見出し画像

JOG(766) 古墳はなぜ作られたのか?

 その規模と数で世界史的にも特筆すべき日本の古墳が作られた理由は何か。


過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信:https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776

■1.「世界最大の墓・大仙古墳(仁徳天皇陵)」

 古墳は日本史のみならず世界史においても特筆すべき建造物である。まずはその大きさ。育鵬社版は「世界最大の墓・大仙古墳(仁徳天皇陵)」と題して、半頁ほどのコラムを掲載している。

 大仙古墳は全長486m、高さ35m、三重の壕を含めた総面積約46万平米という巨大な墓です。土の総量だけでも10トントラック25万台分といわれ、1日2000人が働いたとしても、約16年もかかる大土木工事でした。この時代に、これほどの大工事を完成させた大和朝廷の国力と技術には目を見はります。[1,p29]

 さらに「大仙古墳(仁徳天皇陵)」の空からの写真を掲示し、「日本最大の古墳で、秦の始皇帝陵の約4倍の面積がある」と説明している。

 また別のページには「課題学習 古墳探訪」という1頁のコラムもあり、兵庫県の五色塚古墳が、当時の姿に復元された写真を掲載し、「後円部の高さは約18m、6階建てのビルとほぼ同じ高さ」などと分かりやすく解説している。

 古墳は通常、緑に覆われて自然の丘のように見えるので大きくは感じられないが、側面が石で覆われた当時の姿では、まさに人工物で、周辺の中層のマンションがごく小さく見えるほどの偉容である。[1,p31,2]

■2.「南は鹿児島県、北は岩手県」

 しかも日本の古墳で驚くべきは、巨大な古墳が一つ二つあるというのではなく、各地に巨大な、しかも同じ形式の古墳が多数作られている、という点だ。

 自由社版では以下のように、「7.大和朝廷と古墳の広まり」の章で2頁を割いて、古墳の広がりを当時の政治状況と関連させて述べている。

 古墳にほうむられていたのはクニの指導者だった。大和や河内(大阪府)には、巨大な古墳が多数つくられている。これは大和朝廷が、この地域の有力な豪族たちが聯合してつくった統一政権だったことを示している。
 同じ形式の前方後円墳は、近畿地方から、南は鹿児島県、北は岩手県にわたる国内各地へと広まっていった。これは大和朝廷の勢力の広がりを反映したものと考えられる。[3,p41]

 さらに古墳時代を前期、中期、後期と分け、それぞれの時代に作られた古墳の地理的分布を、古墳の大きさとともに、地図上に示している。それを見ると、巨大な古墳が続々と各地に作られている様に驚かされる。

■3.古墳の巨大さ、数の多さ

 日本列島にある古墳の総数は、161,560基もあるという[4]。そのうち、墳丘長が200mを超える古墳だけで35基、100m以上のものに至っては200基近くあるものと推定されている[5]。

 墳丘長486mの仁徳天皇陵が世界最大規模といっても、一つだけ群を抜いているのではなく、その後も420m、365m、335m、318m、302mと巨大な古墳が切れ目なく続く。

 3世紀頃からの約300年間、わが国は、その数と規模の両面で、列島をあげて、古墳建造に邁進していた感がある。何のためかという考察は後で取り上げるが、当時のわが国の技術力・経済力の充実と政治体制の成熟ぶりを窺わせる。

 ちなみに、朝鮮半島でも同時期に古墳が作られているが、最大のものでも、墳丘長112mに過ぎない。また半島の南端部には日本の前方後円墳と同じ形式の古墳が見られる。これは大和朝廷の勢力が半島南部に及んでいたことを示す事実だろう。

 東京書籍版の歴史教科書は、古墳については1頁だけの記述だが、さすがに「大仙古墳」の写真とともに、「世界最大級の墓です」と紹介している。[6, p25]

 今までの本シリーズで見てきたように、東京書籍版ではことさらに朝鮮半島の先進ぶりを書き込む傾向があるが、古墳の質と規模においては、はるかに日本に及ばない点をおくびにも出さないのは、いかがなものか。半島の先進ぶりのみ強調して、そうでない部分は素知らぬ顔をしているというのは、偏向記述だろう。

■4.古墳からの出土品で朝鮮半島の優位性を示す

 古墳の数や大きさでは敵(かな)わないので、東京書籍版は出土品を挙げて、朝鮮半島の先進性を強調しようとする。3分の2頁も使って、いくつかの出土品を写真で紹介しているが、そのやり口が天才的だ。[6, p27] 

 まずは「新羅の古墳から出土したかんむり」と「日本の古墳から出土したかんむり」を並べ、前者は金色、後者は緑青で錆びている。漫画の男子中学生が「よく似ているね。色がちがうのはなぜだろう」と問いかけている。

 新羅の冠は金で作られているのに、日本のは青銅で、いかにも文化的に遅れているという印象を与えようとしている。これを見た中学生は、これほどの文明差があると思ってしまうだろう。

