メルキゼデクはイエス様

今日は、ノアとバイブルスタディをしました。前々回は、創世の初めからいるイエス様をテーマに、前回はイエス様は生きている間は祭司でしたか?という質問を受けたので、今回はメルキゼデクの紹介をしてみようと思いました。

創世記14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。 19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。 20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
詩篇110:4 【主】は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」
マタイ26:26   また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。


ノア:「イエス様とメルキゼデクは同様のことをしていますね。前にイエス様が概念として創世の初めからいたとわかったので、メルキゼデクがイエスだとしても私は不思議だと思いません。」
なんと、このような素直な言葉を聞けるとは、感動でした。

そして、ヘブル書7章を読み進めました。

ヘブル7:28 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。

ノア:「これは、語っている人は無意識かもしれませんが、大祭司の欠点を指摘して、イエス様を高めようとする話法ではないですか?」と言われました。それは誤解ですね、と色々説明して理解していただいたと思います。

ユダヤ人と聖書を読み初めた時に、時々起こることです。どんなにイエス様や新約に心を開いてくださっているように見えても、彼らの心の中のどこかにクリスチャンから迫害を受けてきたのは、悪の書物である新約聖書の教えがあるからだ、という刷り込みを時々感じます。イエス様もパウロも、ユダヤ人に対して厳しい言葉が多いです。ですから、そんなふうに取るの?と疑問がわきますが、全体が見えるには時間がかかるので、イエス様がパリサイ人をさばく言葉に、新約聖書はやっぱりユダヤ人の悪口を言っている本だと取られてしまう時があります。

イエス様も山上の垂訓を話し、次に病人を癒やすことから活動されました。そして、相手の理解に合わせるように、いつもたとえでお話されました。ユダヤ人だから理解が早いと思って、早く真理をお伝えしたいと思いがちですが、どこで躓いてしまうか、私達には経験が足りなさすぎて、わかりません。時に、じれったくなりますが、イエス様の教え、十字架、復活、イスラエルへの特別な愛、ご計画、など順序だててお話しなければと思わされます。そして、教会と同じように愛の交わりが大切ですね。

この時代にユダヤ人が新約聖書を読むということは、まだまだ珍しいことです。私達のために折られたユダヤ人に関わらせていただくことに、愛と思慮を与えてください、と今日も神様にお祈りしました。

By 和恵


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?