蝶々幼いハンス楽譜画像

【無料公開】日本の唱歌童謡史講座「はじめに」「第1章 音楽の文明開化・伊沢修二と音楽取調掛の物語」

はじめに

日本での音楽は、江戸時代までに培われてきた伝統的な邦楽(雅楽、声明などの仏教音楽、神楽、能楽、浄瑠璃、長唄などの唄もの、民謡、詩吟、筝曲などの器楽)などがまずありました。

そこに明治維新文明開化という大改革が押し寄せて、西洋文明のドレミファソラシドの音楽が輸入され、日本人の感性によってそれが日本の文化と融合して新しく創造されてきたものが加わって形作られて来ました。

世界の近代史は弱肉強食であり、強い国の文明が世界に強引に拡散され、弱い国の文化は滅亡させられるかの危機となりました。そして実際に欧米列強以外の地域では固有の文化、音楽や言語すら滅びてしまった場合も数多ありました。それは現在進行形でもあります。

そのような中で、日本という国は、世界を見渡し、客観的に眺めてみると、とても特徴のある面白い国だと思います。弱肉強食の近代世界の中で、日本は欧米諸国以外・白人以外の国で唯一、いち早く欧米文明を自ら取り入れ、自らも世界の列強に並び立つようにまでなってしまいました。そこまでは良かったのですが、日本は結局、欧米帝国主義と同じ道に入ってしまい、あげく戦争に敗れてボロボロになりました。

近代日本の歩みは、どこまでが良かったことで、どこから道を誤ったのかは、今後この国がどのような方向に進めば良いかの、大切な歴史の教訓であることは間違いないでしょう。ただ、これらのことについて「全肯定」か「全否定」かの極端な議論になることはあまりよろしく無いとも思えます。

ともかく、日本は近代世界史の中で、かなり独特の歩みをしてきたことは間違いありません。欧米文明優位の中で、独自の言語を忘れてしまって英語やフランス語を普段話している民族も世界には多かったりします。実際日本でも漢字やかなをやめて全部ローマ字にすべきと主張した学者も多かったようです。

しかし日本人は自らの文化を捨てるのではなく、欧米文明をうまく取り入れて「独自の新しい日本の文化」を生み出してきました。今回の講座で取り上げる日本の唱歌と童謡も、そのような視点で眺めてみると、とても面白く、価値ある存在だと再認識出来るでしょう。

講座目次

第1章 「音楽の文明開化」伊沢修二と音楽取調掛の物語

第2章 唱歌と君が代の物語

第3章 日本国産の唱歌創出、文部省唱歌の時代

第4章 芸術文化人からの反抗、童謡運動とは

第5章 芸術的唱歌誕生、語り継ぐべき唱歌童謡

第1章 「音楽の文明開化」伊沢修二と音楽取調掛の物語

明治維新後、日本は欧米列強帝国主義に植民地にされないよう、列強諸国に追いつき追い越すことを目標に、積極的に欧米文明を取り入れ始めました。音楽教育の分野で、その先頭に立ったのが伊沢修二(1851-1917)という方です。この方は元々音楽家だった訳ではなく、若手の文部省官僚でした。

伊沢修二は信濃国(長野県)の下級武士の子として生まれましたが、江戸に出て、ジョン万次郎やアメリカ人宣教師に英語を習うなど、勉学に勤しんだ英才でした。文部省に出仕してのち、20代の若さで愛知師範学校の校長になってしまいます。今ではちょっと考えられませんが、当時は西洋文明を学んだ者はそれだけ貴重な人材だったのでしょう。

師範学校というのは「学校の先生を育てる学校」つまり今で言う教育大学な訳ですが、「西洋式の教育者を育てるにはどうしたらいいか」のノウハウが当時あった訳ではなく、伊沢はそれを確立することが最初の仕事でした。そこで伊沢はアメリカへ教育調査のため留学することになります。

伊沢は、アメリカのマサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で、西洋式の教育というものを学びます。彼は驚異的な勉強家であらゆる分野の学問とその教育方法をマスターしていきますが、唯一音楽だけが苦手であったそうです。「日本人だから仕方ない」と大目に見てくれそうになるも彼はそれを拒否!