 しかし、日本の冠は群馬県から出土したもので、当時の大和朝廷から見ればフロンティアである。地方の一首長のものであろう。例えて言えば、北朝鮮の金正恩総書記と群馬県の県知事のオフィスの豪華さを比較しているようなものではないか。そういう比較に、中学生に偏見を植え付ける以外に、何か意味があるとは思えない。

 もうひとつ見事な点は、日本の古墳から出土した鉄製のかぶと(兜)とよろい(鎧)である。それに対応する朝鮮半島の武具は表示されていない。いかにも「軍国・日本」を強調している。

 さらに、その説明文に「輸入された鉄を原料につくられました」とあり、その横には、鉄ののべ板の写真とともに「加羅(任那)地方から輸入されたと考えられています」とある。

 ほとんどの中学生は、これだけを見たら、日本では鉄の延べ板を作る技術もなかったので、先進地帯である朝鮮半島から輸入せざるをえなかった、と勘違いするだろう。

 しかし、中国の史書には、倭国が半島南部を領土としており、そこで鉄の採掘を行っていた事が記されている。他国から「輸入」したのではない[a]。半島における自国領土において、自ら鉄を採掘し、それを日本列島に持ち込んでいたのである。

■5.「仁徳天皇陵」か、「大仙古墳」か

 ついでに、もうひとつ東京書籍版にケチをつけておけば、「大仙古墳」とするのみで、「仁徳天皇陵」と併記していない。

 確かに、学術的には仁徳天皇陵とは断定されていないので地名から「大仙古墳」と呼ぶのは良いとしても、宮内庁は仁徳天皇の陵墓と指定しており、「一般的には仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)または仁徳御陵(にんとくごりょう)と呼ばれる」[6]以上、自由社版の「仁徳天皇陵(大仙古墳)」、あるいは育鵬社版の「大仙古墳(仁徳天皇陵)」の両名併記が妥当なところだろう。

 こういう点から、東京書籍版では少しでも皇室を遠ざけようという意思が働いているのでは、と勘ぐってしまう。皇室抜きには語れないのが、わが国の歴史なのだが。

 仁徳天皇といえば、人家から炊煙が立ち上っていないことで、民の暮らしを心配され、租税を免除して、その間は宮殿の屋根の茅さえ葺き替えされなかった、と言う記紀の逸話が人口に膾炙(かいしゃ)している。

 育鵬社版は、上述の「世界最大の墓・大仙古墳(仁徳天皇陵)」のコラムで、さらに次のように述べている。

 この大仙古墳は仁徳天皇陵ともよばれており、8世紀に編さんされた『古事記』『日本書紀』は、仁徳天皇が善政を行ったため民から慕われ、工事に当たっては老いも若きも力を合わせ、完成に向けて昼夜を問わず力を尽くした、と伝えています。[1,p29]

 仁徳天皇を慕う民が老いも若きも力を合わせて、御陵を作っている様を想像すれば、先人たちの心映えに接することができる。

 記紀に記された逸話が事実かどうか、この古墳が本当に仁徳天皇のものか、という事実は「学術的に治定されていない」だろう。しかし、少なくとも、長きにわたって我が先人たちが記紀の逸話を信じて仁徳天皇を敬愛し、さらにその御陵がここにあると信じてきたのは心理的事実である。

 こういう美しい心理的事実を伝えない歴史は、専門的な歴史学ではあっても、国民一般が共有すべき教養・情操を育てるための歴史教育ではないと考える。

■6.なぜこれだけ大規模の古墳が、これほど数多く作られたのか

 さて、当時の日本で、なぜこれだけ大規模の古墳が、これほど数多く作られたのか、という理由を考えてみよう。当時の先人の心映えに迫る重要な疑問である。

 あいにく、その理由については、「学術的に治定されていない」ので、想像する他はない。3種の歴史教科書とも触れていないが、授業中に先生が自分はこう想像する、というような形で、述べることはできるだろう。

 たとえば、マルクス主義歴史学のお決まりのパターンなら、王が自分の権力を誇示するために、人民を奴隷のように使って作らせた、などと説明するだろう。

 しかし、一日2千人の人が何年もかかるような巨大古墳を、約300年間にもわたって、各地で数百基も作るためには、その理由について民衆の側での何らかの納得がなければ、難しいと考える。共産党が軍隊や秘密警察を使って、人民を奴隷のように搾取していた独裁国家・ソ連そのものも、100年も持たなかったのである。

■7.「高天原」と「葦原(あしはら)の中国(なかつくに)」

「なぜ古墳はつくられたのか」、この疑問に迫っているのが、育鵬社版の著者の一人、東北大学名誉教授・田中英道氏の近著『日本の歴史 本当は何がすごいのか』[8]である。

