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JOG(584) 日本武尊 ~「安国(やすくに)」への道

日本武尊は大君から「服(まつろ)わぬ者共を言(こと)向け和(やわ)せ」と命ぜられた。


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■1.「倭(やまと)は国のまほろば」■

 三重県中部、鈴鹿山脈のふもとに能褒野(のぼの)という地がある。のどかな田畑が広がる変哲もない土地だが、古事記によれば、ここが日本武尊(やまとたけるのみこと)の終焉の地であるという。

 日本武尊は関東、東北への遠征を終え、今まさに故郷に辿り着こうとする処だった。帰り道に近江の伊吹山に立ち寄った際に、山の神が降らせた毒気を含んだ雹(ひょう)を浴びて、体を壊してしまった。

 弱った体のまま、大和の国を目指して鈴鹿山脈沿いに南下し、三重県四日市あたりで杖を衝きつつ登った坂は、今も杖衝坂(つえつきざか)と呼ばれている。

 そこから能褒野に辿り着く。この先の鈴鹿峠を越えると、伊賀の国に入り、さらに西に進むと、大和の国に辿り着く。しかし、もう尊は歩けなくなった。


倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(こも)れる倭しうるはし
(大和は国の中でもひときわ秀でた土地。重なり合う青い垣根のように連なる山々に囲まれた大和こそ麗しい)

 死期を悟った尊の望郷の念が、切々たる歌の調べに籠もっている。

 建国記念日を機に、今回は古事記などをもとに作家・神渡良平氏が小説として描き出した日本武尊の物語を通じて、我々の祖先がどのような思いで我が国を建設してきたのか、偲んでみたい。

■2.日本武尊の誕生■

 初代神武天皇が九州から東征し、奈良盆地の南を領して、即位したのが、一説では西暦181年[a]。それから1世紀ほど後の3世紀後半と推定される第10代崇神天皇は、后を近江(滋賀県)、山背(京都府)、紀国(和歌山県)から迎えており、大和朝廷の勢力圏が近畿一円に広がった事が窺える。[b]

 4世紀前半に在位したと思われる第12代景行天皇は、九州の熊襲(くまそ)が大和朝廷に反旗を翻した際に、自ら軍勢を率いて出征し、平定している。族長を討ち取り、その妹と伯父の子を娶せて、所領安堵し、国造(くにのみやつこ)に任命したのだが、その15年後、再び、反旗を翻した。

 また九州北部のクヌ国も、朝鮮半島の百済を後ろ盾として周辺諸国を侵しつつあり、それらの国々から相次いで救援の懇請が届いていた。このままでは、南九州は熊襲、北九州はクヌ国に抑えられ、九州全体が大和朝廷に敵対する形になってしまう。これでは平和な国作りは進められない。

 景行天皇は、皇子の一人、16歳の小碓(おうす、後の日本武尊)を派遣することとした。初陣もまだの少年には重すぎる任務であり、返り討ちにあう危険もあったが、天皇はあえて小碓を選んだ。

 小碓の母は、双子の兄でおっとりした大碓(おおうす)にかかり切りで、小碓は母に愛されていないとひがみ、素行が荒れていた。天皇は小碓を後継者として考えていたのだが、あえて危険な任務を与えることで、その甘えを削ぎ落とそうとしたのである。

 小碓はクヌ国を戦いで打ち破り、さらに熊襲の族長は、単身、女装して宴会の席に忍び込んで倒した。小碓の大胆さに感じ入った族長は死の間際に「日本を背負って立つ勇ましい男」という意味で、「日本武尊」の名を奉り、以後、大和朝廷への服属を誓った。

 遠征軍の将兵等と力を合わせ、死地を乗り越えていく過程で、尊は国家を担う青年皇子として成長していった。

■3.父の思い■

 九州遠征から還って、約20年後、今度は駿河の国から救援の要請が届いた。東北から関東にかけて、荒ぶる者、服(まつろ)わぬ者が跋扈して、騒がしくなっているという。

 父・景行天皇は他の皇子をさしおいて、またしても尊に出征を命じた。尊は40歳近い壮年となり、弟橘姫という最愛の妻と暮らしていたが、大君の命に従い、軍を率いて出発した。

