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JOG(1020)下田歌子 ~「ゆりかごを揺らす手が世界を動かす」

 歌子は平安王朝の官女そのままの姿で、ヴィクトリア女王の謁見に臨んだ。


■1.バッキンガム宮殿での平安朝衣装

 1895(明治28)年5月8日、教育者として英国留学中の下田歌子はヴィクトリア女王との謁見を許された。大英帝国の女王の前に出るのは、日本女性としては歌子が初めてだった。

 華やかな飾りをつけた馬車が続く中の一台に、背筋をピンと伸ばした歌子がいた。その姿は日本の平安王朝時代の官女そのままの衣装だった。髪は長く後ろに垂れて櫛を指している。待合室で朗々たる声で名を呼ばれると、スッと立ち上がった歌子の姿に、驚きと賛美の入り交じった、かすかなどよめきが起こった。

 当時の駐英公使の青木周蔵は明治の欧米崇拝主義の権化で、古くさい平安朝の衣装で謁見するなどとんでもない、と陰口を叩いていた。この人物はドイツ在勤中に日本の妻を強引に離別し、ドイツ人女性と結婚している。当時の英国の紳士淑女が、この欧米崇拝者をどんな目で見たか想像に難くない。そんな人物の声を無視しての衣装だった。

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 私は、この時、型ばかりの洋服の礼装を持たないではありませんでした。しかし、私が考えましたには、洋装にならわぬ東洋の夫人が、しかも粗末極まる準備で、いかに心を尽くしても、到底英国の宮廷の貴婦人と肩を比べるわけにはまいりません。[1, p62]
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 ヴィクトリア女王は、日本の宮中の衣装は単純にして最も気高き気品を示すものだと、評価した。翌日の『タイムズ』紙もその美しさを称賛した。

■2.身だしなみの極意

 歌子がわざわざ平安時代の衣装で女王に謁見したのは、見栄を張ったり、女王の気を引くためではなかった。弊誌でも紹介した『女子の武士道』[2, a]の著者・石川真理子さんは、西洋のドレスは「自分の美しさをアピールするための装い」であるのに対し、日本の着物は「相手のための装い」である、と指摘している。[1, p48]

 日本の女性が英国の女王に敬意を込めた衣装を考えれば、それは日本の宮中で天皇皇后の御前にでる時の衣装であった。そのような「心尽づくし」が外に現れた結果が、女王や『タイムズ』紙の称賛であったのだろう。

 歌子は後に身だしなみについて、こう言っている。

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 身だしなみは自分を美しく見せるという考えよりも、高尚に端正にして、他人に失礼に当たらず、むしろおのずから相手に敬意を起こさしめる、というようにありたいものであります。美麗艶美というよりも、高潔、清楚というほうにありたい。それすなわち身だしなみの極意であろうと存じます。[1, p50]
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 そんな歌子の心遣いは、女王の心にも響いた。謁見の場では、歌子はヴィクトリア女王に請われるまま、日清戦争や日英同盟から、日本の婦道や武士道、女性の着物、そして日本という国家について答えた。

 理知的で気品にあふれ、しかも奥ゆかしい歌子に、女王は関心を抱いた。そして、歌子はその後もたびたびバッキンガム宮殿に召し出され、女王と親しく会食したり、1時間半も談話に興じたりした。

 拙著最新刊『世界が称賛する 日本の教育』[b]では、江戸時代の古典教育を受けた青年たちが、明治日本の近代化を達成したという「逆説」を述べたが、同様に古典教育を受けた歌子が、ヴィクトリア女王にかくも認められたのも、同様の逆説だろう。

■3.祖母の教え

 歌子は黒船来航の翌年、安政元(1854)年8月9日、美濃国恵那郡の岩村藩士・平尾家の長女として生まれた。平尾家は代々、勤王の漢学者・国学者の家柄だったが、岩村藩主は徳川一門で由緒ある松平家。堂々と勤王の志を説く父親は藩内で弾圧された。

 歌子が物心ついた頃、父は謹慎の身となっており、幼い歌子は父親が何か悪いことをしたのか、と思った。それに対して、祖母は歌子をこう諭した。

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 お前はけっして嘆き悲しむことはない。むしろたいそう誇りとすべきことである。なぜならばお前のお父様はどうしても王政を復古し、この世を天子様が御自ら治政し給う御代にし、異国を打ち払わなければならないと言って、すなわち尊皇攘夷の為に議論をして、ついにそれが叶わなかったのである。

