『臆病な詩人、街へ出る。』評

 詩人。とは誰なんだろう。そもそも詩とはなんだろう、ということを日常的に考えている人は少ない。なんというかキリがないからだろう。詩を定義することの果てしなさには眩暈がする。
 私は自分を詩人だと考えている。詩的な表現を好み、詩的な日常を送りたいとおもう。詩的な日常ってなんなんだよ、という感じがする。すごくふわっとしている。でも確かに日常が詩であればいいのに、と望んでいるのだ。
 文月さんは現代において「詩人」がどういう役割を担い、どうあるべきかを自分自身に問うている。
『臆病な詩人、街へ出る。』という本は、人生経験の浅さを自覚する著者が未知なるものに奮闘するレポートが主軸なのだが、詩に対するスタンスを明示してもいる。
 詩人はときどき珍獣扱いされる。特異な趣味を持っていて、人とはまったく違う振る舞いを期待されたりする。若くして詩壇に立った文月さんは、そのような場面をすでに多く経験しているようで、苦しい心情を吐露している。詩人のくせに普通、という揶揄。「文化系ハラスメント」という言葉でその嘆きを綴る。
 なんだか身につまされるのである。そうなのだ、この本にはやたらと身につまされる。フィンランドの友人との対話を起こした章がある。積極的ではなく、常に受け身のコミュニケーションをとる人には搾取されているように感じる、という友人の言に私もギクリとする。率直な意見を受けて、臆病な詩人は思考を深めていく。その過程が緻密に記録される。なかなか言語化されることのない、気持ちの揺れを見事に捉えている。
 詩の大きな役割の一つであろう。言語化されることのないあらゆるものをどうにか言語化していくこと。そして言語化する必要があるのか?とおもわれそうなことを言語化して「笑い」に昇華する技術をも垣間見せてくれる。
 ボクシングジムに一緒に体験入門をした友人との見事に噛み合わない会話、ふった相手との花見で過剰に犬を警戒する様子など、省いてよさそうな描写が一切省かれないところに、そこはかとない可笑しみがある。この本の醍醐味の一つと言えるだろう。詩的であることとユーモラスであることの配分は存外繊細な技術を要するはずだが、文月さんはそれを天然でこなしている感がある。笑わそう、という意図が見えないのだ。地味に凄い。
 未体験ゾーンに足を踏み入れるたびに、新たな自分を見出し、世界の多様を捉え、言葉の可能性を拡張していく。詩人、文月悠光の確かなる助走。

初出:現代詩手帖2018年5月号

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