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ナオミ 起きなさい。

自己紹介
https://youtu.be/P4wOA2huG2s

起きなさい
 
https://www.youtube.com/watch?v=jbPA_dHnuUk

トーラーの中で、神が人々に何かを命じる時に、しばしば「קוםクム!」とヘブル語で言われます。

それは、日本語で、立ちなさい、起きなさい、です。

例えば、創世記13:17で神はアブラハムに言われます。

創世記13:17
קוּ֚ם הִתְהַלֵּ֣ךְ בָּאָ֔רֶץ לְאָרְכָּ֖הּ וּלְרָחְבָּ֑הּ כִּ֥י לְךָ֖ אֶתְּנֶֽנָּה׃
17  立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。
わたしがあなたに与えるのだから。」


また、創世記35:1では、神はヤコブに言われました。

創世記35:1
ק֛וּם עֲלֵ֥ה בֵֽית־אֵ֖ל וְשֶׁב־שָׁ֑ם
立ちなさい!ベテルに上って、そこに住みなさい。

では、疑問は、神様は私たちに、なぜ、「立ちなさい」「起きなさい」と言われるのでしょうか。

ただ「この地を歩きなさい」とか「ベテルに行きなさい」と言うだけではだめなのでしょうか。

行動を起こす前に、Ariseアライズ、קוםクーム「立ちなさい。起きなさい。」と言うのでしょうか?

その答えはエゼキエル書の1章の終わりと、2章の初めにあります。

初めの章では、神様はエゼキエルに、とても不思議な奇跡的な光景を見せます。

それで、エゼキエルは、それにとても恐れて地にひれ伏します。

Ezek. 1:28
וָֽאֶרְאֶה֙ וָאֶפֹּ֣ל עַל־פָּנַ֔י וָאֶשְׁמַ֖ע ק֥וֹל מְדַבֵּֽר׃
私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。

2:1 וַיֹּ֖אמֶר אֵלָ֑י בֶּן־אָדָם֙ עֲמֹ֣ד עַל־רַגְלֶ֔יךָ וַאֲדַבֵּ֖ר אֹתָֽךְ׃
その方は私に言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。

2:2 וַתָּ֧בֹא בִ֣י ר֗וּחַ כַּֽאֲשֶׁר֙ דִּבֶּ֣ר אֵלַ֔י וַתַּעֲמִדֵ֖נִי עַל־רַגְלָ֑י וָאֶשְׁמַ֕ע אֵ֖ת מִדַּבֵּ֥ר אֵלָֽי׃
その方が私に語りかけると、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。そのとき、私は自分に語りかけることばを聞いた。

何が起きたのでしょうか?

エゼキエルは、見たことに驚愕して、ただ地にひれ伏しています。

神は、言います。

まずあなたが立ちなさい。

そうすれば、わたしはあなたに語りかけます。

エゼキエルは、話ができず、とても恐れいていて、ただ地に伏せています。

しかし、神様はエゼキエルに語りたいと思っています。

ですから、風を送り神様はエゼキエルを立たせようとします。

彼が立ち上がるまで、神は語りかけません。

ここから私たちは何を学ぶのでしょうか。

神は独り言や単独行動には興味がありません。

神様は、人間が立ちあがり、答え、行動することを望んでおられることがわかります。

ですから、ユダヤ教には、祈りの最も重要な瞬間に立ち上がるのはそのためです。

その祈りを「アミダ」と言います。

アミダとは、העמידה「立ち上がる」という意味です。

神が私たちと共にいてくれることを望んでいるのです。

だから、立ち上って祈ります。

そうすれば、神は語ることができます。

もし、立ち上げれば、エゼキエルのようなことが起きます。

ユダヤ教では、「神は自分を助ける者を助ける」と言います。

最初の一歩を自分が踏み出せば、その後で、神様がそれを助けてくれるのです。

だから、神様は「起きなさい」とおっしゃるのです。

ですから、神様は、まず、はじめなさい、そうすれば、助けます。と。

新約聖書でも、天使はヨセフにこう言っています。

マタイ2章13節で、「「立って、幼子とその母を連れてエジプトへ逃げない。」

そしてまた20節で、「立って、幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。」

そしてまた21節でも、「そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。 」。

その最も強い例は、イエスが病人を癒すとき、彼に言ったことです。

「立ち上がって、寝床を取り上げ、歩きなさい」。

イエス様は病人に、もし奇跡が欲しいなら、治したいなら、立ちなさい、

地面に寝たままでは奇跡は起きない、いつまでも病気のままだ、

と言っているのです。

感謝なことに、病人が立ち上がる努力のおかげで、奇跡が起こり、

彼は立ち上がることができたのです。

覚えておかなければいけなことは、
奇跡が必要なとき、神様の助けが必要なとき、

「起きなさい」という命令を思い出す必要があります。

つらいことですが、勇気と力を振り絞って立ち上がり、奇跡を起こそうと行動すれば、神様の助けを目撃者になれます。

私の母はこう言います。

たとえ奇跡を求めないとしても、私たちは常に立ち上がり、神様に私立ちは、ここにいます。と、表す必要があります。

この世界で神様のパートナーとして行動する準備ができていることを示す必要があります。

私たちはここにいます。私は神を助けます!と。

エゼキエルのように強い風より無理に立ち上がらせることなく、

私たちは自ら立ち上がります。

なぜなら、私たちは神様のパートナーになりたいからです。

クームという言葉はとても大事です。

起きなさいは、リトオエル להתעורר
立ちなさいは、ラモッドלעמוד
神さまが使う、クーム לקוםは、両方の意味です。

神様が私たちに何かをさせたい時、
私たちが神様のために何かしたい時、
立っていて、霊的に目覚めている、両方が必用です。

そのような状態の時のみ、神様は私たちに何かをさせることができます。

ですから、私達が覚えて置かなければいけないのは、アライズし、立ち上がり目覚めて、神様のために働くことができるのです。

それは、ユダヤ人に語られているように、またイエス様がクリスチャンにも同様に語られています。


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