すなわち国のために一身を犠牲にしておいでになるのだから、お前はけっして悲しいとも恥ずかしいとも思わないでよい。[1, p85]
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 幼い歌子は、極貧の家計を助けるために糸車を回しながら、将来はお国のために役立つ人間になろうと一心に本を読んだ。また、夜の7時頃から裏隣の家の主婦を中心に、歌を詠んだり、太平記を輪読する会が時々あり、歌子も子供ながらに輪に加わった。江戸日本では地方の主婦層でも好学の気風が豊かにあったのである。

 歌子が18歳になると、平尾家の今までの勤王ぶりが一挙に報われる時が来た。西郷隆盛が宮中の改革を断行し、女官にも武家の娘を採用した。平尾家の学問の深さと勤王の志が評価されて、歌子がその一人に選ばれたのである。

 家柄の低い歌子は、公家出身の女官たちからいじめを受けたが、祖母から受けた武家の娘としての厳しい躾が歌子を支えた。先輩の女官たちが宿舎で履き物を無造作に脱ぎ捨てているのを、口うるさく注意していた老女官が、歌子だけはきちんと揃えているのに感心して、皆の前で褒めた。

 歌子は涙が出るほど嬉しく思い、その夜、早速、祖母に感謝の手紙を書いた。履き物だけではない。仕事での着物のたたみ方にしても、寸分の狂いなくきっちりと素早く畳み、余った時間には人の分まで手伝った。「この子は、ただ者ではないぞ」という囁きが広まった。

■4.皇后に導かれた教育者への道

 宮中では、明治天皇、皇后とも、和歌を好まれ、しばしば歌会を催された。女官たち全員も詠進を求められた。歌子は幼い頃から国学の勉強をしていた事もあり、優れた歌を詠み、皇后からたびたびお褒めの言葉をいただいた。

 ある時、「春月」という御題で歌子の詠んだ歌を褒められ、興に乗った皇后は、もう一首と仰せられた。歌子はすらすらともう一首を書き上げ、流麗な声で読み上げた。

 それを聞き終わるなり、皇后は晴れやかなお声で「素晴らしき歌かな。春宵一刻の様がよく出ています。今日からは御歌からとって、『歌子』と名乗るがいい」と言われた。本名は鉐(せき)だったが、これ以降、歌子と名乗るようになったのである。

 この日から、先輩の女官たちも歌子に歌の指導を頼むようになった。歌子はそれまでのいじめも忘れ、いやな顔一つせずに、熱心に指導に励んだ。歌子はここで、人を教えることの面白さに気づいた。これが、後に教育者として歩んでいく原点だった。

 皇后は向学心がすこぶる旺盛で、当代一流の学者たちからご進講を受けていが、歌子の学問への思いも見抜かれたのだろう、そのご進講に歌子の陪席を許された。皇后は教育にも熱心で、女子高等師範学校などによく行啓された。そんな時も、かならず歌子を連れていかれた。

 向学の気風は皇室の伝統精神であり、その中で歌子の教育者への道はしだいに整えられていったのである。

■5.「その教師にふさわしいのは下田歌子以外にない」

 明治12(1879)年、歌子は宮中を辞して、親の決めた相手・下田猛雄と結婚した。気の進まない相手であったが、当時は親に従うしかなかった。猛雄は剣客だったが、明治の世に活躍の場はなかった。酒に逃避して、やがて癌で寝たきりの日々となった。歌子は、愚痴も言わずに看病を続けた。

 しかし、教育を重視する国風は、歌子をほっておかなかった。明治4(1871)年、明治天皇は国民に広く学問を勧める「勧学の勅諭」を出され、それを受けて学習院が作られたが、そこでの女子教育とは名ばかりだった。一方で、キリスト教系の私立女子校は続々と誕生していた。

 伊藤博文、山県有朋、井上毅など、明治政府の中心人物たちは、西欧文明は大急ぎで吸収しつつも、日本人の心根はしっかり教育しなければならない、と悩んでいた。「女子教育が進まないのは理由がある。それは女子生徒を教える先生だ」と彼らは考えた。その教師にふさわしいのは下田歌子以外にない、と誰もが考えた。

 ただ、夫を看病中の歌子には家を離れることは難しかろう、として、歌子の家で彼らの娘たちを教育して貰い、いずれ時を見て、もっと大がかりな公の女子教育に携わってもらおう、という事になった。

 後に教育勅語起草の中心人物となる井上毅[b]が自ら歌子を訪ねて、この件を依頼し、歌子は快諾した。その三日後から、政府高官の令嬢たちが、下田家を訪れて、歌子の授業を受けた。娘たちばかりか、伊藤博文や山県有朋の夫人たちも、娘たちと机を並べた。歌子は一般人の娘たちも積極的に入学させた。

