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【保存用ログ】第02回[20200413-0419]『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』

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新規のサークル参加もお待ちしております。

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にしむらもとい
ワークショップ第二回、始めていきたいと思います。スケジュールの目安は指定しておきました。難しそうな内容の本ですが、あまり身構えず意見交換できれば、と思います。

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にしむらもとい
とりあえず、僕は発売当初に読んで以来なので、今日はFFお休みして😅 この本を読み直したいと思います。皆さんは、読まれましたでしょうか?

■2

A
完全所見で、今日の休暇を利用して読みます!
楽しみです♪

■3

B
読みました
天才なんだということだけは分かりました笑

■4

にしむらもとい
■今週の課題図書は読む(読んだ)という方が少なそうなので、僕の読書ログをある程度先に出力してしまってから、皆さんにはそれを「読む」という形で参加していただけるよう、少し変則的に回してみたいと思います。まぁ始めたばかりなので何が変則なのかよくわかりませんが笑 あ、もちろん、皆さんも自由に発言してください。僕のログへの返信でも新規の発言でも大歓迎です。課題図書を読んでいなくても構いません。参加をお待ちしております。
あと、今回はワークショップルーム内においては、
・一番上の階層(最初)の発言の頭に■をつける
・スレッド内の発言(返信)は投稿時に「以下にも投稿する」にチェックを入れる(こうすることでスレッドにぶら下がりつつ上の階層にも表示される)
というローカルルールを作ってみます。スレッド内に埋もれた議論が見つけづらいという意見がありましたので。やってみて問題がありそうならまた変えます。

■5

にしむらもとい
■「IUTの論文がなかなか受け入れられない背景」
望月先生が作った新しい概念と記号だらけで作られた新しい理論が1000ページのレベルで書かれている。つまり、大学生が数学の専門課程を学ぶ程度以上の努力をしないといけない。それを、自分の仕事で忙しいある程度の立場の数学者がやろうと思うか。あるいは、これからキャリアを築こうという若い研究者がそんなまだ認められてもいない理論を研究対象として選択するか。
要するに、既にがっつり素養を身につけた数学者にがっつり「勉強」を強要するレベルの新奇性があったということですね。つまり、これが認められていくことになれば、リーマンやガロアのレベルでは済まないくらいの、これまでの数学界がかつて経験したことがないくらいのとんでもない革新ということになるのではないかということです。この書籍の著者の加藤先生は10年から下手をしたら30年くらいかかるのではないかとおっしゃってますが、僕もそんなことになるだろうと予感します。

■6

にしむらもとい
■「理論を共有する」
望月先生が作り上げた理論は、全く新しい言語で書かれています。つまり、従来のコミュニケーションでは伝わらない。もちろん、論文は十分に時間をかけて読めばわかるようにはなってますが、IUT理論のようにこれまでの通常の数学言語で語れない内容の場合、困難のレベルが桁違いになります。要するに、言葉を教えるところから始めないといけない。日本語を知らない欧米人に日本語を教えて日本語で日本の文化の奥深さを教えるようなものです。だから、望月先生はあまり多数に向けた講演を好まず、少人数のディスカッション形式でのコミュニケーションを主体として理論の普及に努めておられるようです。まず、話者の人口を増やし、共通の言語を整えるところから始めておられるわけです。ゆえに、たまに行なわれる講演は、いつも『IUT理論への「いざない」』というタイトルであったということです。共通言語を持たない者に対しては入口まで案内することしかできない。
望月先生は、この論文発表時は確か40歳を超えており、フィールズ賞の40歳以下の要件も満たしていませんし、そもそも本人が賞やABC予想の証明すらあまりこだわっておらず、とにかくIUT理論そのものを着実に根付かせることだけを目指しておられます。もちろん全然レベルは違うんですが、こういう姿勢に僕は非常に共感を覚えていたわけです。とにかくただ「形式上認めさせること」を目指していない。印象操作、マーケティングだけで数を稼ぐという、SNS的な発想とは全く異なる感覚だと思います。もちろん、時と場合(仕事の業務内容)によってはマーケティングは必要でしょうし、どちらが良いなどと断言できることではありませんが、純粋に本質というものを考えるなら、SNS的な感覚よりは望月先生の感覚の方が意味があるとは思います。

■7

にしむらもとい
■「論文のアクセプト」
この度、IUT理論の論文がとあるジャーナルに掲載されることが、論文発表から8年近く経ってようやく決まりました。望月先生の所属する研究所が編集するジャーナルなので、世間的な感覚では内輪なものと感じるかもしれませんが、正しい手続きを踏んでいるならそれなりの正しさは認められるべきではあります。論文がアクセプトされるまでというのは、まず査読者に回され査読者の意見を参考に最終的にエディターが掲載の可否を決めるとのことです。もちろん、論文の中身そのものの正しさの責任を持つのは論文の著者です。掲載されたからといって、著者以外の誰かが正しさの責任を一緒に担保するわけではありません。なので、現状、IUT理論を認めないという数学界の大御所も数名おられるとのことなので、まだ100%正しさが受け入れられたとは言い難い。ようやく第一歩を踏み出したという段階のようです。

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にしむらもとい
■「数学は実学か」
かつて数学は、純粋数学と応用数学という分野で考えられていましたが、著者の加藤先生は、もはや純粋も応用もないと主張しておられます。これほど価値が多様化し技術力が高まってくると、どんな数学でも応用の可能性を孕んでおり、役に立つのが当たり前という主張です。僕もそう思います。ICカードの暗号技術に、かつての純粋数学としての楕円曲線の数理が用いられている。楕円曲線暗号はそれまでの暗号技術と比べて格段にビット数を減らすことができたのでICカードのように小さなものに実装できたわけです。金融の世界でも、ブラック-ショールズモデルなどが当たり前に使われています。ディープラーニング、さらにはニューラルネットワークと呼ばれるAI学習の世界でも、画像処理におけるフーリエ解析が背景とされていたりします。
というわけで、数学なんか勉強しても役に立たないと言っている人は、残念ながら現代社会の文明のレベルに取り残された人と言わざるを得ないと思います。誤解を恐れずに言うなら、いつの時代も、一般大衆というのはその時代の文明に取り残された人々のことです。
1,2章の読書ログとしてはこんなところです。

