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【保存用ログ】ワークショップ第18回「20200803-0809」ショウペンハウエル『読書について』 【読書会】

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■1

Tsubo
こんにちは.レポートを言い訳にしつつあまり浮上してなかったTsuboです.今週はショウペンハウエル「読書について」を扱っていきたいと思います.ページにして20もないという短編ですが,内容は濃いです.それでは一週間よろしくどーぞ.
論点は複数設定していますが、別に全部答えて頂かなくても結構です

■2

A
200年前に書かれたものとは思えないほどに現在にも当てはまるので不思議な気分になりました。
「思索」も含めて一通り読みました。
ただ読んでいるだけだと著者は天才史上主義のようにも見えますが、読者(凡人)に凡人からの脱却法を説いてるようにも見えました。(凡人の感想)

Tsubo
「読書について」でも触れられている通り,「今の時代でもその内容が通用するから」古典は生き残ってきたのだと思います.なので,良い古典作品というものは時代に関係なく価値があるとされているし例えば国語などの学校教育でも扱われるんですね.まぁ「天才」という響きが若干アレですが,「すごい人になりたい?じゃあ昔のすごい人の本読んで考え方学んで自分で頭使って考えてね」っていうある種当たり前のことをショウペンハウエルは言ってるだけかも知れません(笑)
Aさんはこの短編集のどこらへんが現在にも当てはまるな〜と思いましたか?
A
「ある事柄について十分に思索をしてないからその主張に権威を求める」的なのはまさしくですし、「現在(筆者の生きた時代)はそのような駄書で溢れかえってる」なんかは筆者の没年代を調べたらくらいゾクッとしました笑
Tsubo
私たちの周りを取り巻く情報の質はショウペンハウエルの時代とそんなに変わってないってことですね〜現代人は昔の人たちと比べて知識は多くなったと勝手に思い込んでますけど,思考力的な面ではそんなに変わってないかもしれません.(知識面でも,あらゆる知識を総合した情報量で比べればどうなるか分かりません)
ある事柄について十分に思索をしてないからその主張に権威を求める」的な言葉は「思索」のp19あたりの内容ですかね?確かに,自分の考えてることと同じことを他の人(特に偉い人)が言ってると安心してしまいます(笑)

■3

B
難しいところが多かったですが、「熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。」という箇所が自分の実体験からも納得できることで、改めて読書を通じて自分が何をどう考えるかが大切なのかなと思いました。林修がyoutubeで読書は今現在自分が悩んでいることは大抵昔の偉大な先人たちが考えてくれていて、そこから多くのヒントを得られる!的なことを言っていたのも印象的なのですが、結局他人の力を借りながらあくまで一歩一歩自分の力で進んでいくのが読書なのか?と今は考えていますね。みなさんは読書とは結局どのように考えているのでしょうか?この問い自体が愚問なのかもしれませんね…ただ皆さんがどのように考えているかを少し知って参考にさせてもらいたいという軽い気持ちです。笑笑
私は今までは、情報に接する媒体としてyoutubeが主だったのですが、動画を通してより活字を通しての方が結局情報量的にも時間的にも効率がいいのかな、と思い最近は気になる分野は積極的に本を買うようになっています。またニュースはもっぱらlineニュースだけなのですが、今のままではだめですね。
またこれは前から思っていることなのですが、信頼できるソースとは一体どう判別すればいいのでしょうか。中高、そして大学でもwikipediaなどではなく、信頼できるソースから情報を引っ張って来い!などと言われますが、知らないものを知ろうとして調べてるのに、何が信頼できて何が信頼できないなんてそんな簡単にわかるんでしょうか、私には少し難しいというか、何に対しても不信感がぬぐいきれない感がいつもあります笑笑。適当なウェブサイトの情報は悪で、公の機関や書籍や論文ならいいのでしょうか、情報の正しさってそんな単純にわかるものなのか?となって、いつもわからなくなります。結局”これは信頼できそうでよさげな感じ”ぐらいで乗り切るしかないんでしょうか?

