜歯とイレズミという習俗からも窺うことができます。
抜歯とは上顎の犬歯(糸切り歯)2本を10代半ばで抜くことで、「大人になるための通過儀礼」と考えられてきましたが、歯科医の方からは、犬歯を抜くことにより動物の皮を噛んで柔らかくするなどの作業がやりやすくなる、という説が出されています。また抜歯の前に硬い物を1時間も噛んでいれば、しびれて麻酔の効果も得られるとのことです。[ありせ]
抜歯は縄文中期以降は列島全体で衰退しますが、古墳時代になっても西日本では一部残存していました。アイヌは近世には千島列島を含む社会全体で行っていたいう報告があります。[瀬川H29、p313]
入れ墨も縄文時代から男女それぞれに行われていた習俗だったことは、人物埴輪の顔面線刻から明らかになっています。それが弥生時代には男性のみの習俗になり、古墳時代には戦士や鳥獣魚を扱う非農耕民などに限られていきます。北海道のアイヌの女性は近代まで口のまわりや前腕部にイレズミを行っていました。
このように、縄文人の習俗であった抜歯とイレズミは和人では次第に行われなくなっていきましたが、アイヌの間では比較的長く保たれてきました。
この点で興味深いのは、主に九州北部や瀬戸内海を中心とした「海民」が、抜歯とイレズミの習俗を受け継いでいたことです。これらの人々は大和朝廷やその後の幕府の支配にも従わず、縄文の文化を保ってきました。[澤田、713]
福岡県糸島市や有明海周辺でアイヌ語で解釈できる地名が多く残っていることを述べましたが、これらの地域はまさに「海民」の活躍舞台でした。縄文の直系の子孫が北海道ではアイヌとなり、九州北部では海民となったと考えれば、当然の結果です。
■5.神話の共通性
日本神話とアイヌ、海民の神話に共通性が見られるのも、みな縄文人の子孫と考えれば納得できます。
その例として古事記の黄泉(よみ)の国の物語を見てみましょう。これはイザナギが、亡くなった妻のイザナミを追って黄泉の国を訪れる物語です。イザナミは「黄泉の国の食べ物を口にしてしまったので、もう帰れないが、黄泉の国の神と交渉してみる」といい、「その間に私の姿を見てはいけない」と命じます。
しかし、イザナギが禁を破ってイザナミの姿を見ると、腐敗した遺体でした。恐ろしくなって逃げ帰るイザナミを、イザナミらが追ってきます。この世と黄泉の国の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナギは桃の実をとって投げて追ってくるイザナミらを退散させ、さらに岩で黄泉平坂を塞いだ、という物語です。
アイヌの伝説では、亡くなった妻に会おうとする夫が、洞窟を通って死者の世界にやってきますが、そこの人々は男に汚い食物を投げつけて追い返します。古事記の逃げ帰るのと、アイヌ伝説の追い返されるのと、物語は反転していますが、死者の世界と洞窟でつながっていること、そして死者の世界の食べ物を口にすると生者の世界に戻れなくなる、という設定は同じです。
『出雲国風土記』に記録された海民の伝説は、ほぼアイヌ伝説と同じですが、妻が洞窟を石で塞いで阻止しています。
こうした神話の類似性は、もともと縄文人たちが持っていた神話がアイヌ、海民とに継承され、本土人の方では多少の変化が生じたと考えると、明快に説明できるのです。
■6.イオマンテ(クマ祭り)は縄文人のイノシシの祭りの継承
アイヌの宗教儀式であるイオマンテ(クマ祭り)は、こう説明されています。
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アイヌのイオマンテ(クマ祭り)では、クマに仮装した神が集落を訪れ(捕獲され)、一定期間集落でもてなされ(飼育され)たのち、肉と毛皮を与えて神の国へ帰り(殺され)ます。そもそもアイヌの世界観では、猟で得た獣はすべて、人間にみずからを与えるため山からやってきた喜ばしい来訪神であり、アイヌの歓待をうけて山中へ帰っていく、往還する存在なのです。[瀬川H29、p2,375]
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このイオマンテの祭りは、縄文人のイノシシ祭りを継承したものと考えられています。春の出産期に入手したイノシシの子を初冬の頃まで飼育し、殺して共食するという儀式です。
北海道ではイノシシは生息していませんが、70カ所以上の縄文遺跡でイノシシの骨が出土しています。これは本州からわざわざ津軽海峡を越えて生きたイノシシを運んで祭りを行ったのです。