■9

にしむらもとい
■ちなみに、皆さんは、「数学とは何か」と問われたら、何と答えますか?
これは、この一週間で皆さんの印象が変わるかどうか、様子を見てみたいところです。

C
会計を学んでいる身からすると、私の数学のイメージというのは、「事象を描写して操作可能にすること」です。
会計(会社計算)も、それ自体は特に高度な数学を用いる訳ではないですが、その目的は企業の取引や状況という曖昧なものを、数字を用いて可能な限りそれを描写し、操作(議論)可能にするという点にあります。
経済学や会計や物理学は、その描写の対象は現実世界の「事実」になろうかと思いますが、別に表す対象が事実ではなく、それが数に関するナニカ(恐ろしく稚拙で申し訳ないですが)でも良くて、それがいわゆる純粋な「数学」と言われるものなのかと思います。
なので冒頭の「数学=事象の描写」というよりか、事象の描写のやり方の一つのして数学がある、という感じでしょうか。
考えれば考えるほど頭がうんにょりしてきました。
D
数学&算数は、自分の外の世界を読解して、その上、私を表現出来る言語みたいな道具だと思ってます。mathematical communicationみたいな。
私的な話で、体感的に、現象⟷本質どちらでもなく、オイラーの公式みたいな短い公式とかを見ても、「当たり前じゃね?」って思ってしまいます。
E
数学の世界と我々の世界を媒介するものだと思っています。
数学の世界は頭の中に存在してるものでもなく"数学"をすることで唯一アクセスできる世界と認識しています。

■10

にしむらもとい
■あと、賢くなるために必要だと、僕がいつも言っていること
・メタ思考
・抽象思考
・アナロジー思考
数学について考えることは、基本的にこの全てをカバーしますが、IUT理論というのは特に新奇性が高いので、概要までしかわからないとはいえ、とても良い訓練になると思います。
・宇宙の中に宇宙を入れ子にしてメタ的に考える
・操作を概念的に抽出して群論としてとらえる
・「数」の持っているかけ算的たし算的性質をそれぞれ独立して変形するというタイヒミューラー的な考えをアナロジーとして理解する
というのが一応目標になります。また出てきたらそのタイミングで考えてみましょう。

■11

B
■1.2章を読んでの超雑感
【数学が進歩するとは】
通常科学の延長orパラダイムシフト。パラダイムシフトを起こす人はどう言う人なのか?なぜそれができるのか?
【論文の価値】
新規性、正確性、おもしろさ。
面白いとは何か?
直感に反する結論は面白いと感じる。
IUT論文の面白さとはなんだろう。

■12

B
■数学とは
定義をしたことがなかったのでとりあえずイメージしてみる。
数とか図形とか。目に見えないもの。机上の存在。出来ると頭良さそう。社会できる、より数学できの方がなんかかっこいい。食えない学問。アートとも関係ありそう。音楽と関係あったり神秘的。高校と大学で断絶。
・・・頭悪そうな列挙ですいません笑
一週間考えてみたいと思います!

■13

にしむらもとい
■「望月先生の経歴」
プリンストン大学で博士号を取得するまで基本的に全ての教育をアメリカで受けています。大学院を卒業したのが23歳、そのまま即京都大学数理解析研究所に助手採用、27歳で当時の助教授、32歳で教授。というのがミーハー感覚で評価しやすい望月先生の経歴かと思います。確かに常軌を逸した経歴です。
ただ、望月先生はアメリカで教育を受けたことがかえって欧米文化への違和感、不信感を深めたようで、ブログなどでもよく欧米文化について批判的に話しておられます。ここまで頭が良いと、普通の感覚の「帰国子女」にはならないようです。俺、バイリンガルだよwwwみたいには全くならない。むしろ、海外講演を断って「英語苦手なのか?」なんて思われたりしてます笑 その半生で何があり何を想ったのか、いつか自伝でも書いていただけると嬉しいですが、彼のマインドからしておそらくそういうことはやらないでしょう。

■14

にしむらもとい
■「タイヒミューラー理論」
数学者ではない僕が高等数学の解説をするのはおこがましいのですが、一般レベルでここに書かれていた内容をざっくりとまとめておきます。
二つの次元が結びついているという状況を正則構造と呼び、それをたとえば図形的に長方形の縦と横のように解釈する。縦か横のどちらかを固定してどちらかを伸縮させると長方形の縦横の比率が変わります。するとその図形は、正則構造が破壊されて変形され新たな正則構造を持つことになります。古典的なタイヒミューラー理論においては、複素構造という正則構造を破壊する変形について考え、その違いを定量化するというのが基本思想だそうです。
アナロジー的には、関連して結びついた二つのものをそれぞれ独立して変化させていったときに、それらがお互いにどの程度の影響を受け合うのかを何らかの指標(対称性など)を用いて定量化するという風に理解しておけば以降の話も感覚としては理解できると思います。テクニカルな話に突っ込まないと、それがどういう意味なのか深くは腑に落ちませんが。

■15

にしむらもとい
■「遠アーベル幾何学」
群の性質として「アーベル的」というのは「可換」という意味で、何らかの変換が行き来可能と思ってもらえればよいわけですが、非常に単純な性質しか拾わない操作を行なうと他の性質が落とされてしまって元に戻せなくなくなります。「アーベルから遠い」というのは「十分複雑な」という意味で、「遠アーベル幾何学」というのは十分に複雑な群によって「幾何学的対象」を復元すると言う理論です。対称性という性質に注目したときに、その図形が十分に複雑であるなら、対称性の情報だけを取り出して操作をしても元の図形を復元することができる。「対称性によってモノを復元する」というのが「遠アーベル幾何学」のここでの最も重要な側面です。これがIUT理論の基本思想につながります。

