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バランスの取り方

アップデート

前回の2月の執筆から9ヶ月、自分の環境には少し変化あり。国際関係の部署から異動となり、社内副業として週1回勤務していた部署で正式に週5日働くことに。英語を使う機会や、海外のカウンターパートと言語・文化を越えて駆け引きする機会はほぼ失われたが、その分、スポーツをはじめとした文化・エンターテインメント面の新規事業開発にフルタイムで従事する機会を得た。新しいことを始めるには変化が必要で、変化を起こして新しいものを得る際には大なり小なり失うものもある。それを失うことを受入れた時に覚悟は生まれるし、自分はその覚悟を持って新たな機会にチャレンジしているつもりだ。

譲れない2%と譲っても良い98%

大学時代の印象深い授業の中に「自己表現論」というものがある。「自己表現」のタイトル通り最終的には自己を表現するのだが、その前段で自分自身と対話し自分を知ることが要求されるというユニークな授業だった。当時開催第1回目のWBC(現在のプレミア12の前身の位置づけだと思う)でイチロー選手が日本代表を率いて世界一を達成したこともあってか、イチロー選手を1つの例に「譲れない2%と譲っても良い98%」というトピックで先生が話をしてくれたのを覚えている。「イチローは『WBCで優勝する』というゴールを設定し、そこは頑として何があっても譲らなかった。一方、『WBCでの優勝』というゴールを達成すべく、寡黙、クール、孤高、というそれまでの自身のスタイルを捨てた。いわば『WBCでの優勝』は何があっても貫き通す『譲れない』部分で、自身のスタイルは捨てることもできる『譲っても良い』部分。人間は前者が全体の2%さえあれば良い。色々なものを削ぎ落としていった時に自分の中に残る2%を、自分と向き合って見つけなさい。」という内容だった。自分の中の譲れない2%が譲ってはいけない98%に流されそうになる瞬間を何度も経験し、30代も半ばに差掛かった今、この言葉が如何に深く重いものかがわかる。

自分にとっての「譲れない2%」とは

新規事業関連の部署に異動し、事業開発していく中では、度々躓くことや立ち止まることがあった。勤務先・部署の方針や、実現性、収益性など考えることは色々あるのだが、突き詰めていくとそんなことの前に「自分は何がしたいのか、何を実現したいのか」ということに行き着く。スポーツの仕事を勤務先で検討する以上、自分はスポーツで何を成し遂げたいのか、それ以前に何故スポーツが自分にとって大事なのか、という問いに対する答えを自分自身が持っていないといけない。この点については、かなりの時間をかけて自分自身と対話した。それこそ小学生時代に地元の大親友と毎日のように放課後に野球をしていたことから、中高とバスケで輝きも挫折も味わい、大学でラクロスと出会って「組織力」の素晴らしさに目覚め、社会人でもラクロスを続けながら「遊び心」を持つことの素晴らしさを学んだことまで。そして何よりも留学中にアメリカで見たNCAAのスケールのデカさと懐の深さも。その結果、自分が成し遂げたいもの、求めているものは「1人でも多くのアスリートや元アスリートが社会で活躍している、そんな社会を築くことに貢献したい」ということだった。

いくつかの原体験

こう思うに至ったのにはいくつかの原体験がある。自分よりも高い身体能力を持ち、苦境にも負けないメンタリティを小さい頃から持っていた友達が、そのポテンシャルを社会で発揮し切れていないという現実。これには心から悔しさを感じている。大学では部活だけして授業はほとんど出ず、大学を卒業するまで文字通りスポーツしかしていない人たちも少なからずいるという日本の現実。一方で、強制色があるとはいえ4年間キッチリと勉強して授業でも発言しレポートも必ず提出するべく毎日のように図書館で課題と睨めっこし、オフシーズンにはインターンまでしているアメリカの学生アスリートたち。卒業後社会で活躍しやすいのはどちらか、一目瞭然である。学業面やその先にある社会での活躍の可能性を、半ば自ら閉ざしている日本の学生アスリートが置かれた環境にも悔しさを感じている。この悔しさを払拭したい、という思いが私の原体験といえるだろう。

「一意専心」の枠を取っ払いたい

守るのは「芯の芯にある2%」だけで、単一のスポーツや仕事や学業分野に固執することではない。いろんなことをやるからこそ、「芯の芯にある2%」が研ぎ澄まされて見えてくることもある。その研ぎ澄まし型は人それぞれ。ただ、1人でも多くの人がそんなことを感じられるように、その境地に立てるように、私は「一意専心」の枠を取っ払えるようなしかけをしていきたい、と思っている。

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