イノシシ祭りは、本州では弥生時代になると廃れてしまいます。一方、北海道では続縄文時代前期(弥生時代)に祀る動物をイノシシからクマに置き換え、イオマンテとして継承したものと考えられています。
イノシシがクマに変わった理由としては、弥生時代には本州と北海道のアイヌとの間で交易が発達し、クマの毛皮が本州で珍重されたため、という経済的理由が挙げられています。[瀬川H29、p2,610]
■7.内に信義、外に勇武
以上のDNA、言語、風俗、神話、宗教行事から見れば、アイヌが縄文人の直系の子孫であることは明らかでしょう。
本州の縄文人は弥生時代以降、寒冷化とともに狩猟採集から水田耕作に変わっていきましたが、アイヌは北海道のサケやマス、ニシン、エゾシカ、ヒクマなど豊かな自然の恵みの下で、縄文的な狩猟採集を続けたのです。だからこそアイヌが縄文人の言語も文化も宗教も豊かに継承したのです。
アイヌの精神を通じて、縄文人の精神を窺うことができます。その第一は信義です。アイヌと蠣崎(かきざき、松前藩)との戦いで、アイヌは繰り返し、だまし討ちにあっています。こんな具合です。
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永正十二年(1515)、アイヌが蜂起した。蠣崎光廣は計略を持って、酋長のシコヤとコウジの兄弟とアイヌを招き入れ、一日中酒宴を催して彼らを酔わせた。その酔ったところで全員を斬り殺したのだ。[澤田、2721]
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同様のだまし討ちが、1529年、1536年と続きます。著者の澤田氏はこう述べます。
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縄文人は仲間とは和をもって接し、争うことをしなかった。痛々しいほど真直ぐなアイヌの信義こそが、縄文人の信義そのものであったのだろう。だからこそ一万年以上にもわたって平和な社会を維持できたのである。[澤田、2734]
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一方、アイヌは攻撃してくる外敵には勇猛果敢に戦います。1264年、元軍が最初に博多を襲った文永の役の10年前、モンゴルに服属していた北方民族ニヴフの訴えにより、モンゴルはアイヌ討伐のために兵士1万、船千艘という大軍をサハリン(樺太)に送りました。ここからモンゴルとアイヌの40年以上に及ぶ戦いが始まります。
元軍が二度目に日本を襲った文永の役(1281)年の3年後、元はまたもや北方攻撃に転じ、そこから3年連続してアイヌを攻撃しています。しかし、いずれもアイヌは撃退します。さらに1297年には今度はアイヌが3度も大陸に渡り、元軍を逆襲します。凄まじい闘いぶりです。
アイヌは1305年にも大陸攻撃をしますが、世界帝国相手にアイヌ単独では勝てません。ついに1308年、アイヌは毎年毛皮を献上することを条件に形式的な降伏をします。その後はアイヌは大陸との交易で実利を得ます。
著者の澤田氏は「縄文人の血は内では和を尊び、外敵に向かっては超戦闘的なのだ」と結論しています[澤田、2,253]。外敵に対して勇武を振るうのは同胞愛の発揮であり、内なる信義と根は同じなのです。
考えてみれば、縄文人の子孫である本土人も、国内は長い平和を保ちつつ、外に対しては元寇、日清、日露、日米英戦争を戦い抜きました。アイヌほどではないにしても「内に信義、外に勇武」という縄文人の精神を受け続いているからでしょう。
(文責 伊勢雅臣)
■おたより
■伊勢雅臣より
本号に関し、数人の読者から、的場光昭氏の主張と食い違っている、最新の研究成果に基づいているのか、というご質問をいただきました。
的場光昭氏の著書 『「アイヌ先住民族」その真実―疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』(2009)は優れた論考で、氏の主張をJOG(635) 「アイヌとの同化・融和・共生の歴史」ではこう引用しています。
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日本列島東部に居住していた縄文人は、新モンゴロイドと混血することなく、その多くの特徴を残している。これがアイヌ人である。[的場前掲書,p107]