■16

にしむらもとい
■「ホッジ-アラケロフ理論と壊れた偏見のフィルター」
「ホッジ-アラケロフ理論」というのは、専門性が高いということで加藤先生も遂に噛み砕くことを諦めておられました笑 ただ望月先生は、この楕円曲線の構造に関わる「ホッジ-アラケロフ理論」を、数体上で局所的でなく大域的に実現できればABC予想が解けることに気づき、どうにかしようとしたらしいです。その際に非常に大きな障害にぶち当たり、普通なら諦めるところ、それが「不可能なのか否かを検証する」ということだけになんと二年間も(!)費やしたということです。常人には考えられないメンタリティでしょう。そして、不可能と判断したときに、さらに、そこで諦めるのではなく、「じゃあ新しい数学を作ろう」という、いわば「そうだ 京都 行こう」くらいの感覚で(すでに京都にはいたわけですが笑)全人類の遺産である数学の改革に乗り出したのです。
僕は「天才とは偏見のフィルターが壊れた人」と以前動画で話したことがありますが、まさしく、望月先生は偏見のフィルターが壊れています。外部的な価値観の重み付けが一切効いていない。全人類の価値観すら全てフラットにして自身の価値判断だけでものごとを進めている。これは、精神力が強いのではなく、持って生まれたモノだと思います。普通ではないと言う意味ではまさしく壊れた感覚だと思います。だからこそ、壊れているからこそ、壊せる。僕はそういうところに共感を覚えています。

■17

にしむらもとい
■「進むべき方向を決めるのは非論理」
「難しいことを研究する」という話になると、皆さんの感覚では、もしかしたら非常に技術的な問題にばかりとらわれてしまう感覚があるかもしれません。難しい数式で書かれた定理なんかを見るとそれを理解することが研究であるかのように思う人もいるでしょう。でも、当然、「研究」とは「勉強」ではありませんので、違いますね。白紙の上に自分で数式(文章)を書くことが研究です。何を書くのか。どこに向かって書くのか。その指針がなければ、研究者は道に迷います。
加藤先生は、その際「考えの自然さ」というとても素朴なものを原理として進めるのだとおっしゃっておられます。つまり、方向性の問題は「技術的問題」ではなく「哲学的問題」であるということです。方向性そのものは、その時点では「直観」によるしかない。その後論理的な思考が後追いして、数学の「正しさ」が支えられてゆく。
つまり、全てが論理というルールに支配されている数学という世界も、最前線では、最前線でこそ、論理ではない手続きが取られているということです。逆説的ですが、これはよくわかります。そして、その非論理的手続きの際たるものが「アナロジー」です。論理では結びつかない事柄に非論理的な架け橋を渡す。それこそが論理の「枠組」そのものにアクセスする手段(の一つ)ということです。

■18

にしむらもとい
■「ABC予想」
IUT理論について語るには、どうしてもABC予想について触れざるを得ませんが、その詳細な解説はここに引用するのは避けます。詳しくは書籍を読んでいただくか、ググってください。
以下、記号は自然数として、
ABCトリプル:(a,b,c) (a+b=c)
根基:素因数分解で得られた素数を一回ずつだけかけたもの。pの根基はrad(p)と表す。
ABC予想
互いに素なABCトリプルについて考える。
d=rad(abc)とし、任意の正の実数εに対して
c>d^(1+ε)
となるようなABCトリプルは高々有限個しか存在しないであろう。
そんな感じになります笑 任意の正の実数εを用いた不等式、数学的な厳密さに、一般人を寄せ付けないオーラを感じますね笑
要するに、だいたいにおいてdはcより大きくなるので、「dがcより小さい」なんてことは極めて例外的だということを予想しています。
また、dは自然数なので1より大きいわけで、それを累乗すれば大きくなっていきます。なので、十分大きなNをとって
c<d^N
を考えれば、それはどんなABCトリプルに対してでも成り立つだろうと考えられます。
そしてそのNが実は2で十分なのではないかというのが、「強いABC予想」です。
これが正しいなら、かのフェルマーの最終定理の証明が10行もかからず終わります。

■19

にしむらもとい
■「たし算とかけ算の関係とペアノの公理」
ABC予想の難しさは、数のたし算的側面とかけ算的側面の混ざり合いにあります。
因数分解や素数という概念はかけ算的性質からくる概念です。
それをたし算的な感覚でとらえようとすると、規則性があるように見えません。
完全に数学的な規則に則って計算しているにも関わらず、結果がバラバラで不規則に見えるというのは、これいかに?
たし算的感覚というのは、要するに自然数の定義そのものに関わります。
ペアノの公理による自然数の定義の本質:1から始まって1ずつたして得られる数
つまり、自然数の定義それ自体が、たし算に支えられており、たし算バイアスがかかっています。そんなこと考えたことありますか?笑
だから、自然数(たし算由来)という枠組で素数(かけ算由来)の規則をつかまえようとしてもうまくいかないということです。
自然数の定義そのものに立ち返ると、ここまで見えるんですね。「自然数とは何か」というメタ思考です。
3、4章の読書ログはここまでです。

C
小学生の頃、ノーベル賞受賞者が子供の素朴な疑問に答えるという趣旨の本を読んだことがあります。
その中の「1+1はなぜ2なの?」の章での説明をおぼろげながら思い出しました。
その本では、「2は1の『後者』である」つまり、数が順番に並んでいて、2は1の後ろにあるから、と言った説明がなされていたと思います
もしかしたらこのペアノの公理のお話だったのかもしれません。
質問した子供が、「自然数は足し算から導かれているんだ!」ということを看破し、その上それについて疑問を抱いた訳ではないでしょうが、やはりその子供にとっては「1に1という数を足すと2という数になる」ということが当たり前のことではなかったのだろうと思います。
ただ、そんなことをイチイチ疑っていては生活に支障をきたす様になるから、だんだん当たり前を当たり前として生きていくようになるのだとすると、なんだか少し残念(?)な気になります。
子育てをされる方は時々こう言った子供の「当たり前」のバインドがかかっていない故の発言にハッとすることも多いのでしょうね。考えるとワクワクします。

