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【生きづらさ】2−4.地誌的な風景【2.ひとと人間の境目から】

 主に不登校という現象を取り上げつつ改めて社会を捉え直す『「コミュ障」の社会学』によれば、近年、「生きづらさ」という言葉が多用されるようになってきているという。朝日新聞の記事検索で調べた著者によると、「生きづらさ」という表現は一九九五年に初めて現れたのち二〇〇〇年代以降も増加傾向にあり、語の使われ方は以下のような変遷を辿る。

九〇年代には「精神障害」「アダルト・チルドレン」など精神・心理領域の問題が中心だったのが、二〇〇〇年代半ば頃までに、「依存症」「自助グループ」「不登校」「ひきこもり」「ニート」「女性・男性」「少年犯罪」「障害」などの言葉と共に使われるようになり、適用範囲が拡大されていく。さらに二〇〇七年代後半になると、それまでのものに加えて、「プレカリアート」「ワーキングプア」など反貧困系のキーワードや、「発達障害」も登場してくる。同時に、若者だけでなく、子どもの生きづらさや、「無縁社会」など高齢者の生きづらさも注目されるようになる。[94]

このようなデータを目の当たりにすると、さまざまな事情を内包できる極めて利便性の高い用語であるが故に「生きづらさ」という表現が多く用いられるようになったように思える。むろんそのような側面があることも否定はしない。たが、その語があらゆるケースを言い表すことができるということ以上に、「生きづらい」としか言いようのない事態が起きている可能性に目を向けたい〔太字は筆者による〕。

私はここで、生きづらさを「個人化した『社会からの漏れ落ち』の痛み」と定義しておきたい。「生きづらさ」という主観的で曖昧な表現は、それ自体、「生きることをめぐる痛みもはや特定の状態や属性によって一枚岩的には語りえない個人化された状態にあることを示している。特定の逸脱経験があるから、あるいはマイノリティ属性を共有するからといって、「あなた」と「わたし」が同じ苦しみのなかにあると素朴には想定し得ない。社会からの漏れ落ち方は多様化し、その痛みは、生きづらさという個人の身体感覚にまで切りつめられた言葉でしか表しえないものになっている。[95]

生き方は多様化している。仕事であれば、定年まで勤めるひともいれば、転職するひともいるし、起業するひとや、インターネットを活用してフリーランスになるひともいる。異性愛者に限っても、結婚するひともいれば、シングルでいるひともいて、離婚を選ぶひともいる。いわゆる実家との付き合いも人それぞれであるし、とてもじゃないが一億総ナントカとは言えないような時代になってきているのである。それ故に、問題のあり方や現れ方までもが多様化し、個別的にしか消化されないようになってきており、「共通の属性や状態を足場とする集団的な抵抗が困難[96]」になっているのだ。たとえば同じ「女性」でも、学歴や職種、家庭へのスタンスなどはさまざまであるから、「女性」という枠組みで一致団結していくことには困難がつきまとう。そのような意味で、「『生きづらさ』は、個人化・リスク化した人生における苦しみを表す日常語なのだ[97]」と考えられよう。

私たちは、自分の苦しみを「生きづらい」という言葉でしか語れない時代を生きている。もう「女性」「障がい者」「不登校者」といった集合的な属性や状態に寄せて、自分の苦しみを語ることはしにくい。特定の属性や状態にある人に不利益が集中する構造は色濃く残っているにもかかわらず、それらを「属性や状態による差別」と捉えるよりは、「個人で切り抜けるべき」と認識する視線が強くなっている。個人化・リスク化を前提として受け入れなければ、過酷化する競争のスタートラインにさえ立てない。そしてその競争はしばしば、勝っても、負けても、降りても、「生きづらい」。[98]

