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国鉄改革のあゆみ 6

国鉄改革に伴い広域移動、本日は元々労使協調路線を堅持してきた鉄労について取り上げたいと思います。

結成当初から労使協調路線を堅持した鉄労

鉄労の歴史を簡単に振り返ってみますと、昭和32年の国労新潟地方本部が本部の意向を無視したストライキ(新潟闘争)を行った際に、その運動に反対する方針を持つ組合員が離脱した、国鉄職能労連をその母体とする。
昭和32年11月には、国鉄職能労連同様、国労から離脱した地方総連が集まり、「新国鉄労働組合連合【新国労】)を結成、をその後、昭和43年に名称を「新国労」→「鉄労」に名称を変更、基本的には「労使協調路線」を貫き、国労・動労が労使対立していくのに対して穏健派と呼ばれストをしない組合と言うイメージが持たれていました。

基本はストライキをしないこと、その理由は雇用を守ること

さて、そんな鉄労ですが、労使協調路線、民営化推進を当局とともに行うことで、組合の論理として雇用の確保が図れることをを第一義に考えていたようです。

当時の記述を、公企レポートから見てみますと、鉄労志摩書記長は下記のように述べています。

今回の大幅な広域異動は、「余剰人員対策ではあらず」、むしろ今まで行ってきた余剰人員対策から深度化した「転職の問題」と考えていると発言しています。

受け皿の少ない、北海道や九州は現状のままでは今までの手法では余剰人員対策は解決できないわけで、それぞれ公的機関も、民間事業、関連事業を含めて比較的受け皿の大きい本州に移動させることが労働組合として考えると労働条件や雇用条件に機会の均等化となり、今回の措置は当然であると考えていると発言するあたり、労使協調路線を組合活動においてきた組合らしい判断です。

そしてその効果は顕著に現れ、北海道・九州ではかなりの余剰人員を発生させたにも関わらず、鉄労組合員はほぼ100%新会社に移行できたのに対し、北海道では国労組合員の約7割にあたる3400人【不採用者全体は4767人】、九州も同様で国労組合員の約7割にあたる1550人【不採用者全体は2111人】【この数字は、季刊労働法148号(昭和63年・7・25号より引用)

というように、凄まじいものがありました。

次回は、全施労の見解です。

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