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今回の弊誌の主張と同じです。
ところが、最近のYouTube動画では、的場氏がこれを否定する発言をされていました。
的場塾 第12回 科学的アイヌ先住民族否定論『DNA分析結果と東北のアイヌ語地名』
https://youtu.be/iFRhIWJJOZk?list=PLu9uJE9ufT1gb8q-W3TDvn3dgjUv7hTew&t=249
この中で、こういうまとめをされています。
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篠田謙一氏「日本人になった祖先たち』
*ミトコンドリアDNAのハブログループYは最初カムチャッカ半島や東北シベリアの先住民のなかに見つかり、本土の日本人にはほとんどない。
*アイヌに多く含まれている。
*これはアイヌ文化(13世紀以降)に先立つオホーツク文化人(5-10世紀)にもみられる。
→アイヌはミトコンドリアDNAのハブログルーブを見る限りにおいては、北海道はもちろん東北の縄文人の子孫ではない。
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これは篠田氏の以下の文章とは矛盾した解釈であると思います。
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縄文時代にはなかったハプログループYがオホーツク文化人によってもたらされ、両者の混合によってアイヌが誕生した様子が見て取れると思います。オホーツク文化人は忽然と姿を消した、と表現されることがありますが、彼らはアイヌ集団の形成の過程で、在来の縄文系の人々と一体化していくことで、その実体がなくなっていったのだと考えられます。
[篠田謙一.新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造NHKブックス(Kindleの位置No.2467-2472).NHK出版.Kindle版]
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「両者の混合によってアイヌが誕生した」とは、「縄文人系の人々」に、オホーツク文化人の遺伝子が流れ込んだ、ということです。オホーツク文化人のDNAが流れ込んだからと言って、縄文人の子孫であることは変わりません。
上記の的場氏の論理は、
・アイヌ人は縄文人の持っていなかったDNAを持っているから、縄文人の子孫ではない
ということのようですが、それならば、
・現代の本土人も、朝鮮や中国など縄文人が持っていなかったDNAを持っているから、縄文人の子孫ではない、
ということになってしまいます。
アイヌ人の遺伝的要素が縄文人に近いものであることは、最近の研究でも指摘されています。国立遺伝学研究所の神澤秀明氏は、「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」(2015年)でこう述べておられます。
https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1
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次に、現代の日本列島人3集団と縄文人との関係を見たところ、アイヌ、琉球、本土日本人の順に縄文人の遺伝要素が強いことがわかった(図9)
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こういう最近の研究から見ても、的場氏自身が 『「アイヌ先住民族」その真実―疑問だらけの国会決議と歴史の捏造』(2009)で述べられた「日本列島東部の縄文人がアイヌ人となった」という指摘の方が正しいと弊誌は考えています。
弊誌の文献理解に誤りがあれば、是非とも読者の皆さんからご教示いただきたいと思います。
■領土的野心でのアイヌ先住民族論(敦彦さん)
今回のご論考、北海道勤務が長かった自分にとっては、長年の心の澱(おり)がとれたようで、大変印象的でした。
旭川在住時には様々な場面でアイヌの文物に触れる機会があり、また山好きですので、ニセイカウシュッペ、オプタテシケ、トムラウシ、ニペソツ、ウペペサンケなど、北海道の山々の名前の意味は分からぬとも、そこに込められたアイヌ人たちの大自然に対する限りない尊崇の念を感じつつ、これらの山々を眺めたものです。