D
僕もこのコミュニティに入ってから本を読むようになったような人間ですので「読書とは何か」という疑問は視点は違えどもよく持ちます。僕としては「作者が一定以上の労力を注ぎ込んで書き、出版社がお墨付きををあたえたネットよりかは信頼できる情報」くらいで見ています。僕としてもぜひ皆さんの考えを聞いてみたいところです。
信頼できる情報というのも面白いテーマですね。インターネットを活用する際には、「同じことを言っているサイトが少なくとも3個、できれば5個あるような情報が妥当性が強い」 と自分の中では線引きしていますが、これも大いに信用できるというわけでもなし、逆にちゃんとした論文だから正しいと言い切れるわけでもあるまいと僕は思います。自分がその情報に対して納得できるかということをもう少し重視してみるべきとも個人的には思います。
Tsubo
まず、「信頼できるソース」についての話ですが、僕はまだまともな論文を書いていないので参考程度に聞いていただければいいんですけど、「完全に信頼できるソース」なんてものはなくて信頼度の程度に差があるだけです。ただ、新聞、学術書、論文などの多人数が関わっているメディアはやはり自己の独善ではなく複数人の目が入ってるので内容に間違いが含まれている可能性が減ります。逆に個人ウェブサイトは個人の観点からしか見られてないのでどうしても内容の信頼度は落ちます。また、これはWikipediaにも通じるんですけど、個人サイトはすぐ内容が変わってしまうかもしれないので論文等への引用はされにくいです。対して、論文や書籍は内容が変わりません。そこもソースの信頼度に関わってくると思いますね。まぁ結局論文や書籍や新聞も間違う時は間違うのでソースの信頼度は程度の問題でしかありません。確実に信頼できるソースなどこの世に存在しないし存在するという思考は危ういと思います
B
Dさん、Tsuboさん、ありがとうございます。本は作者がそれなりの労力を注いでいたり、作者以外の人が関わっていること、情報が容易に変えることができないこと、など多くの点でネットのサイトなどと比べてまだ確かに信頼できそうですね。その視点が抜けていました。大変勉強になりました。

■4

C
私自身の今までの「常識」との相違点は
・書きながら考える(考える前に書く)ことの否定
・良い本に巡り会うための多読の否定
の二点でした。
書く前に考えて考えて何も書かないくらいなら、考える前に書け!そうすれば思考もまとまるよといった言説をよく聞きますし、自分自身そう思って文章を書いてきた節があります。ですがそれすら「二流」であり、本当の一流はアウトプットに頼ることなく思索をめぐらすことができるということで、自分にはまだ到達できない天才の領域を感じさせられました。
2つ目に関しては、良書を見つけるために悪書を読み漁るくらいならば、古来から伝わる良書である可能性が高い書物を読めということなのでしょうか。人生は有限ですし、それもそうだなと思ってしまいました。
私は空っぽな人間であって、頭の中で思索を巡らせるということをあまりしません(数学などに関しては腕組みして何時間も考えることはありますが)。そんな人間がこれではいかんと読書会に飛び込んだわけですが、このようにいわれてしまうとやはり思索にふける時間というのが必要なのだと反省しました。それを実行できる才能があるかどうかは別にして。

Tsubo
「かきながら考えることの否定」を記した部分が見つけられていないので憶測で書きますが、書いて見て初めてわかる〜みたいなこともありますし、また思索はなんらかのメディアにアウトプットしないといけないので書かずに考えるのがいいという考えには疑問を抱きますね〜。もちろん、Von Neumannのように暗算でアホみたいに計算できたりRamanujanのように「寝てる間に神が教えてくれたからwww」とか言って訳のわからない定理をガンガン発見できたりしちゃう人間(?)もいますが、そんな人たちは一体どういう思考過程を経ているのでしょうね(笑)ただ、いくら読書やゼミのような勉強会を行っても結局一番大事なのは「自分1人で思索する時間」だと思いますね。そうしないと独自性が表象しない訳ですし。「勉強」と「研究」の違いに通じることがあるかもしれません

■5

D
・本の感想について
て、哲学者の本にしては読みやすかったですね(ハァハァ…ツカレタ
皆さん仰るとおり現在でも言えることがたくさんあって驚きました。多読派の人々の描写はがまさにワイのことでワロタwワロタ…。「良書は二回読むべきである」「ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついた人にとってのみ価値を持つ」というところはいいなと思います。読書の方法もあらかじめ自分の意見を用意しておいたり、もっと批判的な視点をふたしてみようとも思いました。
・自分はどのような情報媒体に接しているか
自分もSNSでのトップニュースくらいでしか新たな情報には触れていないですね…。何か知りたい知識や情報があった時もgoogleにお世話になっています。もっと深刻な問題や情報の深掘りをして欲しいときは本をよんだり周りの大人に相談したりしていましたが、最近はyoutubeでおっさんたちが同じような問題について語ってる動画がよく先述の代わりをしてくれています。かなしいかな、言ってることに疑いをあまり持たずすぐ納得してしまう習慣がもうできてしまっているので、その情報の良し悪しという者をあんまりかんがえたことはありません。というか情報が氾濫しているからこそ自分に役立ちそうだなと思ったところだけをピックアップしたり、情報を統計的に判断して乗り切るようにしています。
今のネットの活用法を鑑みるとやはり彼の時代の多読派連中と通ずることは多いと思います。情報の氾濫により自分の頭でものを考えないという傾向はより顕著だと己で実感するところです。真の才能ある者をのぞいて情報の良し悪しがわからないからこそ彼は古典を進めていますが、この現代に彼が生きていても同じことを言うかどうかは気になるところです。