頑固な彼は、なんとしても音楽をマスターすべく、学校のカリキュラムとは別に、アメリカでの高名な音楽教育家であるルーサー・メーソンに教育音楽の手ほどきを受けに行きます。メーソンも日本での西洋式の音楽教育に興味を持ち、後に日本政府から招聘されて来日することになります。

伊沢はメーソンに教育音楽を学ぶうち「人間の情操の発達には音楽の力が必要であり、日本の文化もこの面で充実させ、諸外国にも通じる日本の文化としての国楽を興していくべきだ」と考えるようになり、文部省に音楽教育の必要性を具申します。そして誕生したのが日本における最初の西洋式音楽教育研究機関である「音楽取調掛」です。

音楽取調掛では、日本の子供たちにどのように西洋式の音楽教育をしていくのかが研究されました。メーソンは、日本人が西洋音楽を学ぶにあたって無理なくマスター出来そうな曲をいくつか井沢に紹介しました。そのうちのひとつが、現在日本で「ちょうちょ」として知られている唱歌です。

元々はドイツの古い童謡で「幼いハンス」というタイトルだったものです。それがアメリカに伝わって全然違う歌詞の「軽く漕げ」というボートに乗る童謡になりました。それが日本に伝わって更に全然違う歌詞の「蝶々」になりました。

元々の「幼いハンス」から日本の音楽教育に取り入れた「蝶々」はメロディが少し改変してあります。「幼いハンス」はメロディの最後がドミソソドーとなっていて、最後のソからドへの動きがいかにもドイツ民謡らしい歌いまわしになっていたのですが、これが当時の日本人には歌いにくかったようです。

そこで伊沢は最後の音をドではなくミに変更しました。ソからミへの動きは当時の日本のわらべうたなどにもある動きだったので、子供たちも馴染みやすかったのです。西洋音楽理論的に言えば、最後はドにするのが終止形のセオリーでしたが、伊沢はあえてそこから離れました。「蝶々」の、いかにもふわりとした終わり方は日本人の感性にもぴたりとあい、現代まで愛される「日本の名曲」になりました。

明治初期の日本における音楽教育がどうあるべきかについて、「日本の音楽は遅れているから廃止して完全に西洋音楽を取り入れるべき」という主張と、「西洋音楽と日本の伝統音楽の折衷でいくべき」という主張の対立がありました。伊沢は、メーソンから学んだ経験から後者の意見でした。

伊沢のそのような考えがなければ「蝶々」のメロディの改変もなく、おそらく日本の音楽教育は違う道を歩んでいたでしょう。初期の段階での唱歌教育で「仰げば尊し」「蛍の光」「埴生の宿」といった“世界の民謡のうち日本人の感性にあうもの”が選ばれたのは、伊沢のそのような考えが反映されたものでした。

そして、伊沢は西洋の音楽と日本及び東洋の音楽の両方を研究し、「新しい日本の文化としての音楽」を、日本人の豊かな感性のもとで生み出していこうと考えて、日本の音楽教育の道筋を確立しました。音楽専門家ではなく、文部省官僚であった彼がそのような役割を果たしたということはとても興味深いことです。

音楽取調掛はその後東京音楽学校になり、現在は東京芸術大学音楽学部となっています。伊沢修二はその後、日清戦争後に日本領となった台湾に渡り、植民地教育に身を投じて後、貴族院議員になったりしています。伊沢修二は音楽専門家ではなかったことから、彼の功績や名前が現代にあまり知られていないのは残念でもあります。

私たちが普段楽しんでいる音楽は西洋音楽が基盤になっているものの、内容は日本人らしさがとてもよく出ているものが多いのです。もし、伊沢修二たちが日本の音楽教育の道筋を西洋崇拝一辺倒にしてしまっていたら、私たちは今頃、日本語も忘れ、英語で生活していたかもしれない、なんて言ったら大袈裟かもしれませんが、その可能性はあったかもしれないのです。

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