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【生きられなさ】4−1.創造する生【4.終わるもの、終わらないもの】

 さて。先ほどあのようなかたちで「#MeToo」運動に言及したのにはわけがある。性的暴行を受けたひとがその後長い期間にわたって生々しいままの傷を抱えることをPTSD(外傷後ストレス障害)と言ってしまえばそうなのかもしれないが、「いじめPTSD」についても、近年「小学生で経験したいじめ被害は、成人のメンタルヘルスにおいても重大なリスクファクターとなる[134]」ことが実証されたように、世の中にはそのようにして「終わらない」ことがあることを示しているのではないか。
 誰にとって終わらないのか、いつか終わるのかは、わからない。さまざまなことが複雑に絡み合った結果、すぐに終わるひともいるだろうし、長い時間のあとに終わるひとも、命の限り終わらないひともいるだろう。ただ、「不登校の<その後>研究」を専門とするひとがいたり、『その後の不自由「嵐」のあとを生きる人たち』[135]という本があるように、『不登校は終わらない』[136]し、『アウシュヴィッツは終わらない』[137]のである。
 プリーモ・レーヴィが引用した、オーストリア出身の哲学者ジャン・アメリーの言葉は非常に興味深い。

拷問を受けたものはその後ずっと拷問され続ける。(……)拷問にさらされたものはこの世の中に適応できなくなる。自分を否定されたことへの憎悪は決して消え去らない。人間への信頼感は、初めて顔に平手打ちを受けたことでひびが入るのだが、その後拷問によって破壊され、もう決して取り戻せなくなる。[138]

「終わらない」ものを目の前にしたとき、「当事者とは、『誰がそうか』ではなく『いかにそうなる』が問われるような構築的な概念[139]」であるという貴戸の指摘は重要である。以下のように模索する「終わりのない語り」の可能性は、貴戸が専門とする「不登校の<その後>研究」のみならず、「『生きられない』生」においても有用であろう。

「克服」という「結末」を持たず、起承転結の見えないまま、一人ひとりの現状にもとづいて「終わりのない語り」を語り続ける、いわば一人称単数の「私の語り」の集積でしかありえないような何かである。[140]

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[133]スーザン・ソンタグ『隠喩としての病いエイズとその隠喩』、みすず書房。
[134]前掲書、「『無敵』のロックンロール!『友達なんていらない死ね』」『ポップスで精神医学』、九八頁。
[135]上岡陽江、大嶋栄子『その後の不自由「嵐」のあとを生きる人たち』、医学書院。
[136]貴戸理恵『不登校は終わらない』、新曜社。
[137]プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』、朝日選書。
[138]前掲書、『溺れるものと救われるもの』、一九頁。
[139]前掲書『「コミュ障」の社会学』、二七八頁。
[140]同上、一〇四頁。

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