Tsubo
予め自分の意見を用意したりその本の内容を批判的に見てみたりするのは京大の故瀧本先生の「読書は格闘技」の内容に通じますね。特に今日は情報が氾濫しているのでその良し悪しを吟味しない姿勢にはまぁその姿勢を取らざるを得ない状況もあるんじゃないと特に悪だとも思わないのですが(そのような姿勢は損をする場面が多いので“取るべき”だとは確実に思います)、やはり「情報発信者」としてならばそれはダメかなぁ...というお気持ちがします。すでに氾濫している情報と似た情報を発信しても意味がないので...まぁ「自分はショウペンハウエルが言うところの多読派だ」と思うことは正直占いなどでも有名なバーナム効果と似たような感じなんじゃないかなぁと思ってしまいますけどね(笑)ショウペンハウエルが言っている意味でほんとに「思考」している人間はこの世界に果たしてどれだけいるのでしょうか。自分でどれくらいいると思ったのかは本人に聞いてみたいことですね

■6

Tsubo
「読書という行為はどういう行為か」という問いが出ていました。個人的にはこういったそもそも論はとても大切だと思います(論点にしとけばよかった...)まぁ読書をあまりしてない時点で問うてもあまり意味はないので問うタイミングも重要なのですが...僕は「読書という行為」は目的によって場合わけされると思っていて、論文等を執筆する時にいつでも参照できるようにするためにとりあえず通読する時と、それこそ「読書について」を読むときのように目的とは関係なく作者との対話、議論をする、作者の考えを入れるための読書などの読書に分けられると思います。当然、その二つが重なる時もあります。その二つでは読み方も違いますね。前者ではわからないことがあっても多少は調べますがとりあえず先に進み、後者ではわからないことがあったらそこで立ち止まって考えてみることが多いです
「時代を通して価値が保たれるような良書を読め」と言っている「読書について」が「良書」側になってるのは面白いですね()

■7

Tsubo
時系列がぐちゃぐちゃになって大変申し訳ないのですが、「自分がなんの情報媒体に接しているのか」関連の設問はそれを改めて考えてみることによって自分の思考の傾向、内容などを把握してもらえたらなーという意図で作りました。(直接読んだわけではないのですが)ブリア=サヴァランの「美味礼讃」における有名な言葉「何を食べるかでその人間のひととなりがわかる」と同じように、「どんな情報を摂取しているかどうかでその人間の考えていることがわかる」というわけです
明日から別テーマになりますが、特に気にしないで喋ってもらって大丈夫です

■8

C
自分のこれからの読書への向き合い方の方針
・少なくとも読み始める前に、自分の人生の中でのその本の位置づけを予想し、どの文脈で読むかを予測程度でもいいので考えておく。無目的無思考で書物を開かない。
・読み終わったあと、再度自分の人生と書物との照らし合わせを行い、どの文脈で情報を取り入れたかを1秒でもいいから考える。

ひとつ目の方針を置くことで、悪書に時間が割かれるケースが少しは減るのではないかと思います。読んでみなければ良いか悪いかわからないというのはもっともなのですが、、、笑
この本にあるように、本を読むことにはある程度の思索が先行していた方が情報を取り入れることができるようなので、深い思索ではないにしてもその分野に関する自分の知識に自覚的になっておくことは必要だと反省させられました。
また発信者視点では、今までは書きながら考えるスタイルだったのを少し改めて、筆を置いて空を見上げながら思索に没頭する時間を少しは設けてみようかなと思いました。また、確信の持てないことは書かない(所長の断定口調に関するすすめに似ている)ことはより一層心がけなければと自戒しました。

■9

Tsubo
閉めるのを忘れていたので大急ぎで閉めます.皆さんが「読書について」を読むことで「情報を摂取する」という行為に対し考える機会が出来たのならとても嬉しいです

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