■20

B
■3,4章を読んで気になったこと
①アナロジー思考、よいアナロジーとは
アナロジー思考が二つの異なる事柄から共通性を見出す思考だとしたら、よいアナロジーとは何でしょうか。私は例えば比較対象の異質性が大きいほどよいアナロジーな気がします(これはむしろ直“感”的な感想ですが)。異質間の類似性に希少性を感じているのかもしれませんし、常識と異なる結論への単なる知的快感かも知れません。
アナロジーの事例もしくは皆さんが考える良いアナロジーとは何かお聞きしてみたいところです。
②対称性によってモノを復元すること
 対称性というキーによって情報を圧縮して、宇宙際の移動を可能にするというイメージでしょうか。そして遠アーベルであるほど復元力が高いということでしょうか。なんだか自分で書いていて訳が分からなくなります笑 ちょうど福笑いのようなものかなと想像しました。目隠しして元の形を想像しながら作ることで、抽象化した情報を元にしてある程度は復元はできるが、元の顔とは少し違う。
 幾何だと回転や対称などが思い浮かびますしそれは代数的に表現することも本著後半に記載の通り可能っぽいです。その他の世界ではどうでしょうか。私の周りのモノでは例えば鉄道は「移動時間、移動コスト、運行頻度」等に抽象化できるかもしれません(関係を破壊できそうにはありませんが)。復元効率性の高い抽象化”指向”を考えてみるのもまた面白そうかなと感じました。
 また、実生活につながりそうな種がまだまだ埋まっているような気しました。

C
アナロジー思考について
アナロジーって不思議ですよね。例えば、
「大根などの冬野菜は、冬が寒ければ寒いほど、糖分を蓄えて美味しくなる。だから人間も、辛いことや苦しいことをたくさん乗り越えるほど、魅力的になる。」
みたいなアナロジーは山のようにあると思うんですが、
冷静に考えれば「いや俺は「大根などの冬野菜」ちゃうし・・・・」と思いそうなものですが、大体「そうだよな、自分も今の辛いことを耐えて成長するぞ」と思うと思います。
もしくは「ニュートンのリンゴ」は世界で一番有名なアナロジーですよね。この場合は実際に物理学的に同じ現象ということが確かめられました。
仮に魅力的な人間に共通して保有してるホルモン的な何かが科学的に解明されて、それが人間がストレスを受けた際に多く分泌されることが判明したら(極めて雑科学ですいません)、「大根のアナロジー」は科学史にとって偉大になるのでしょう。
Bさんの問いかけの答えにはなっていなくて申し訳ないのですが、アナロジーは、人間にとっての「本質信仰」の現れかなと思います。
いろんな事象が、根っこの部分では繋がっていて、それを理解することでそこから派生するあらゆる様々なことを説明できるはずだ、という人間の不確実性から逃れたい欲望の現れです。物理学の「神の数式」とかはその最たる例ではないでしょうか。
B
@C
不確実性から逃れたい欲望がアナロジー思考に駆り立てる・・なんだか哀しい私たちのサガを表しているみたいですね。ただ、そうした本質を求めてその上で安住したいという欲望自体不毛であることは紀元前にブッダが看破しているわけで・・・色即是空の精神で超越者としてアナロジー思考力を養いたいところです笑

■21

にしむらもとい
■「ジグソーパズルのたとえ話」
エドワード・フレンケルという数学者(イケメン笑)のたとえ話が紹介されています。学校で教わる数学は、完成図のあるジグソーパズル。研究における数学は、完成図のないジグソーパズル。どこまで正確かはともかく、非常にわかりやすいアナロジーです。大学入試の数学の問題などその典型で、あれは用意された完成図へ至る穴埋めの人工的なパズルですね。研究における数学というのは、完成図を神様しか知らないので、パズルとしては不完全です。手当たり次第にピースを試して、はまるペアを「偶然」発見して蓄積し、その塊(ここでは「島」と表現されていました)がある程度の大きさになると、その島が「研究分野」と呼ばれるものになってゆく。さらに、バラバラに進行する島の拡大作業において、あるとき無関係と思われた島同士をつなぐピースが見つかる。そうすると、そこがブレイクスルーになり、より大きな理論へと統一されてゆく。
いわゆる大学入試の数学は、すでに完成された島をそこから複製されたピースを用いて作ってみる練習であり、もちろんそれは訓練として大きな意味はありますが、そこに執着してしまうと島の外海へ出航しよう発見的思考は身につかないということも、明らかだろうと思います。だから、僕は入試程度の数学ができることにたいした意味はないといつも言っています。語弊があるかもしれませんが、入試数学程度は、(十分のレベルは人によると思いますが、十分な訓練をしさえすれば)どれほどの難問であろうとも答えがあるのだから「出来て当たり前」だと思うからです。逆に言えば、訓練をしていないなら、入試数学などできなくてもさほど気にする必要もない。まして、できる人間にマウントを取られるいわれもない。それよりも、もっと基礎的な考え方が身についているかということの方がよほど大事です。
そんな話を、さしあたってこのイケメンのたとえ話で納得していただけたらと思います。

C
個人的には加藤教授もなかなかのイケメンかと。偏見ですが週に3日はジムに通ってると思います笑。
大学入試数学とその「先の」数学というテーマは、自分が勉強している最中である会計学にも当てはまるかな、思います。
公認会計士試験は難問も出題されますが、それでも基本的には答えありきの問題で、その処理の手順が複雑という「難しさ」です。
会計士になった後に待ち受ける困難性は、「そもそもこの取引、どう処理するの?」と言ったもの(まだ会計士でないので分かりませんが)なはずです。教科書に載っているような極めて単純な取引なんて滅多にありません。
その中で会計士達は既存の会計処理との整合性や、基準全体の基礎的な考え方を踏まえた上で、その取引の処理(正確には企業の経理が行なった会計処理の正しさ)を「考える」と言った作業を行うこともあります。
また、そういった処理を「考える」力は新米ペーペーの会計士よりも、企業の経理担当の方が数段上なのですが、経理担当が会計士資格をもっていない方が多いからなのか、会計士試験を突破した「優秀な」若手がいわゆる「入試数学できるマウント」的な大変な無礼を企業に働いて、担当から外されると言った話は毎年何件かあるようです。
そう言った意味では、私が今必死こいて勉強しているあれこれも、あくまで「基礎的にな考え方」を習得しているに過ぎず、島の例えではないですが、「大海を知らず」にはなってはいけないと今一度心に留めようと思います。

