多和田葉子『雪の練習生』新潮文庫

 小説を読むのはけっこう疲れる。作者の妄想が産んだ概念に思考を寄り添わせる作業には骨が折れるものだ。それをしないですむ小説が読みたいみなさん、多和田葉子の『雪の練習生』を読んでください。
 シロクマがいる。自身の物語を物語る一章目。二章目は次の代のシロクマ、三章目はさらにその次。と三部構成。
 クマはかわいい。とされることがあるが、こわい、とされることもあって、というかこわい動物には違いないはずなんだが、プーさんやクマモンとかキャラになると人気者だ。
 この小説のクマたちだってかわいい。かわいい。と言ってもいいはずだ。だけどそれだけじゃ当然ないわけで、それだけだとしたらわざわざ私だって読みませんし、多和田葉子のような人がそういうなのを書くわけがない。
 と多和田葉子の小説をさも読んできたような書き方をしたけど初読だ。みんなが面白いというから、その人達を信頼して、凄い!とも言うからそれも信頼して多和田葉子、いつか読もう、とはおもっていて、今回ついにその機会がきたというわけだ。
 多和田葉子はドイツ在住の日本の現代作家だ。フルネームを連発したくなる字面の名前だ多和田葉子。本名だろうか。創作だとしたら素晴らしいセンスだし、戸籍名であれば親御さんと先祖(?)の見事な連携による逸品だ。
 この小説を読んでいるあいだ私はずーっと幸せでした。つらい仕事のことも忘れ主に早朝の中央線で読んでました。
 文章の一つ一つが朝の光の粒子を受けて輝くようで、読みすすめては、少し休んで浸り、しょっちゅうニヤニヤ笑ったものです。本当に面白い文章が連なってるんですよ。面白い読み物が必ずしも面白い文章が連なってるわけじゃないわけじゃないですか。全体の物語を通して読むことで面白さを味わうわけですよね?私のこの本で得た面白味は一個一個の文章の面白さ。こんな書き方、こんな表現をしちゃえるのか!という感嘆。それが鮮やかに連なる景色を眺め渡す快感。そういうものだ。
 
動物が子供を育てるのは本能ではなくアートである。

こんな一文を踏んだときのグシャっとした足裏感覚の気持ち良さ。

わたしは「猛獣」という言葉に大変な異和感を覚えた。わたしは猛獣という言葉があることすら、ずっと忘れていた。

感覚が麻痺するような、少しの不安を覚えるような、大事なことを忘れてることを忘れないように必死になる感じとかがどっと胸にくる。

人間の魂というのは噂に聞いたほどロマンチックなものではなく、ほとんど言葉でできている。

ご明察だ。この小説は言葉で出来ている。物語だ。

初出:ルエ読


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