多様化した生き方のなかでは、問題を個人のレベルで説明しなければならなくなってくる。発達障害について述べたとき灰色診断の考え方に触れたが、まさに臨床の現場でそれが目指されているように、具体的な問題を解決しようと思うとき必要なのは個別のケースに丁寧に寄り添うことであって、定型発達か発達障害かという大きすぎるくくりではない。また、男女二元論が過去のものとなり、ジェンダーがグラデーションで捉えられるように、「男だから」「女だから」という枠組みでは語れないことが増えてきた。もちろん、それ自体は適切なことである。けれども、それぞれのなかで語られる個別具体的な話はあくまでも個人的な問題とされ、社会のあり方とはまた切り離されてしまう危険性を孕む。集団的な足場がないなかでは、「私が漏れ落ちたのは、私が差別に遭遇したためではなく、私の選択がまちがっていたから/能力が及ばなかったから[99]」という認識が生まれがちだ。
 そして、同じロジックを逆の立場から投げかけているのが、そのような共通した足場のない社会を生き抜く人々が身に付ける、問題のある社会と自分の人生への態度を切り離すというスタンスなのかもしれない。

「問題あるこの社会」と「人生に対する態度」を切り離すとは、「社会に問題があるのはもう仕方がない、そのうえで何とか勝ち残れる方法を探すしかない、そして負ければ自己責任」ということだ。[100]

大学で教鞭を執っている著者によれば、いじめをテーマに講義をしたとき学生から返ってくる反応といえば、魅力的な子とそうでない子がいれば前者の地位が高くて当然であるし強者と弱者がいる限りいじめはなくならない、というものだという。被害者に逃げ場がなくて誰も加害者を罰しないといういじめを可能にする社会的条件があってこそのものだから、本来的にはいじめはなくすよりも成立することのほうが難しい、という内容の講義に対して、である。こうした態度を、著者は「個人化とリスク化が進行する現代において、学生たちが取る生存戦略であり、『与えられた環境のなかで精いっぱい有利に生きたい』という健やかさである[101]」と述べているし、実際そうなのだろう。限られた時間や労力しかない限られた人生のなかで、より良い今を求める生き方という意味において、短期的には賢い生き方なのかもしれない。しかしながら、現実には、「『普通に、順調に』人生を歩んでいるように見える人は『まだ漏れ落ちていない人』に過ぎず、『漏れ落ちた人』と地続き[102]」の現状を生きているに過ぎない。何かのきっかけ、たとえば事故や震災などで「問題のあるこの社会」の問題を切り離して生きるという選択肢を失ったときには重くのしかかってくるのである。「『生きづらさ』においては(……)この社会に生きるすべての人が『当事者』になりうるのだ[103]」。
 しかしながら、いつ誰が社会から漏れ落ちても不思議ではないというだけでなく、ある特定の社会的属性を持つひとが漏れ落ちやすい傾向があるという現象は依然として起きている[104]。たとえば「『大卒男性フリーター』が出現してはじめて不安定労働は社会問題化されたが、実際には大幅に雇用が減ったり非正規化が進行したのは、高卒者や女性[105]」だったように、経済的に不利な立場にあるだけでなくそれが「問題化されない」という二重の差別が働いているのだ。つまり、誰もが「生きづらさ」を抱える時代になったからこそ「生きづらさ」そのものは可視化されてきたが、問題にすらされなかった「生きづらさ」を語る用意は、社会にはまだできていない。
 また著者は「自己を語りえない」しんどさを抱えることが「生きづらさ」を部分的に構成していると指摘する[106]。そしてこれは、「埒外の民」の構造と似ているのではないだろうか。自分がどのような状況に置かれているのか客観的に把握することができず、本質がわかりにくい。その結果、自他ともに理解が実際の姿から乖離してしまい、それが余計に苦しみを生む。隙間に見過ごされた「生きづらさ」を「発見」できないことそのものがさらなる「生きづらさ」を引き起こすのである。これについてはのちにまた言及することにしよう。

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[94]貴戸理恵『「コミュ障」の社会学』、青土社、四三〜四頁。
[95]同上、九〇頁。
[96]同上、九一頁。
[97]同上、四五頁。
[98]同上、五一〜二頁。
[99]同上、九一頁。
[100]同上、四九頁。
[101]同上、四八頁。
[102]同上、九二頁。
[103]同上、一二八頁。
[104]同上、一二七頁。
[105]同上、一二八頁。
[106]同上、一八七頁。

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