■22

にしむらもとい
■「IUT理論の新しさ」
「数学」が一式準備された舞台を「宇宙」とします。二つの異なる「宇宙」にある二つのものの対応を考えます。ここでは、女優さんのプライベートと映画の中での役というたとえ話がなされていました。どちらも同一人物ではあっても、それぞれの舞台においては状況設定が異なります。いわば、現実の「宇宙」の中に映画の「宇宙」が入れ子になっている。そして、基本的には別の宇宙には手が出せない。映画内の主人公の危機を現実世界から「手助け」することはできません。その「手の出せなさ」は、先に述べた「正則構造」が宇宙間で共有されないということに由来するとのことです。だから、こちら側から向こう側へは手が出せませんが、お互いの宇宙をまたがずに、対応だけを考えてそれぞれの宇宙の中で操作をする。そのときに、その操作においてそれぞれの宇宙でどの程度の整合性を持ってモノが変形されるのかという「宇宙際」的な対応関係を定量化する。それがIUT理論の基本思想です。その対応関係を保ってお互いの宇宙をつなぐ通信手段が「対称性」ということです。
細部に踏み込まずに概念の新しさだけを抽出すれば、こんな感じになるのかなと思います。これまでの数学は、当たり前すぎることですが、全て「ひとつの」宇宙でなされてきました。IUT理論は、いわば数学という宇宙の「鎖国」を解き、「宇宙際化」するという、とんでもないものに発展する可能性を秘めていると思います。日本が鎖国を解き国際化してどれほど変わったかというアナロジーを用いることもできるかもしれません。僕なりに乱暴にたとえましたが、そう考えれば、一向にこの論文が受け入れられない状況もなんとなく理解しやすいのではないでしょうか。

■23

にしむらもとい
■「対称性通信」
あまり技術的な議論へ深入りすることは目的ではありませんので、大まかなポイントだけを拾います。もう少し丁寧に知りたいという方は書籍を読み込んでください。
いま述べた「宇宙際」の外交問題を成立させるには、宇宙同士で通信をしなければなりません。IUT理論ではその通信手段として「対称性」を用います。
原則として、対称性を複数種類扱えば扱うだけ、そして複雑性が増すだけ、対称性によって図形を復元するための情報量は多くなります。当然、その分だけ復元も、確実になるかはともかく、より精巧にはなります。たとえば、正方形よりも正六角形、それよりも正八角形と対称性を増やせば増やすだけ、復元の精巧さは増し、円までいけば「全ての角度の回転による対称性」を獲得しているので、その情報から「完全に」形は復元できます。ただし、大きさ(半径)はわかりません。
ともあれ、こうした考えにより、「対称性」を通信手段として、それぞれの宇宙にあるモノを変形&復元してゆく。その操作を定量化する。その議論を一般的に展開するために、数学においては「群」の概念を用います。「群論」というやつです。通信結果の復元の精巧さは、伝達される対称性の複雑さによるわけですが、そのあたりをテクニカルに扱うために「群論」という分野があります。群論では対称性を与える操作の抽象的な構造の取り扱いを理論化します。群論の話は、明日に持ち越しましょう。
5、6章の読書ログはここまでです。だんだん話が技術的になってきたので、どこまで扱うべきかが難しくなってきて、文章として書けることが減ってきました笑 でも、詳細わからずとも、みなさん、気軽にコメントしていただければと思います。これまでのログ全てどれでも、いまからでもご自由にコメントください。無理して小難しいコメントしなくても、「へーそうなんだ」「難しい」程度のちょっとした感想でも十分です。
本日のこちらからの通信は以上になります。オーバー。

■24

にしむらもとい
■「群論」
群という概念自体は、皆さんも名前くらいは聞いたことあると思いますが、かのエヴァリスト・ガロア氏が作ったものです。たとえば、n次の代数方程式というものを考えたとして、n個の解を並べてその順番を入れ替えるという操作の中で、たし算かけ算と整合的なもの「全体」を考えれば、代数方程式の「ガロア群」というのが得られます。その理論が、方程式の「根を復元する」という道筋を教えてくれます。そこで示される、「5次以上の一般代数方程式は代数的には解けない(代数的な計算だけでは解の公式を書き下せない)」という有名な事実は、皆さんも知っておられるかもしれません。もっとも、この事実に先鞭をつけたのは、実は先に登場したアーベルで、アーベルの仕事を後に遥かな高みからやっつけたのがガロアであったということです。ガロアの理論も、IUT理論と同じく、当時誰にも理解されず、本人も他人に理解できるように説明するのが難しかったとされています。当時ガロアは17歳。
ついでに、どうでもいいおまけ話をしておくと、当時、それなりの地位にあったコーシー氏(名前を冠した不等式で有名)は後進の育成に消極的で、査読を引き受けて受け取ったアーベルとガロアの論文を、あろうことか紛失したとされてます。真偽不明ですが、もし本当なら、ひどい男です。そして、その後、ガロアは痴情のもつれによる決闘を受け、その傷が元で20歳で没します。
肝心の、「群論」の話が進んでませんね笑 なかなか説明が難しいので、詳細は書籍本文中のたとえで理解していただくのが一番早いと思います。
たとえば、ある方向を向いて立っている人が、90度回転を単位として、
・前を向いたまま(何もしない):e
・右を向く:r
・左を向く:l
・後ろを向く:b
という行為を行なうとします。
実験してみればわかりますが、これらの行為を続けて行なった時、それらは全て{e,r,l,b}のどれかと同じとなり、つまり「閉じて」います。
それを行為という意味づけを外して抽象化してしまえば
G={e,r,l,b}という感じになり
実はこれは全てrだけで表すことができます。
e=r^4, l=r^3, b=r^2 だからです。
一つの要素から全ての要素が得られてしまうので、これは「巡回群」と呼ばれます。
こんな感じで、元々右を向くだなんだと言っていた解釈は、究極的には捨ててしまって、ただの記号の演算として処理した方が本質が捉えやすくなります。抽象化思考ですね。目先の具体的すぎる解釈にとらわれず、注目した性質だけを抜き出して考える。他にも、たとえば、我々がただ「数」と呼んでいるものについても、実はそれはそんなに単純なものではありません。にもかかわらず、スーパーやコンビニで買い物をする時はとても簡単に形式的な計算だけで処理が行なえます。それは、「数」の性質をつかまえて、そこに加える「行為」の構造を記号の演算に還元するということが、当たり前にできているからです。それはこうした抽象化の賜物であります。
というわけで、素人の我々は、「群論」とは、要素に加える行為の構造を抽象的にとらえる理論とでも思っておきましょうか。

