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飲酒、嘔吐、固着としてのアディクション

23歳男性、シスでヘテロな大学院生(その他の差異に関してはこの投稿では留保する)としての書き殴り。

2年前くらいの飲み会から、自分の手で、文字通り自分の右手を使ってという意味でだけど、吐くことを覚えた。人差し指一本だけでは出力が足りないから大抵は中指か中指×薬指の2本を使って、口の中に指を突っ込んで食道と気道の分かれ目にある弁のようなものの手前の喉を掻き出すようにしてリズムを与えながら小気味よく壁を押してゆくと、次第に吐き気が生じて、限界だ…という定点をそれでも超えて手指の往復運動を続けてゆくと、吐くことができる。

アルコールを摂取した後でしかこの行為をやったことはないのだけど、嘔吐の体験はすごく気持ちがいい。”嘔吐”の字面だけみるとそれはしんどさだったり病むに病まれぬ事情だったり体調の悪さだったりが思い起こされるのだけれど、私にとっては今のところ気持ちがいい体験として捉えられている。それも性的な感触を伴ったものとして。

”性的”といったのには、二つ理由があるように思う。まず、喉の壁を二つの指で掻き出す往復運動を繰り返しながらエクスタシー(限界をギリギリで超えた過剰を目指す)が訪れるという点に対してだ。これは身体的・生理的・肉感的に捉えられる位相であるように思う。そして、私のからだで起こっていることだけでなく私自身が掻き出す行為をするとき——大抵は目をつぶってイメージを喚起するのだが——に生じていることもある。私が嘔吐体験をするにあたり便器の前に屈みこみながら懺悔でもするかのように首を垂れて手淫でもするかのような往復-上下運動を繰り返しする際に、”中学生時代に好意を抱いていたがその思いは叶えることができず「思い出の中の少女」として記憶されていた女性にとって、私の性器(男根)をフェラチオすること、それも喉の奥まで挿入するような過剰な行為として演出してみせることは、どんな苦痛を伴っているのだろうか”という妄想をしながら、自身の嚥下が頼りなくなるまで指を動かしている、そんな過去果たされなかった性への投影をしながら想像を膨らませるイメージの位相も伴っているように思う。

嘔吐するときには不快感はなく、ただ自分の食道から口へとモノモノしい物体がゴロゴロと通り過ぎる感触に悦を覚えているように思う。カラッカラの労働後にビールを流し込む快感、ラーメンを啜るときの喉越し、そんな喉づかいのちょうど逆方向で生じる放出感がたまらなく気持ちのいいものに感じられる。”こんなに汚らわしいことを…”という背徳感ももちろんあるだろうけれど、そうした後めたい気持ちではなくてもっと”排出したい”という気持ちに近いものだ。これには”食べすぎてしまった”という過食性を嘔吐で減ずるような作用もあるかもしれないが、今の私にとっては嘔吐の瞬間に生じる排泄欲の方がもっと親身に感じられるような気がする。

アディクションはよく「依存症」や「嗜癖」といった言葉で語られることが多いように思われるが、私にとって飲酒と併存した嘔吐はむしろ「固着」の表現の方がしっくりくる。それなしでは語れない、それなしで済ませることはできない、それをする以外の選択肢が浮かびづらいといった具合に。”飲酒をしたときには嘔吐しなければならない”という強迫観念に駆られるというよりも、飲酒と地続きに嘔吐がある、飲酒と切り離された嘔吐はおよそ考えられない、飲酒あってこその嘔吐であり嘔吐あってこその飲酒でありそれが自分が優れて気持ちよくなる方法として水路づけられているピッタリとくっついて離れない、とでもいうべきか。


鬱屈した自己物語、しかもそのエピソードを他人に対して語れない、他人への説明可能性を考慮して話すことができない、そんな自閉した悩める自分にとっては、モノモノしいブツを食道を通して生身で便器に排泄する肉感的手段が私の身体的不調を私自身で可視的なものとするにはうってつけのものなのかもしれない。

自分自身を殺してしまう前に、自分自身を狂わせる技法としての嘔吐。



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