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新約における旧約の引用 マタイ4,12

新約を読んでいて、旧約の引用がある場合、その旧約を開き、引用箇所全体を読むようにしています。また新約もヘブライ語で読んでいるので、オフィルは、引用の小さな違いにすぐに気が付きます。

Matt 4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
Deut:613 あなたの神、【主】を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。

オフィル:異邦人は神様を恐れなくても良いのですか?恐れなさいというところが無くなっていますよ。神様は異邦人に甘いのではないでしょうか?私達は神様の本当の子だから、厳しいのです。

ユダヤ人は神はとてつもなく偉大で恐れの対象です。異邦人の神のイメージは、愛です。この感覚の違いはとても大きいと感じています。御言葉から、オフィルに指摘されてしまいました。

指摘された他の例です。

Matt 12:20  彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。 21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
Is 42:3  彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。

イザヤ:島々に。                                   → マタイ:異邦人に。
イザヤ:おしえ=トーラー=律法。  → マタイ:無し。

これを読むと、ギリシャ語になった時点で、島々ではなく異邦人全体を表すようになりました。加えて、律法は待たずに異邦人は公義だけを待ち望めば良いように見えます。

でも、イザヤを見ると、島々である私達日本に対して、律法が置かれることを待ち望んでいることになります。律法がわからなければ、ユダヤ人と聖書について話すことはできません。私達日本に対する神様の期待の高さを感じました。

ちなみに、イザヤ:待ち望むと、マタイ:望みを掛けるは、同じיחל で翻訳されていました。これは、ギリシャ語で ἐλπίζω エルピゾー G1679 です。英語の訳で、To wait for salvation with joy and full confidence. 救いを喜びと完全な確信によって待ち望むこと。とありました。エルピゾーが使われている箇所をいくつか、ご紹介します。

Heb. 11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 
Rom8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

イスラエルの全てが救われることに確信し、力が湧きました。

by 和恵

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