見出し画像

恵まれた人たちに見えない価値を見える化すること

居るのはつらいよ」という本を読んで、書きたくなったことを書く。

本からの引用

 僕らは自立している個人を前提とした社会に生きている。幼稚園でも、小学校でも、「自分のことは自分でしましょう」とい合われて、それができると「お利口さん」と褒められる。自立していろいろんなことを自己責任でやっていける人が、この社会を構成している。そういうふうな前提のもと、僕らの社会は運営されている。

 だから、そうやって自立しているものの価値は見えやすい。例えば、夫が会社に働きに出かけ、妻が専業主婦をやっていると、夫は立派にお金を稼いでいて、妻は夫に依存しているように見られがちだ。

 だけど、本当は違う。夫もまた妻に依存している。夫は食事・洗濯・掃除という生存するための最も基本的なことを妻に依存している。

(中略)

自立を良しとする社会では依存していることそのものが見えにくくなってしまうから、依存を満たす仕事の価値が低く見積もられてしまうのだ。

改めて、「何も求めていない。他人が社会が勝手にやっていることだ。」という主張は甘えだなと感じた。

「公共サービスを受ける選択は自分がしていないから税金を払いたくない」とか「生まれてから就職するまで親の金で生活することも求めていないから、感謝する必要ない」とか

価値を黙って享受している時点で、もう他人や社会からの価値を与えてもらっている事実があるのだから、そこに対してそんなことを言う権利はない。

 与えようとされるものを拒否しているならまだわかる。だが、価値を受けていれば、もうそこに対しては何も言えない。

いくら出ようと思っても出れないからと言えど、日本という国で住んでいるのは自分の意思であるし、親の家で生活しているのも自分の意思である。そもそも生きているのも自分の意思である。

なんでもかんでも所与のものとして捉えすぎると見えるべきものが見えない。

見えていない価値を相手が認識できないのなら、あなたが強気に出て、それを認識させてあげるのも優しさだろうと思う

でないと、あなたが幸せになれない

ちなみに、こういう見えない価値を可視化されていない社会とか、結局生まれた瞬間から資本に依存するため、完全な自由がない社会とか、誰かが搾取されている社会とかがおかしいだろうという思いはずっとあって、僕はそれを変えたい

皆が幸せに生きられる世の中をつくるために、負の状況にある人を救うことも大事であるが、社会が彼らを支援していくことが当たり前にしていきたいとも感じる

そうでなければ本質的に皆が幸せに生きられる世の中にはならないだろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?