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生きづらさの正体のこと

ここ数年のことだと思うけれど、「生きづらい」という言葉をよく目にするようになった。何となくぼんやりと言わんとしていることはわかるような気がするけど、私にはその正体がよくわからない。

繊細な人がそう感じることが多いのかな?私は子供のころから、とりあえず周りのみんなとはちょっとずれたところにいたい、と思っていて、だからこそ田舎を飛び出し、日本を出た。
そんな私なので、心の動きが緻密な人の気持ちを理解するのが難しい。もっと楽に考えたらいいのに、と思ってしまうけど、楽に考えられないから苦しいんだろうな。

不便、と、生きづらさ、は違うんだろう。今の私の生活は不便なことがとても多い。けれども生きづらくはない。問題がない暮らしをしてるわけではないし、日々何かしらあるけれども、生きづらさを感じながら悩んだりすることはない。だから悩んでいる人を見ると、南国においでよ、と簡単に考えてしまう。

生きづらいと感じている人って、前提に生きづらさがあって、その上で困難に出くわした時悩むのかな。そりゃ苦しいだろうな。

もしかしたら、便利な世の中だからこそ、生きづらさがハイライトされてしまうのかな。不便な暮らしを強いられると、もうそれどころじゃなくなってしまう。周りの友達を見ていてもみんな達観している。

正直な気持ちを言うと、私はその生きづらいという言葉が苦手である。しかし、世の中には実際に、生きづらさを抱えて苦しんでいる人がいる。で、その正体は何なのか。

そういうことを何となくずっと考えていた。
答えが欲しいというわけではないけれど、苦しんでいる人をどのように理解すればいいのか私なりに考えたかった。

そして昨日の夜ふと思った。

私の住む国で、生きづらそうな人を見たことがないかも。

仕事は休みたければ休むし、時間は初めから守る気がない。知らない人と旧知の仲のように話は弾むし、知りたいことがあれば調べる前に誰かに電話する。

全員が全員そういうわけではないけれど、こういう環境に身を置いていると、日本でぎゅうぎゅうの気持ちで生きている人を見ると、南の国にこればいいのに、と思ってしまうのかもしれない。

多分今私が急に日本で暮らすことになったら、ああ生きづらいと嘆くことになるのだろう。
そう考えると生きづらさの正体が何となくわかるような気もしてくる。

何かを感じる心はいったい体のどこにあるのだろう。

例えば、どこかにぶつけていたいとき、そこを無意識でさする。さすって治るわけではないけれども、そうすることで自分を守っている。

あなたの心はどこにありますか?

胸のあたり?
頭の中?
それとも体から離れた別の場所?

どこであっても自分で無意識にさすれないところに心がある人、そういう人が生きづらい人なのかな。違うかな。




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