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JOG(413) 石坂泰三の「奉公人生」

自らは平凡無事な人生を望みながらも、88歳まで国家公共に奉仕し続けた幸福なる一生。


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■1.「度々ハイジャックに遭った乗客のような人生」■

 今日閉幕する愛知万博の入場者数は、目標の1500万人を大きく上回る2200万人を達成し、黒字額も100億円と見込まれている。見事な成功と言える。

しかし、この成功も35年前の大阪万博に比べれば、まだまだ小さく見える。大阪万博では当初予想の3千万人が6千万人となり、黒字額は2百億円。この運用益で、跡地には広大な万博記念公園が作られ、今も市民の憩いの場になっている。

大阪万博の会長を務めたのが、当時84歳の石坂泰三であった。閉幕時の記者会見では「何が残念だと言っても、黒字になったことだ。赤字が出たら、総理のところへねじこんでやろうと思っていたのに」と煙に巻くような人物である。

石坂泰三は第一生命保険の社長を務めた後、終戦直後に62歳にして労働争議で明け暮れる倒産寸前の東芝入りして、見事に再建を果たした。70歳から12年間は経済団体連合会(経団連)会長を務め、育ち盛りの日本経済をリード。そして見事に成人した日本経済を世界にお披露目した大阪万博の会長と、 戦後の日本経済の歩みを象徴する人生を歩んできた。

 本人は「無事是貴人(何事もないのが最上の人生)」という禅僧の言葉を理想としてきたが、「まるで飛行機に乗っていて度々ハイジャックに遭った乗客のような人生だった」と語っている。東芝社長も、経団連会長も、万博会長も、他に引き受け手がないために、引き受けさせられた仕事だった。

■2.最初の「ハイジャック」■

 石坂は明治19(1886)年、東京に生まれ、一中、一高、東大法を経て、逓信省に入った。順調なエリートコースが、崩れたのは4年目。たまたま第一生命の創業者・矢野恒太が石坂の上司に「誰か人間が欲しい」と持ち掛けた所、その上司が石坂を指名して、当時わずか70人ほどの小企業だった第一生命への移籍となった。これが最初の「ハイジャック」だった。

 第一生命では順調に出世して社長となり、昭和21年に60 歳で社長を辞めるまでは、「無事是貴人」の人生が続いた。 「わたしはね、非常に幸せでねえ、たまたま、わたしのときは生保の勃興時代で、ずっと成長していて、、、」と語るが、入社当時、業界12位程度だった第一生命をトップに肉薄する所まで伸ばしたのは、石坂の実力だろう。

7人の子宝に恵まれたが、唯一の悲しみは次男・泰介がフィリピン戦線で戦病死したことであった。  

子を亡(うしな)ひて夜ごと日ごとの悲しみにむせびて
ひらく吾子(あこ)のふみかな

 家族への愛情を隠さない人物であった。

■3.「このままでは、もう一度負けることになる」■

 昭和23年、社長を引退していた62才の石坂に、東芝の社長として来て欲しいという話が来た。戦前の最盛期には80工場、10万4千人の規模を誇る東芝であったが、戦後は仕事らしい仕事もなく、大量の人員整理か大型倒産か、の瀬戸際に立たされていた。

しかし、共産党系の過激な勢力が「革命の拠点」として東芝 を選び、労働組合を煽っていた。役員たちは、労使交渉でスリッパで殴られたり、火のついたタバコを頭に押しつけられたりとリンチまがいの仕打ちをうけ、普段でも生命の危険を感じて、自宅に帰らずホテルを転々としていた。

 そんな東芝に入ることに友人達は大反対した。しかし、かつ て自分が作った日比谷の第一生命ビルが占領軍の本部とされて 高々と星条旗が翻り、その占領軍の左寄りの政策で暴れ回る労働運動の姿は、石坂にとって、会社を失い、日本を失おうとする光景であった。

 泰介。こんなことでいいのか。このままでは戦いに負け  た上で、もう一度負けることになる。おまえの死はいよいよ空しく、報われないものになってしまう。


 石坂は東芝入りを決意した。第2のハイジャックであった。

■4.「社長が自動車に乗って、どこが悪いか」■

 東芝連合労組委員長の石川忠延は次のような証言をしている。

 ある日、見知らぬ人が一人のこのこ汚い労組事務所に来  た。「近く社長になる石坂です」といきなりいう。私をはじめ居合わせた幹部一同、どぎもを抜かした。まだ社長含みのただの取締役であった。「この会社の再建が私の仕事  です。ざっくばらんに話し合いましょう。いずれよろしく  願います」と言って去った。[1,p129]