■25

にしむらもとい
■「遠アーベル的」
先の例のような行為を連続して行なうとき、その積の順序を入れ替えても結果が変わらないとき、その群は可換であり、可換である群はアーベル群と呼ばれます。
群の構造が複雑になると、当然可換ではない群も出てきます。
ここでは正方形の例が挙げられていました。
頂点にA,B,C,Dと名前をつけた正方形について、90度回転と左右を対称にする鏡映という行為について考えます。
・時計回り90度回転:σ
・鏡映(左右対称):τ
とすると、{e, σ, σ^2, σ^3, τ, τσ, τσ^2, τσ^3}という群が得られます。
Z_4={e, r, l, b} アーベル群
D_4={e, σ, σ^2, σ^3, τ, τσ, τσ^2, τσ^3} ちょっとだけアーベルから遠い
とすると、Z_4は可換だがD_4は可換ではないです。
つまり、回転だけでなく鏡映まで考慮した方が、全体が複雑になって簡単に一致しない、つまり、一致させる=復元するにはより正確な情報が必要になるということになります。だから「遠アーベル的」な対称性の群を、「対称性通信」するとかなりうまくいきます。
なお、この例も、究極的には、頂点に名前のついた正方形の回転とか鏡映とかではなくて{A, B, C, D}の文字の順列というところまで抽象化できます。数は4つなので順列の総数は4!=24ですが、正方形の対称性にこだわるなら8パターン。それすらこだわらないとすれば、24個分の順列に対応するものが群になります。それをS_4とおきます。
Z_4:位数4の巡回群
D_4:4次の二面体群
S_4:4次対称群
これくらいまでイメージしておけば、「群」全体について最低限のアナロジーは効くと思います。

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にしむらもとい
■「IUT理論の目標」
・異なる宇宙の数学間で対称性通信を行なう:伝達
・受信した対称性から対象を復元する:復元
・復元時の不定性を「定量的」に計測する:ひずみ
特に、この不定性を「定量的」に計測する部分が、肝であろうと思われます。ここは技術論を突っ込まないと、アナロジーでは理解できません。そして、それこそが、数学が数学である価値であり理由であります。数学という宇宙の中だけで成り立つこととは言え、その中においては水も漏らさぬ徹底した厳密さを持つこと。それが数学です。我々一般人は、ふんわりとした相関性が認められれば、それで十分満足する生き物です。僕も、緩いアナロジーの中の揺らぎの意味を解釈して物事の本質を覗き込むのが好きなタイプなので、自分の好みの厳密さを超えた議論は、ちょっと食わず嫌いしてしまいます。
一応、IUTの目指す不等式は記述されていました。
deg Θ≦deg q + c
ですが、ここはもう突っ込んで解説するのはやめておきます。どうせアナロジーでは限度があります。一応、書籍本文には最低限の解説はしてありますので気になる方はそちらを読み込んでください。

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にしむらもとい
■「局所と大域」
既に触れていますが、望月先生はかつてABC予想の証明にホッジ-アラケロフ理論を数体上で大域的に実現することを目指し、それが不可能っぽいと悟ると、本当に不可能なのかを徹底的に確かめるのに二年間かけたそうです。
局所理論と大域理論の理解のために、数当てゲームという例が引かれていました。
ある数が何であるかを当てるために質問をするとします。
まず偶数であるかを尋ねます。
次に3で割った余りを尋ねます。
更に5で割った余りを尋ねます。
まだまだ、7で割った余り、11で割った余りをどんどん尋ねていきます。
しかし、絞っても絞っても、これでは完璧な答えを得ることはできません。
数そのものが何であるかは、「大域的」な情報であり、各素数での余りが何かは、各素数ごとの「局所的」な情報です。
イメージからすると逆に見えますが、よく考えれば確かにピンポイントな情報の方が「大域的」で情報量が多いわけです。
望月先生が取り組んだのは、局所理論を束ねて「完璧」な大域理論を構築するという作業でした。
そのために、常識はずれな道具立てを準備して、先に述べた、たし算構造とかけ算構造をバラしつつ、しかし互いに同期を取りながら関連性は保持して、大域的につなげてゆく。一般人には、意味のわからない作業ですが、まともな数学者ならやらない、めちゃくちゃなことをやったのだということだけはわかります。
7、8章の読書ログはここまでです。
というわけで、一応書籍全範囲をざっくりと紹介してきました。後半は数学の話ばかりでしたので、専門的議論を避けながらとなると語れることは多くはなかったわけですが、なにがしかの片鱗を感じることくらいはできると思います。こうした理論を一人で築き上げた望月先生のマインドのあり方、新たな枠組みを与えてくれるであろう理論の背景をアナロジーでとらえる。
ざっと読み終えたところで、全体的に、もう一度考え直してみましょう。

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にしむらもとい
■ちなみに、望月先生ご本人のブログを参考文献として、念の為に紹介しておきます。何故か広告だらけの楽天ブログ。2020年1月5日の最新の記事では結構キレてます笑
https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329/

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B
■全体読んでみての感想などをあげてみます。
今回はあまり議論というよりは所長のログで勉強させていただいたという感じですね。
難しい内容でしたので、コンパクトに解説していただいて助かりました。
フィルターの壊れた天才に関する著書を、フィルターフリーの所長に解説いただくという贅沢な図式でした笑