 出征の途上、伊勢神宮に立ち寄り、斎王(いつきのみこ、神に仕える巫女)をしている叔母・倭姫(やまとひめ)に、こうこぼした。

 父君は私を戦地から戦地へと追い立てられますが、私が戦死したらいいとでもお考えになっているのでしょうか。

 語るにつれて感情が高ぶり、尊は拳で床を叩き、うめいた。その尊に倭姫は、こう語った。 

尊さま、熊襲退治に出征されたときのことを覚えておいでですか。

 倭姫は、この時の大君の気持ちを語った。大君は生きるか死ぬかの戦いに尊を出すことを迷われ、伊勢神宮にお参りして天照大神に神意を尋ねた。倭姫を通じて下された神意は、「小碓を派遣するように」というものだった。大君は泣きながら、それに従った。 

 すめら尊の息子に生まれたから、自動的に皇位継承できるということではない。民草の父となり、国民が安心して日々の労働にいそしめる国を作るには、その使命に自らの身命を捧げるほどの厳しい道を行かなければならない。

 今度の東征はただ単に東国の服(まつろ)わぬ者共を成敗しに行くのではありませぬ。さまざまな死地を潜り抜けて、そなたの甘えを削ぎ落とし、真にすめら尊の内実を継承するために行くのです。

 尊は父の思いを初めて知って、絶句した。涙が頬を伝わった。

■4.「安国(やすくに)と平らけく知ろしめせ」■

 尊の率いる朝廷軍は、伊勢湾から船で遠州灘を渡り、駿河湾に入って、焼津湊に上陸した。初めて見る富士の神々しい姿に、一行は我を忘れて見入った。尊は東征の勝利を祈るために、祭壇を設け、祝詞を奏上した。

 ・・・我が皇御孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原の瑞穂の国を安国(やすくに)と平らけく知ろしめせと、事依さし奉り

(皇室の先祖の神々は、子孫がこの豊かな日本の国土を安らかな国として平和に治めよと、お任せになった)

 尊の朗々と奏上する声が、風に乗って、裾野に広がっていった。それを聞きながら、将兵たちは、この東征は大和朝廷の勢力圏の拡大のためではなく、歴代のすめら尊が先祖から託された「安国と平らけく知ろしめせ」という歴史的使命を果たすためのものである事を感じとった。その思いが尊の軍の志気をいやが上にも高めた。

■5.「服ろわぬ者共を言(こと)向け和(やわ)せ」■

 このあたりは廬原夏花(いおはなのなつはな)の治める、関東・東北の中での強大な国の一つで、廬原は朝廷に帰属するとも敵対するとも明らかにしていなかった。

 廬原は手下を使って、尊の軍勢が薄の原を通過する際に火攻めの奇襲をかけさせたが、尊の軍はなんとか脱した。その手下を捕らえた尊は、夏花の許に乗り込んで問い詰めた。夏花は床に這いつくばって許しを乞うた。

 尊は夏花に二度と謀反を起こさないと誓わせ、蟄居引退させて、息子に家督を継がせた。自分たちを殺そうとした賊だけに「処分が甘いのでは」と将兵は不満顔だったが、尊は言った。

 これで東国には鬼より怖い日本武尊がやって来たが、恭順の意を表すれば、滅ぼされずにすむという噂が広がるだろう。そうすれば無益な殺生をしなくてすむ。

 尊は父の大君から「服ろわぬ者共を言(こと)向け和(やわ)せ」と命ぜられていた。相手を武力で打倒するだけでは、憾みが残り、こちらの力が弱まれば、また反逆するだろう。それではいつまでも「安国」は実現できない。「言向け和す」ことこそ、「安国への道」なのだ。尊は、すめら尊の御心を自分のものとしつつあった。

■6.「使命を投げ出してはなりませぬ」■

 一行はさらに東上し、三浦半島から房総半島まで、浦賀水道を船で渡ろうとした。約14キロ先の対岸が手にとるように見える。「これぐらいの海峡は、ひと跨(また)ぎだ」と尊は見栄を切った。しかし、いざ漕ぎ出すと、霞んでいた空はいつの間にか黒雲に覆われ、海面がうねり始めた。大波を受けて、船が木の葉のように揺れる。

 尊の后・弟橘姫(おとたちばなひめ)が言った。

 尊さま、これは海神の仕業です。こんな海峡など、ひと跨ぎで越えられると侮られて、海神が怒り狂っています。今朝出航に際し、何の神事もやらなかったことが、傲岸不遜に映ったようです。誰か生け贄(いえにえ)を差し出せと要求しています。私が生け贄になって身を捧げるしかありません。

