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多様性の「た」

多様性を意図的に生じさせることをいつも考えている僕です。
いまは、「その研究」をしているとか、カッコいい言い方にしてますが、本当は、多様性フェチなんだなと思ってます。

ところで、昔むかし、僕がまだテレビをよく見ていた頃、ミュージックステーションという番組に出ていた椎名林檎が、「自分は無い部分を作っているだけ」みたいなことを言っていて、すごく共感したのを覚えています。

僕もそんな感じで事業をやっている感覚が今もある。ただ、最近の椎名林檎は、リスナーのニーズに完全に合わせてるようなことをインタビューで言っていたので、新しい国をつくりそれを回してる段階なのかなと、勝手に思っている。

「無い部分を作る」は「多様性」を創り出す行為そのものかもしれないと思う。

僕らは安易に、「しっくり来る」とか「腑に落ちる」みたいなモノやコトが存在していると錯覚してしまう。だから探す、でも、見つからない。まあ、当然だよね。みんな違うからそこでぴったりな何かを見つけるって、奇跡というか、不可能に近いと思う。

ただし、それを可能にすることもできる。自分をそれにぴったりハマるような器に作り変えればいいのだ……が。
この辺りは、またどこかで書きたい。ただ、これは、自然か不自然かと言ったら、僕のゴーストは「不自然である」とささやく。

話を戻すが、見つからないので、作る。それによって多様性はその面積を広げる。

何かの枠に囲まれた中の、1番端っこに立ち、思い切って一歩外に出る。

枠はその一歩分広がる。

いま、本人視点と俯瞰の2点を混ぜて文章を書いているので、悩んでいる人がこれを読むのはオススメしない。

と、散々書いてから言ってみたりする。

要は、モヤモヤしたら、探して、見つからなかったら早々に諦めて、つくる。

その「つくる」が多様性の面積を広げる。

で、その多様性は、しなやかで、きっと豊かさそのものなのだと、そう思う。

#多様性

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