B
■【今回のワークショップを通じての私なりのまとめ】
1.本書に対するざっくり感想
・天才の思考回路をのぞき見。自身の理論自体が理解不可能であるため、アナロジー思考の訓練になる。というかアナロジーによってしか、理解できない。
2.印象に残った部分
自然であること/心壁論/数学の論文にとって大事なもの×3/オープンな進歩orクローズドな進歩/予想と直観そしてアナロジー
3.読書及び議論を通しての学び・気づき
①テータリンクによる不等式化について
宇宙際情報通信の際に発生する不定性について完全除去を求めるのではなく、根源的なものだと認めて、それを最小限にすることと計測評価することを目指した。そのために群情報を多く含む、すなわち復元性の高いテータ関数を通信するという手法をとった。
上記の内容から
a.0を目指すのではなく、許容可能な状態を目指すという発想
b.目的を達成できるかどうかという視点で手段を柔軟に選んでいく姿勢
を感じた。
非常に稚拙な「自分ゴト化」かも知れないが、仕事上でもこのような意識は大切だと思う。特にヒューマンエラーなどは0にするのは不可能で、許容可能な状態をいかに保つかが大事になる。鉄道事故をこの世から消し去ることはできないが、十分許容できる範囲は何かを考える視点を忘れてはならないと感じた。
②群論のアナロジー
 有限個の社会集団において個人の集団間移動を群として記述できれば複雑に見える社会を少しクリアに整理できるのでは?という着想を抱いた。
昔、格差と同類婚の関係について調べていたことがあります。個人属性(学歴・所得・雇用上の地位等)の類似する男女ほど婚姻率が高いという観測事実を元にして、格差は世代間継承するという仮説の実証を試みました。literatureに沿った発見の蓄積という意味では何とか成功と言える結果は出ました。但し、当時のアプローチは社会における集団間の移動の“全体像”を把握せずに、格差の継承一点をデータにより推論するもので、“森を見ずに木を語る”ようなもやもや感が残っていたことを覚えています。もし社会における集団の世代交代を通じた移動を群の要素として捉えることができれば、世代間継承という現象も群のある操作に還元でき、結果として全体像を俯瞰できるのではないかと着想しました。すでに先行研究があるかもですが・・・
③望月先生の生き方、考え方
所長が偏見というフィルターがぶっ壊れた人と表現されてましたが、私はそんな生き方はとてもできないなと改めて感じました。しようと思ってもできませんし、選べるとしても選ばないと思います。“割に合わない”と思うからです。きっと天才は割に合おうが合わまいが“そうしちゃう”人なんでしょうね。でも全く理解できない奇人かといえば、そうとも言えないところがまた不思議で。焼き肉のエピソードやデジタルオタクのエピソードからはごく普通のおじさん像が垣間見えます。
こうした決してまねできない人種の方々の一端を知ることで、人生の内一瞬でもある一面だけ模倣できる部分があればいいなあと思います。とりあえず、今自分にとって壁だと思っていることが何なのか、その洗い出しからしてみようと思いました。

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C
■ワークショップ第二回まとめ
今回はテーマとなるものが色々あったので、個人的に少しまとめてみます。
①メイン・テーマ
IUTの解説を通じて、「メタ思考」「抽象思考」「アナロジー思考」に触れる。意識してみる。とりわけ、「アナロジー思考」を駆使して、難解な理論の一端でも理解しようとしてみる。(所長の補助輪アリ)
②サブ・テーマ1
IUTに関する技術以外の側面。なぜ、IUTはなかなか受け入れられないのか。全く新しい理論を作り出し、それを共有することとは。最先端の研究と「勉強」の違い、繋がり。
③サブ・テーマ21週間で数学に対するイメージはどのように変わったか。
以下、それぞれについての所感です。
①メイン・テーマ
個人的には噛み砕かれた群論の触りでも結構苦しんだわけですが、それでもなんとなく「群論(遠アーベル的)」→「対称性通信」→「「ひずみ」の定量化」によって、異なる宇宙間を数学的に比べると言った流れを掴むことができました。
ただ、今回のように加藤教授や所長のアナロジーを見て「なるほど」と思うのと、実際に自分で何かと何かをアナロジーで結びつけて考えると言った段階には隔たりがあると思います。アナロジーのためには、対象と「似た何か」が頭の中にある必要があるため、類似の経験値の多さが必要になってくると思いますし、得た知識が頭の中で整理されていないと、それがアナロジーの際に引っ張り出すことも難しいはずです。そう言った意味では「頭の良さ」みたいなものがアナロジー思考に集約されていると感じます。
得た知識を整理し、また抽象化して階層を作っていく。その階層同士の繋がりを発見して結びつける。賢くなるための道のりは険しいですね。
②サブ・テーマ1
全く新しい理論とは「新しい発見」というよりも「新しい見方」という類のものなのかもしれないと感じました。自分が今見ているものがそのものの一面に過ぎないとして、一回その偏見による物の見方をフラットにすることによって、全く別の側面から物事を考えてみる。
未知の物ではなく、既知とされている物に対する新しい見方だからこそ、むしろ受け入れ難のかもしれないと感じました。
また、こう言った全く新しい理論においては、その「着想」が注目されがちですが、個人的にはそれを理論として具現化するプロセスこそ(今回でいればひずみの「定量化」の部分でしょうか。)、真髄であり価値のあることだと今回のワークショップで感じました。
着想やアナロジーから何か仮説を立てるまでは比較的容易だと思いますが、それが真実かも分からない中で、僅かな綻びも許されず論理を組み立てて行く。それが成り立たなければ容赦なく壊し再び構築する。研究の最先端とは、(当事者がそう思っているか別として)かくも過酷な世界なのかと思う次第です。
また、全く新しい理論を共有するには、長い時間がかかる(加藤教授によれば30年以上)ということでしたが、こうなると最早「教える」というよりかは「育てる」というイメージかもしれません。高校の同級生が望月教授の研究室に大学院から進学しましたが、そのような若い世代が10年スパンで成長し、そして数学界の新陳代謝が行われた結果として、タイヒュミューラー理論が認知される、と言った展開になるのかもしれません。
③サブ・テーマ2
当初、私の数学に対するイメージは「事象を表す手段」というものでしたが、1週間終えての感想は「数学は宇宙だ」に変わりました。
数学を用いて事象を表すと私が思っていることは、「私たちが認識している世界という宇宙」と「数学という宇宙」が重なり合っているとこを見ているに過ぎないのかもしれないと思います。認識している世界と重なりあう部分以外にも、数学の宇宙は無限に広がっていて、論理が繋がる限りはどこまでも見渡すことができる。そのように感じました。
最後は本当に妄想のようになってしまいましたが、今回のワークショップはいろんなことを考えて、混乱してこのまとめも中々言葉にならず苦労しました。
今後のワークショップを通じて、もう少し考えを纏められるように努力します。

