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1.序論

 本稿では、「『生きられない』生」を扱うことを試みている。けれども、額面通りに受け取るのであれば、これは妙な表現だ。現に生きているものを生きられないと言うのだから。それでは、そもそも「『生きられない』生」とは何であろうか。
 ところで、性の本質論的前提を覆す議論によって現代思想の転換点をつくったジュディス・バトラーは、その主著『ジェンダー・トラブル』のもうひとつの序文において、「社会のなかで『不可能』で、理解不能で、実現不能で、非現実的で非合法な存在として生きることがどういうことかを分かっていれば[1](understood what it is to live in the social world as what is “impossible,” illegible, unrealizable, unreal, and illegitimate[2])」ジェンダーの可能性の場を開こうとする試みにそれが何の役に立つのかという問いを発する者はいないだろうとし、次のように述べている。

〔ジェンダーの〕非自然化について記述したのは、(……)一部の批評家が推測したように、単に言語と戯れたいとか、「現実」の政治の場で道化を演じてみせたいと思ったからではない。生きたい、生きられるようにしたい、可能なものそれ自体について考え直したいと思ったから、そのようなことをおこなったのである。[3]

「可能なものそれ自体について考え直したい(to rethink the possible as such[4])」とはどういうことなのだろうか。本研究の目的もまさにバトラーの言うところの「生きられるようにしたい(to make life possible[5])」という点にあるわけだが、なぜこのような問題設定が要請されるのかを本稿で紐解いていきたい。
 前半では主に、発達障害や実際にあった事件など具体的な次元で丁寧に検証する。それらの意味するところを確認したうえで、後半では、表象や認識の問題にも触れながら議論を発展させていく。
 同じ境遇にあっても「その後」は同じでないように、「生きづらさ」は誰でも抱き得るものである一方で、時折そこから溢れ落ちてしまう者がいるのではないだろうか。「問題はそこなのだ。いつもそれが問題なのだ。なぜなのだ。なぜ大半の者はまったくつまずかず、ほかのものはそうではないのか[6]」。可能なものそれ自体について考え直したいのである。

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[1]ジュディス・バトラー「『ジェンダー・トラブル』序文(1999)」『現代思想』(二〇〇〇年十二月、六六〜八三頁)、青土社、六七頁。
[2]Judith Butler, Gender Trouble, Routledge Classics, viii.
[3]前掲書、「『ジェンダー・トラブル』序文(1999)」『現代思想』、七五〜六頁。
[4]Ibid.,xxi.
[5]Ibid.
[6]デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』、亜紀書房、一五五頁。

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