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【無料公開】日本の唱歌童謡史講座「第2章 唱歌と君が代の物語

第2章 唱歌と君が代の物語

第1章では音楽取調掛創設者で日本の西洋式音楽教育の道を切り開いた伊沢修二という人物のエピソードを中心に、日本における音楽の文明開化について解説をしましたが、日本音楽の欧米化近代化は音楽教育の現場以外でも行われたところがあります。それはどこかというと「外交と軍楽隊」の現場です。

この講座では唱歌童謡を中心に日本音楽の近代化、現在私たちが楽しんでいる日常の音楽、即ち歌謡曲や演歌、ポピュラー音楽が元々どのようなところからスタートしてきたのかを理解することを主眼としていますが、君が代のエピソードはどうしても外せないものでもあるので、ここで取り上げたいと思います。

現代人にはピンとこないことかもしれませんが、19世紀頃の近代国家どうしの外交現場には儀礼的な式典とそこに使われる軍楽隊の音楽が必要なものでした。それらを兼ね備えてなければ一人前の近代国家とは認めてもらえなかったのです。中でも「国歌」を早急に作ることが、明治新政府の課題となります。

最初の立役者はイギリスの軍楽隊員で横浜に赴任してきていたジョン・ウィリアムス・フェントン(1831-1890)という人物です。明治2年にヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッドが来日することが決まり、フェントンは儀礼式典での国家演奏の必要性を日本政府に説明しますが、当時の日本人には国歌という概念そのものが無かったので苦労したという記録が残っています。

ともかくフェントンは国歌を作曲し、イギリスから吹奏楽用の楽器一式を取り寄せ、薩摩藩の若者たちに西洋式の吹奏楽の指導を始めます。これは伊沢修二らが音楽取調掛を創設するよりも前のことですので、日本における西洋式の音楽指導事始はこちらのほうだということになります。

さて、せっかくフェントンが作ってくれた国歌でしたが、これを聴いてみてどのように感じられるでしょうか?よく言えばコラール風のメロディではあるのですが、メロディと日本語の歌詞がまったく噛み合っていない、ということは日本人なら音楽専門家ではなくても感じることではないでしょうか。

これはフェントンが日本語に詳しくなかったせいかもしれませんが、日本人の軍楽隊メンバーは、なんだかおかしな曲だなと当時すでに感じていたようです。そう思いつつも明治9年まではこの曲が公式な式典で演奏されていたようで、よくわからないけど西洋文明というのはこういうものだと理解していたのかもしれません。

しかし「やはりこれは変えるべき」と声を上げたのは海軍軍楽隊の若き隊長・中村祐庸(1852-1925)でした。彼はこの曲を演奏する立場でしたが、言葉とメロディがちぐはぐなこの曲では心が込められないから、もっと日本人の感性にあうメロディに改変すべきだと主張しました。

その後、西南戦争がおこり一旦改変どころではなくなるのですが、戦後フェントンがイギリスへ帰国し、海軍軍楽隊は様式をイギリス式からドイツ式に改めることになり、ドイツから音楽教師であるフランツ・エッケルト(1852-1916)が来日します。エッケルトはフェントン版の君が代はやはり駄目だと断じ、ついに海軍省から宮内省に新しい国歌制作を依頼することになります。

依頼を受けた宮内省では雅楽局の林廣守(1831-1896)に作曲を命じます。新しい君が代のメロディは弟子の奥好義(1857-1933)らが共同で作曲しましたが、当時の習慣として選者である林の名義で出来上がった曲が海軍省に届けられました。

ちなみに宮内省雅楽局の楽員は当時から西洋音楽もマスターすることが義務付けられていて、その伝統は今も受け継がれています。

さて、これこそが現代我々が知っている君が代のメロディです。作曲者が「西洋音楽を理解した雅楽奏者」であったことはとても興味深いことです。即ち、雅楽でも西洋式の楽団ででも演奏出来るメロディが生み出された訳です。現在までよく聴かれる吹奏楽編成の君が代はエッケルトが西洋式のハーモニーをつけて編曲したものですが、雅楽編成で演奏される君が代もとても良い響きを持っています。

メロディは「律音階」と呼ばれる雅楽で用いられる音使いで出来ています。レミソラドレ~レシラソミレという音使いです。これは民謡などで使われる所謂ヨナ抜き音階(ドレミソラド~ドラソミレドやラシドミファラ~ラファミドシラ)といった俗な音使いとは違うもので、雅な雰囲気を出すことに成功しています。

この雅楽から生み出された君が代はとても完成度が高いもので、荘厳さも演出出来るものでしたが、それ故にかえって、大衆が楽しんで歌うものにはならず、その後の帝国主義日本の成長の中で、一種崇拝の対象のようになっていきました。

つまり、この一曲のみが神々しくなりすぎてしまい、同じような趣旨による楽曲は他には生み出されなくなってしまいました。即ち、一曲のみ個性的にずば抜けてしまって、ジャンルとしての成長拡大は全く無かったのです。この君が代に変わりうる国歌を考えようとしても、何を持ってきても変わりにするには楽曲としての力不足を思わせるほどに、この君が代の個性はずば抜けているのです。

さて、この君が代のエピソードはここで終わりになりません。海軍省と宮内省が主導してきた国歌制定の動きに、なんと文部省が割って入ります。なんとも縦割りな話ではあるのですが、ここまでの動きに反発するかのように文部省は明治15年に伊沢修二率いる音楽取調掛に国歌の制定を発令します。文部省としては「国の音楽のことなら我々の仕事」という意識があったようです。

指示を受けた伊沢修二のほうは困りました。音楽取調掛の事業はまだ始まったばかりであり、古今東西の音楽を研究して「新しい国楽」を興すにはまだまだ時間がかかると考えていたのです。しかし、指示があった以上、文部省版の国歌を作り、提出せねばなりません。

当時の音楽取調掛はまだ「西洋の楽曲のうち、日本人に馴染みやすいメロディを持ってきて、日本語の歌詞を当て嵌める」という方式で、学校教育用の唱歌を整備している段階でした。日本人の作曲による文部省唱歌が生み出されるのはもっとあとのことです。

この頃に整備された楽曲は現代にも歌い継がれている良曲が多くあります。「埴生の宿」「仰げば尊し」「蛍の光」「霞か雲か」などはこの頃に日本の学校教育に導入された曲ですが、全て元々は外国のメロディのものです。

そのような段階でしたから、文部省版の君が代は唱歌の形態で、やはり外国のメロディをもとにして作られました。又、されとは別に七五調の4篇からなる長い国歌の歌詞案も提出されました。

しかし、これらの文部省の動きは、伊沢修二が心配したとおり、時期尚早であり、文部省上層部自身も「もし定着しなかったら面目が潰れる」というようないかにもお役人らしいことを言い出し、文部省の国歌案はその後自然消滅へ向かっていきます。

結局のところ、現代に続く日本人の音楽に一番影響を与え、拡大発展していったのは伊沢修二の目指した和洋折衷による「新しい国楽」創りからでした。次回はいよいよ国産の唱歌が創り出されるエピソードに入ります。

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