言葉のすれ違い

 たわいもない会話で、趣味は何かと聞かれて、哲学系の本を読むことです、と答える。すると決まって、自分も自己啓発の本読んだりしてますねーと返ってきたり、思想を謳うタイプの本(例えば『武士道』『古代ローマの哲人に学ぶシリーズ』)を挙げて、こういうのですよね、とほとんど確信に満ちた表情で確認される。つまり、相手の脳内では哲学=自己啓発あるいは哲学=思想という図式が出来上がっているわけだ。
 たしかに哲学に自己啓発的・思想的アスペクトがない、というと嘘になるだろう。自己啓発にとって本質的であるだろう、望ましい生き方を提示したり、それを達成するためのガイドラインを立てたりすることが、哲学という言葉に括り込まれていることは確かだ。また、思想にとって本質的であるだろう、依拠すべき価値観・美意識や枠組みの提示もまた然りである。
 けれども、上記のやり取りに直面するにつけ、それらが大胆に等号で結ばれる裏で哲学にとって本質的なものがひっそりとドロップされてしまった感じがモヤモヤと蟠るのを感じていた(裏を返せば、自分は依拠すべき価値観・美意識や枠組みを求めに哲学を訪ねているわけではない、ということでもある)。
 つい最近、このドロップされてしまう本質は、端的に言って、観察のスコープを拡げる、という所作だと気づいた。もう少し言葉を足すなら、対象を観察するとき、対象だけを見つめるのではなく、対象を取り巻き、それを成立せしめる諸条件も視野に入れて観察の対象に含めていく、だったり、対象が位置づく文脈内でそれが担っている機能を検分する、といった感じになる(こういうスタンスの取りかたは、哲学以外のジャンルにも広く散見されるだろうけれど、哲学において最も顕著に表れるものであると思っている。次に顕著なのはたぶん社会学あたり?)。例えばそれは、「小さな幸せを見つけよう!」という類の言表を素朴に受け取って実践するのではなく、「小さな幸せを見つけよう!」という言表はなぜそれなりのもっともらしさをもって受容されているのか?という問いかけを通して眺めてみる、ということだろう。

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