 石坂ははじめての団体交渉に臨んで「涙をしのぶ思いである が、人員整理を実行する他はない」と言い切った。労使は全面 戦争に入ったが、石坂は逃げも隠れもせず、団体交渉には必ず 出たし、ときには自分から労組の事務所を訪れた。

 会社の玄関先で組合員が集団で騒いでいる所に、石坂が車で 乗りつけると、「ウワー、ウワーいっているところへ、自動車 なんかに乗りやがって」などと組合員が怒鳴る。

 これだけの会社を、歩いておって間に合うか。社長が自  動車に乗って、どこが悪いか。

 と、石坂が言い返すと、相手は「悪いとは言わねぇ」とつりこまれる。こんなやりとりをしている間に「結局、友達になっちゃったわけだな」と石川・労組委員長は語る。

 労組の激しい抵抗にも関わらず、任意退職者が整理予定数の 9割を超え、5ヶ月後には新しい労働協約の調印にこぎ着けた。当時、日銀の許可があれば再建整備のための緊急融資が受けられることになっていたが、東芝は労働争議中という事で、認可が下りなかった。石川委員長は「われわれも日銀に行ってお願いします」と申し出た。

■5.70歳、経団連会長に■

 その後、石坂は自ら走り回って資金を調達し、設備の更新を行った。その直後に朝鮮戦争が勃発し、業績は急激に好転する。「自分は運が良かっただけだ」と言うが、運を生かしたのは石坂の力量である。その後もテレビ・ラジオの生産、石川島芝浦タービン株式会社合併による重電部門の強化などを行い、東芝に急成長をもたらした。

 昭和31年、70歳。妻・雪子を亡くして気落ちしている石坂に、経団連会長を、との話が回ってきた。新聞記者たちが夜討ち朝駆けにやってきたが、初対面の記者にも妻の遺影を見せて「いい女房だったよ」と何度も語る。亡き妻への思いは歌に託す他はなかった。

 声なきはさびしかりけり亡き妻の写真にむかひ物言ひてみつ 悠々自適の生活に戻りたかったが、財界からの要望があまりに強く、結局、断り切れずに、会長を引き受けることになった。第3のハイジャックである。

■6.「乳母車に乗って、風車廻して喜んでいていいのか」■

 石坂は、経団連会長として、一日も早く、日本経済を国際社会の中で独り立ちさせる事を夢見た。そして産業保護政策からの脱却、資本・技術・商品の自由化、対外経済協力と経済交流の推進など、自由経済を原則とする路線を打ち出していった。

 自由化反対派は「日本経済はまだ子供だから保護が必要」と主張したが、石坂はこう反撃した。

 子供だといっても、赤ん坊じゃない。もう学校に上がっている。それなのに乳母車に乗って、風車廻して喜んでいていいのか。

 石坂は掛け声だけでなく、総論賛成各論反対の各業界の説得に、根気よく歩き回った。時には目立たぬようにホテルの部屋を借り、自動車業界首脳たちとの膝つき合わせての激論を重ねたりもした。

 育ち盛りの日本経済は、政府に規制された温室を出て、国際 経済の厳しい競争の中で鍛えていかねばならない、という石坂の主張は、日本経済を健全な発展に向かわせていった。

■7.「池田内閣と日本とどっちが大事だ」■

 自由経済を信奉する石坂は、同時に政府の経済統制にも、とことん反対した。

 池田内閣の高度成長路線が過熱気味になった時、本来なら公 定歩合をあげて調整すべき所を、時の山際正道・日銀総裁は、経営者たちを集めて、設備投資の一割削減を求める講演をした。 これが石坂の癇にさわった。早速、記者会見でこう反撃した。

 自由経済の元では、設備投資をどうするかは、われわれ経営者が考えればいいことで、政府が決める問題ではない。ましてや、日銀総裁の仕事なんかじゃない。日銀総裁は金融政策に取り組み、公定歩合をどうするかだけ考えればよい。(こんな総裁より)むしろ、コンピュータ君を総裁にすればいいんだ。[1,p14]

 石坂と池田総理とは、共に高度成長路線を信奉して蜜月の仲であったが、日本経済という伸び盛りの少年を、業界の自主規制というような小細工で縛り上げようとするとは何事か、と怒ったのである。