 激しく揺れる船の中で、顔面蒼白になった尊は答えた。

 姫を生け贄に差し出せだと? そんなことが受け入れられるわけがない。東征など止めた、止めた。もう大和に帰り、姫と楽しく暮らすんだ。

 その言葉に、姫は毅然と叫んだ。

 尊さま、弱音を吐いてはなりませぬ。尊さまは日継ぎの御子として大君さまをお助けし、豊葦原の瑞穂国を導いていく使命がおありなのです。使命を投げ出して小人の楽しみを貪りたいなどと弱音を吐いてはなりませぬ。尊さま私は参ります。

 そう言うと、姫は荒れ狂う海に飛び込んだ。暗い海があっという間に姫を呑み込んだ。「姫っ、姫ーっ」と尊は姫を助けるために海に飛び込もうとしたが、将兵等がその体にしがみつき、離さなかった。

 まもなく海は凪(な)ぎ、茜(あかね)色に縁取られた雲間から、一条の光が射してきた。その光はまるで姫が天に帰る道筋を指し示しているかのように、神々しく七色に輝いていた。

■7.「君去らず」■

 対岸に辿り着いた尊は、夕闇迫る海岸を独り歩いた。海は何事もなかったように鎮まり、富士山までが遠望できた。

 姫、君が最後に言った言葉は、私の心に深く刻まれている。人は生まれたとき、どうすることもできない使命を、すでに背負っているんだね。だからそのことを受入れ、使命成就に向かって、身命を賭して頑張るだけだ。

 姫、ありがとう。心から礼を言おう。そなたが身命を賭して教えてくれたことが、ようやく分かった。きっときっと役目を果たすからな。 姫の面影はいつまでも尊の心から去らなかった。人々はこの土地を誰言うとなく、「君去らず」-「きさらず(木更津)」と呼ぶようになった。

 翌朝、近くの漁師が浜に珍しいものが流れ着いたと届けに来た。見ると、姫が着ていた衣の袖である。以来、この浦は袖ヶ浦と呼ばれている。

■8.「大和軍は日高見さ攻めできで、強奪しようっつのが」■

 尊の軍団はそこから北上し、現在の宮城県のほぼ中央、多賀城を本拠地とする日高見(ひたかみ)国に入った。待ち受けていたのは、国主・道奥(みちおく)と数百の軍勢だった。道奥は「大和軍は日高見さ攻めできで、強奪しようっつのが」とまくしたてた。

 尊は使者を送って、大和国と日高見国は先祖を同じくする代代の盟邦であり、一つの国として天照大神の直系の子孫である大君を支えていくべき、と教え諭した。それをなお国境を閉ざして別の国としてやっていくというなら、戦端を開いて雌雄を決するしかない、と迫った。

 道奥は平伏し、服従の意を表した。日本武尊は道奥の所領を安堵し、あえて罪を問わなかった。道奥は改めて思った。

 わしは間違っていた。すめら尊は権力の覇者だとばっかり思ってだっけ、そうでねえ。天照大神の精神は大君の中さぎっつり受け継がれでる。わしはこの方さ、ついでぐ。そんで一緒さなって、葦牙(あしかび)の萌え出る美し国を創り上げでいくべや。

 東北地方の中心的勢力であった日高見国が尊に靡いたことで、東征の目的はほぼ達せられた。前回の九州遠征では武力や謀で相手をねじ伏せたが、今回は「言向け和わす」ことで、ほとんど戦わずに国家の統一を進めることができた。尊の心は、着実に父・景行天皇、そして天照大神の大御心に近づきつつあった。

■9.天翔る白鳥■

 尊の軍団は帰途に就き、筑波から諏訪を経由して、熱田に出た。そして、もう一息で故郷の大和に帰れるという処で、冒頭の悲劇にあうのである。

 尊の死を知った大君は人目もはばからず号泣し、嘆き悲しんだ。そして能褒野に陵(みささぎ)を造って尊を手厚く葬った。明治12年に内務省が日本武尊の墓と指定した能褒野稜は、長さ90メートルもの前方後円墳である。

 その陵の陰から白鳥が天駆け、大和の国を指して飛んでいった、と古事記は伝えている。

「安国」の実現に生命を捧げた日本武尊の物語は、以来、多くの日本人の心の中に生き続けている。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(381) 大和の国と邪馬台国 我が国はいつ、どのように建国されたのか?【リンク工事中】

b. JOG(534) 打倒されたヤマタイ国 魏の権威を借りて国内を治めようとする邪馬台国に挑戦した国があった。【リンク工事中】

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 神渡良平『天翔ける日本武尊 上・下』★★★、致知出版社、H19

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