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にしむらもとい
■「総括」
それでは、終了ということで、僕なりの総括をあげておきます。
今回の課題図書は、一応一般書とはいえ、題材そのものがかなり難解な数学理論ということで、積極的に参加して発言するというのはなかなかハードルが高かったかもしれません、それでも、ほんの些細なひとことでも発言して「参加」しておくことで、後になってログを見返したりしたときにかなり意識が変わってくると思います。無理なら無理で負担にならない範囲で構いません。今後も多少なり参加してくださることを期待しております。
もちろん、現実に忙しくて時間が取れないという方もいらっしゃると思います(それはもう仕方がありません)が、そうではなくて、それなりに時間はあったけれども、なのに何を拾って何を書くべきかが見つけられなかった、という人もいたのではないかと思います。それは、端的に言って文章のアウトプットの経験不足の問題かなと思います。たとえば、僕はいま別に「物書き」を生業としてはいませんが、自分の興味があろうがなかろうが、なにがしかのテーマについて原稿用紙1枚で書け、10枚で書け、100枚で書け、と言われても、それなりの完成度でよければ、いくらでもそれなりの時間で書けます。身構えずに書けます。今回、数学の話が難しかったから書けなかったと感じている人は、では「重大な感染症の広がりによって世界はどう変わるか」というテーマなら書けるでしょうか。本当に書けない人にとってはハードルは変わらない気がします。書けない人の話をしますが(書ける人ごめんなさい)、書けないのは書く素材を持っていないからではなく、書く素材を見つけてつかまえる技術がないからです。技術がないと、日常の延長の言葉でそのまま書けることしか、書けない。文字を知らないと、話せても書けないというのと、アナロジーとしては同じだと思います。書くのに時間がかかるというのも書けない理由になりそうです。ぱっと見て必要なことだけをさっと書く。まあ、それができれば世話はないわけですが笑
というわけで、「書く」ということにもう少し慣れて、技術を習得していく必要がある人もいるのかなと、少しだけ感じました。あともう二週間は、再びハードルを下げる工夫をしながら僕が担当しますが、その後は各自の担当週で割り振ります。そこで、各々強制的に「書く」練習を頑張ってください。書けない人は、書けなくても、書かない限り、書けるようになりません。あと、忙しい方は事前に記事を完成させてひと通りは準備しておいていただくことをおすすめします。内容は僕のやってるものに引きずられる必要は全くありません。テーマはスポーツでもお笑いでも良いです。明日にでもローテーション発表すると思います。今回の課題図書の中身そのものは、ずっと言っているようにさして重要ではなく、そこから何を感じ取ることができるかということがテーマでした。比較的書くことに慣れていらっしゃる方が数名、謙遜しながらも、しっかり自身の意見を出力してくださいました。ありがとうございました。
あと、「数学とは何か」ということを週の初めに問うたと思います。これは、この一週間「数学」について一定の時間を費やして考えることで、自分にとっての数学の「現実感」が増せば、数学を単なる手続き(言語)として見ているような人も、数学という「枠組み」がはっきり「在る」と感じるようになるのではないかというのが、僕の推測でした。いかがだったでしょうか。「〜とは何か」という問いは、実は恐ろしく根源的で深い問い方です。今回の数学の例でも、その辺の人に聞くとだいたいの皆さんは、「数学の根源が何か」を問うてもすぐに話をすり替えて「数学で何ができるか」の方に意識が向かってしまいます。基礎より応用の方が簡単ということですね。もちろん、日常的にそんなことを全てにおいては「やってられない」というのは、今回のログの中でも話しました。その通りです。でも、そういう頭の使い方も定期的に訓練すると、よくわからない謎方向の「深み」は増すと思います笑
ちなみに、僕の中では「数学とは何か」というのは、ほぼ答が出ています。『唯脳論』にほぼ準じる形で理解しています。数学とは、脳が外界を認知する際のルールであり、原則としてはそこから抜け出すことはできないものです(それに関しても非常に興味深い文献がありますので、いつか紹介したいと思います)。が、実際には、よくはわからないけれども、共有するための条件を整備すれば「数学」を外部的に固定して共用することはできる、というのも事実ではあるようです。数学的な自然、世界、宇宙、言い方はいろいろですが、そういったものは、もしかしたら確かに我々の外部に存在するのかもしれません。でも、人間の脳を出発点とする限りにおいては、そこに到達することはできないと、僕は結論づけています。そして、自然科学(理科)というのは、この認知のルールの向こう側(自然界)で起きていることを数式、その他の言語、という道具で通信して脳の内部で観察する学問かなと感じてます。この通信という表現は、まさにIUT理論で出てきた表現を意図して使いましたが、自我と外部世界の割れ目に対して、前回見たように哲学としての「現象学」は判断を停止(アポケー)したわけですが、その割れ目にIUT理論的な考えを用いれば、自我と外部世界の通信に何らかの「定量的」な指標を持ち込み得るのではないか、認識のメタに少しでもメスを入れられる新しいアイデアを発想できるのではないか、そんな可能性を感じます。
今週の課題はやっぱりちょっとしんどかったですね。次週は自然言語でお話できるので、フランクにいきましょう。お疲れ様でした。

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