 ある人が「公定歩合を動かせば、政府の低金利政策は破綻したことになり、池田内閣に致命傷を負わせる。それでもいいのか」と詰め寄ると、石坂は即座に「池田内閣と日本とどっちが大事だ」と言い返した。

■8.成長した日本経済の姿を、国の内外に堂々と展示したい■

 昭和40年、79歳となり、経団連会長もすでに10年近くも務めている石坂に、今度は、日本最初の万博の会長をという要請が、三木・通産大臣からあった。大阪で開催というので、当初は関西財界の大物を起用しようとしたが、みな逃げ腰で引き受けない。もう石坂に頼むしかない、というのである。

 石坂は一度は高齢を理由に断ったが、エジプトへの出張先まで電話してくる三木の度重なる説得に、肚(はら)を固めた。

 行き場がなくなった川の流れのように、その役が自分の所に廻ってきた。あなたしか居ないと頼まれた以上、やってみるしかないではないか。もちろん、高齢のことであり、心身を消耗して命を縮めるかも知れない。だが、愛する日本のためになる仕事を思えばいまさら、どうということもない。天国では、妻も次男も待ちわびている。

 石坂は何としても万博を成功させたいと思った。自分の功名 心などではない。成長した日本経済の姿を、国の内外に堂々と展示したい、との一念である。

■9.「ヘイ、さいなら」■

 万博会長を政府に頼まれて引き受けたものの、初年度の政府予算は論外の少なさであった。向こうから頼んでおいて、どういうことかと、石坂は腹を立てて、佐藤総理のもとに乗り込んだ。

 いいですか、総理。これはもともと政府の事業で、こちらはお手伝いするだけ。予算次第でどんな万博にもできる。そこで、うまく行ったら政府の手柄になるし、失敗したら、恥をかくのはあなたの方だ。こちらはどうでもいいんだから。

 と、一方的に怒りをたたきつけると、「ヘイ、さいなら」と腰を上げて、歩き出した。総理はあわてて後を追って「わかりました、わかりましたよ。石坂さん」

 こうした一幕があって、万博予算は要求の95%認められることになったが、「なんだ。わざわざ行って頼んだのに、95%か」と石坂はなおも不満そうであった。官庁から出向した次 長が「こういうものは糊代(のりしろ)があって、95%といえば、120%ついたも同じです」と取りなすと、石坂はまた雷を落とした。「おまえら役人め。そういう税金の使い方をして居るのか!」

 こんな調子で、政府を動かし、協会職員たちを率いて、大阪万博の大成功をもたらしたのである。

■10.「きみら、ボーイスカウトを応援しろよ」■

 84歳にして万博を成功させた後も、石坂にはまだ250近くもの肩書きが残っていた。その中でも、特に力を入れて務めた職が二つある。

 ひとつは「宮内庁参与」。お召しがあると、いつにない緊張 ぶりで宮中に向かう。天皇との間でどのような会話が交わされたのかは、石坂は一切話さないが、陛下については「ユーモア があって、まじめでたいした方だ」と感心するばかりであった。 

 昭和49年、88歳にして、狭心症の発作で2度、合計4ヶ 月ほども入院生活を送ったが、明けて昭和50年の元旦には、周囲の猛反対を押し切って、例年通り宮中への参賀に赴いた。無事、参賀を終えた石坂は「さあ、終わった。もう矢でも鉄砲でも持ってこい」と上機嫌だった。周囲の者は、石坂が天皇陛下に、黙ってお別れの挨拶をしてきたのだろう、と推測した。

 石坂がもう一つ、熱心に取り組んだのが、ボーイスカウト連盟総裁だった。自ら日本ジャンボリー大会に、半袖半ズボンの制服を着て参加した。きびきび行動する少年達の姿に、石坂は明日の日本を託す思いで、ボーイスカウト運動にのめり込んでいった。

 昭和天皇にお別れの挨拶をした3ヶ月後の昭和50年3月6日、石坂は88年9ヶ月の生涯を閉じた。「無事是貴人」を夢見ながらも、頼まれれば断れずに、国家公共のために尽くした「奉公人生」だった。

 武道館で行われた葬儀では、ボーイスカウトの少年たちが会 場の整理に当たった。その様子に、「きみら、そんなことをしているなら、ボーイスカウトを応援しろよ」という石坂の声を思い出す財界人もあった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a .JOG(103) 下村治高度成長のシナリオ・ライター。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 城山三郎『もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界』★★★、 文春文庫、H10


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