その自然崇拝の精神には限りない共感を覚えつつも、政治的にはアイヌが利用され、あろうことかアイヌ独立論まで出てくる始末、という状況には非常に心を痛めておりました。
もちろんシャクシャイン戦争など、倭人との軋轢も当然あったでしょうけど、それらを乗り越えてアイヌと盛んに交易があったことは、大阪の塩昆布の老舗、「えびすめ」のパッケージ(今でもあるのかどうか・・・?)にも如実に現れているのを随分後になってから気づきました。
その意味で、今回のご論考は大変有益で「まさに本土人の本家筋」と言い切って頂いたことに感謝申し上げます。おりしもロシアか中共かは分かりませんが、領土的野心をもって、アイヌ先住民族論が唱えられはじめていることには、怒りと危機感を感じますが、今回の記事はそれらに対する強力な反論となることでしょう。
■伊勢雅臣
「アイヌ人は後から来た異民族」というよりも、「アイヌ人も沖縄人もヤマト人も同じ縄文人の末裔」と言った方が、先住民族論を論理的に否定できると思います。
■この列島にやってきて、ともに融和した人々という認識(夏子さん)
私の故郷、福岡市に、縄文時代にアイヌ人の祖先がいたとは! ものすごくロマンのあるお話です。
小田浜という地名を初めて知り、即、地図を見ると、確かに福岡市の西端の、小さな半島にありますね。糸島と接していて、メルマガの内容からすると、あの一帯が縄文人の都だったのかも、などと想像がふくらみました。
オタ=砂の意味の地名が各地にあり、それをつなぐカギはアイヌの人々らしい、と友人に話したら、「それってありえる」と言っていました。
直感的に、アイヌと沖縄の人は縄文顔だし、古来より、日本列島人は今の我々が考える以上に、舟を使って往来、交易をしていたようなので、今回のお話に違和感はありません。
また、最近のニュースで、北海道遠軽町の白滝遺跡群から出土した旧石器時代の石器群が、最古の国宝に指定されることとなったとありました(約3万年~1万5千年前の石器)。昨年は、三内丸山遺跡など、縄文時代の北東北、北海道の遺跡が世界遺産に登録されました。
すべて、祖国日本が、太古の昔からすぐれた文明、文化をもっていたことの証だと思います。
アイヌと琉球は日本列島の先住民、それを搾取したヤマト民族というマインドコントロールから、今を生きる1憶2,485万人の日本人の、せめて2割が解脱し、この奇跡のような列島にたどり着いた人々が、自然の恵みを大切にしながら、融和してできたのが日本国、という認識を持つと、この国には新しい風が吹くような気がします。
■伊勢雅臣より
最近の遺伝子研究の素晴らしい進歩を考えると、アイヌ人、沖縄人、ヤマト人が、もともとは縄文人として融和していた、という認識が、そう遠くない将来に定着していくでしょう。
■リンク■
・JOG(1103)公民教科書読み比べ(13)「平等権」か、「一視同仁」か
「平等権」という西欧的概念よりも、我が国の歴史に根ざした「一視同仁」を教えるべきでは?
・JOG(635)アイヌとの同化・融和・共生の歴史
「もののわかった人は、私たちアイヌを本当の日本人として尊敬してくれました」
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・ありせファミリー歯科「歯医者の考える『縄文人の抜歯の理由』
http://www.arise-dental.com/recruit/blog.php?id=113
http://arise-dental.com/recruit/blog.php?id=56
・澤田健一『縄文人の日本史 縄文人からアイヌへ』★★、柏艪舎、R01
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4434266195/japanontheg01-22/
・瀬川拓郎『縄文の思想』★★、講談社現代新書、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062884542/japanontheg01-22/
・瀬川拓郎『アイヌと縄文――もうひとつの日本の歴史』★★、ちくま新書、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480068732/japanontheg01-22/
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