 前方後円墳は円の部分がまるで山のように盛り上がり、方形(四角)の部分はそこに至る道のようにつくられています。高く盛り上がり天に向かっている山のような円の部分は、「高天原」を思わせます。方形の部分は大地を表し、「葦原(あしはら)の中国(なかつくに)」と呼ばれているこの世を思わせます。[8,p68]

 亡くなった共同体の長の棺は、この円の部分、すなわち「高天原」に納められる。

・・・当時は表面全部に石が敷きつめられ、周りや頂上には死者にまつわる人物、家屋、馬などをかたどった埴輪や、円筒形の埴輪が並べられました。
 
 このように美しく、盛大に祭られたのは、死者を悼(いた)むという目的のためだけではありません。死者は神になるという考えがあったからです。人は死んで神になる。神になってこの世を見守っている。そう信じられていたから、大事に葬り、あがめたのです。

 特にこの世で一つの共同体を率いた長に対しては、この信仰は強いものがありました。死んであの世に行っても、その御霊は神となって、この世にいたときと同じように共同体と結びついているのです。[8,p75]

■8.若き共同体のエネルギー

 亡くなった共同体の長の霊は、次なる長に継承されなければならない。奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫氏は、後円部の中での継承儀式を次のように復元している。

 秘儀は新王の禊(みそぎ)に始まり、亡き王の棺の横に設(しつ)らえた空間に横たわる。前王に打ち掛けられていた真床覆衾(まどこおぶすま、霊威のある寝具)が新王に掛けられる。前王の霊が付着した真床覆衾にくるまって胎児と化した新王は、静かに亡き王の霊が自らの肉体に付着するのを待つ。・・・

 秘儀は終わり、日の出とともに新王は誕生した。着衣を整え、冠を戴き、数々の玉類で飾り、剣を帯びた新王は、大型の連弧文鏡を手にした女性最高祭司に導かれて墓道からスロープを降りて、まっすぐに前方部に向かう。(JOG注: 鏡・剣・玉は三種の神器)

 そして、再度スロープを上り、朝日を浴びて、壺などで結界(JOG注: 聖なる区域を限ること)壇上に立つ。時を待って歓声があがる。こうして新王の即位もまた内外に宣言され承認されたのだ。[9,p321]

 寺沢氏は、こうした共同体の長の継承儀礼が、新天皇が前天皇の霊を継承する大嘗祭として発展したと考えている[9,p323]。

 集団作業を不可欠とする稲作の普及などで、人々は共同体なしには生きていけない時代に入っていた。共同体が人々を護り、また人々が力を合わせて共同体を支える。

 仁徳天皇陵の建設では「老いも若きも力を合わせ、完成に向けて昼夜を問わず力を尽くした」と伝えられている。そうした共同作業によって建設された古墳で、前天皇が神あがり、新天皇がその霊を継承する。

 古墳建設への参画意識が、共同体内での一体感をさらに強めたであろう。また完成した天皇陵の偉容が、自分たちの属する共同体の象徴として、人々の心を誇りと祖国愛で満たしただろう。全国各地の巨大な古墳の数々は、大和朝廷による統合が進み行く過程で若き共同体のエネルギーがほとばしり出たものと推察する。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.


■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
 
1. 伊藤隆他『新しい日本の歴史―こんな教科書で学びたい』★★★、育鵬社、H23

2. 神戸市 国指定記念物(史跡)五色塚古墳
http://bit.ly/NBhi2r

3. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23

4. Wikipedia,、「古墳」

5. 蟹江征治他『日本全史(ジャパン・クロニック) 』★★、講談社、H2

6. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

7. Wikipedia、「大仙陵古墳」

8. 田中英道『日本の歴史 本当は何がすごいのか』★★★、扶桑社、H24

9. 寺沢薫『王権誕生 日本の歴史02』★★、講談社、H12

■おたより

■君夫さんより
 今日の歴史教育がどのような実際で行われているのかよく知りませんが、かつてのように人物に関する知識が乏しいように感じますがいかがでしょうか。

 つまり、誰それがいつ・どのような場面でいかように振舞ったか、という具体的な物語が不足しているように感じました。そのために、抽象的な表現でのみ歴史を捉えようとすると、個人がどのように振舞うべきかという学習が乏しくなる、或いは他人事のように受け止めてしまう、という印象を感じます。

 そしてそのことが、今日、二宮尊徳の思想における最重要項目である「至誠」という考え方、そういう心根が不足している要因であるようにも感じています。

 特に天皇制に対する畏敬の思いが薄れるように、仕向けられている国内状況からすると、至誠の受け止め方も不安定ですね。そこに詐欺・虚偽がはびこる社会状況を生む間隙があるように存じます。

■編集長・伊勢雅臣より

 歴史教育の本質は、誰それがいつ・どのような場面でいかように振舞ったか、という所から、人としての生き方を学ぶ所にあるのでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?