「Noahの」について
文学フリマ東京38にて頒布した『華焔』Vol.2に掲載の詩、「Noahの」について、数人の方から戴いた感想の中に、「難しい」という意見がありました。
折角読んで下さった方を混乱させてしまうのは本意ではないですし、多くの方にもっと気軽に詩を読んで貰いたいので、この機会に少しだけ説明します。
パレスチナ問題をどう考えるか、というのがまずあって、そこから回文を使って制作しました。
回文について述べます。
昨年、Espace Louis Vuitton Tokyoで開催されたCerith Wyn Evansの個展に感銘を受け(それは間テクスト性を脱構築する内容のものだったのですが)、Cerith Wyn Evansについて調べるうちに出会ったのが、思想家であるGuy Debordの以下の回文でした。
In girum imus nocte et consumimur igni(われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを)
ラテン語によるこの回文はGuy Debord自身が監督・脚本を務めた映画のタイトルにもなっています(GaumontからDVDが発売されていますので興味のある方はぜひ)。
そんな出会いがあり、暫く回文制作に夢中になってしまったのですが、それが昨年の夏の事で、話を元に戻すと、「Noahの」のほとんどの部分はその時に作りました。
タイトルにある「Noah」はユダヤ教とキリスト教に共通する洪水伝説で(元はメソポタミアの神話らしいのですが)、タイトル含めて五連の回文になっています。
それがコインの表です。
回文には中心のあるものとないものがあって、五連のうち四つの連には中心があります。
その中心の字を結ぶと、「アクサの」という語になります。
アクサ……パレスチナの聖地であり、問題の直接的なきっかけとなった「アクサの洪水作戦」のアクサでもあります。
それがコインの裏です(どちらが表でも裏でもよいのですが)。
そういう二重性があって、かつ、タイトル含めた五連の中心(三連目)に回文としての中心がないのは無意識でそうなったのかも知れません。
『華焔』Vol.2のゲストに招いた映画監督の越川道夫さんが以前、「礫を投げずに対峙する、その際に構造から考える」と仰ったのが残っていて、特に、「構造から考える」を念頭に置きつつ仕上げました(と言っても、元々書いてあった詩にタイトルを付け、改行を整えただけですが)。
不思議なのは、この詩のタイトル以外の部分を書いたのが昨年の夏であるという事です。
magicのある作品になったかな、と思っております。