 この風変わりな私塾が、明治の女子教育の起点の一つとなった。まるで吉田松陰の松下村塾の女子版である。明治政府の高官たちがいかに人作りを重視していたかが窺える逸話である。

■6.「下田教授は大臣になる器である」

 明治17(1884)年、5年もの看病の末に夫が病死した年、皇后が熱望され、伊藤博文が賛意を示す形で、天皇の直裁を仰いで華族女学校の創設が決まった。欧米列強に伍していくには、女子教育も不可欠である、というのが、伊藤の認識だった。

 伊藤ら政府高官は、日本国は今後どのような道を歩むべきか、その中で教育はどうあるべきか、について、歌子とも議論し、その時勢に対する洞察と卓見に感銘を受けていた。「下田教授は大臣になる器である」と、伊藤はよく言った。

 伊藤は、歌子を華族女子学校の教授に任命した。校長は形式上、谷干城子爵となったが、谷は学習院の院長が本務で、華族女学校の設立、運営は歌子が中心となった。それから21年、華族女学校が学習院女学部として併合されると、歌子は教授兼女学部長に任命された。

 さらに明治32(1899)年には、歌子は一般女子の教育のために実践女学校(現在の実践女子学園の前身)と女子工芸学校を自ら設立して、経営した。

 歌子は高等官2等と、官立大学長や府県知事と同等の、女子としては破格の高位を与えられ、さらには正四位にまで叙せられた。女性としては日本一高い年収を得たが、収入は実践女学校の経営や雑誌『日本婦人』の刊行、各種公共団体への寄付につぎ込み、多額の借金を抱えていた。

■7.「悪徳新聞」

 日本の女子教育を切り開いた歌子は、一般大衆からの人気も高く、ある雑誌が行った「偉い夫人」の投票では1万2千余票を得て、第2位の乃木大将夫人8千票弱を遙かに引き果たしたトップだった。

 その人気を悪用して、社会主義者の幸徳秋水や堺利彦らが創刊した反政府系の「平民新聞」が歌子を貶めるスキャンダル記事を書き始めた。伊藤博文、井上馨、山県有朋など、当時の有力政治家はみな色情狂で、「妖婦下田歌子」に操られている、というのである。

 硬い政治評論だけでは売れないので、スキャンダル記事で売ろうという、さもしい根性であった。何ら建設的なことはせずに、体制側のスキャンダルを捏造してでも人気取りをしようという姿勢は、昨今の野党とそっくりである。女子教育の第一人者のゴシップ記事として世間の話題をさらったが、歌子はこの攻撃には沈黙を守り通した。

 しかし、そんな中でも、両陛下の歌子へのご信頼はみじんも揺るがなかった。第6皇女・常宮(つねのみや)、第7皇女・周宮(かねのみや)のご幼少の時から命ぜられていた御教育掛は、周宮のご結婚まで続いた。民間でも国木田独歩や森鴎外は小説で歌子を好意的に描き、鴎外にいたっては「平民新聞」を「悪徳新聞」とあからさまに非難した。

■8.「ゆりかごを揺らす手が世界を動かす」

 英国留学から帰った歌子は、帰国歓迎会の席上で、伊藤博文にこう言っている。

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 直訳的な西洋文明への傾斜は危険です。戒めねばなりません。今こそ日本古来の婦徳の長所を生かすべく、新時代の女子教育の在り方が求められています。よほどしっかり教育せねば、これからの日本は西欧に対抗できないでしょう。
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 伊藤は「あい、分かった。だからこそあなたに留学してもらったのじゃよ。よろしく頼む」と答えて、歌子を頼もしそうに見た。

「直訳的な西洋文明への傾斜」とは、欧米崇拝の青木周蔵・駐英公使や、社会主義者の幸徳秋水や堺利彦を想像すれば、よく理解できる。脳中にあるのは西洋からコピーした思想ばかりで、胸中には伝統に根ざした徳はまるでない。そんな人間ばかりになったら、国家国民の健全な発展など望むべくもない。

 良い国家を作れるか、どうかは、良い人間を作れるかどうかにかかっている。「子供を育てていくのも、立派な人間にするのも女の仕事ですから、あなた方がしっかりしなければ日本はだめになります」と、歌子は女生徒への修身教育で説き続けた。

「ゆりかごを揺らす手が、世界を動かす」、これが女子教育者として歌子が到達した境地だった[1, p236]。その歌子を育てた祖母の躾を思えば、この言葉も腑に落ちる。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(869) 日本女性の矜持 ~『女子の武士道』から
「おなごは大黒柱を支える大地」
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