『いい絵だな』評

 いい絵とはなんだろうか。絵を見ている時間って人生にとってどういう意味があるのだろうか。あんまりそんなことを普段かんがえたりする機会はないのだが、『いい絵だな』を読んでるときにぼんやりうかんできた。これこそが絶対に「いい絵」なんて基準はあるはずないとおもうけど、人間それぞれの「私にとってこういうのがいい絵なんだよな」を巡る語らいは、興味深くて、それが伊野さんと南さんの語らいであれば、おもしろくならないはずがないのだ。
 冒頭に置かれた伊野作品「高橋由一の肖像」がネットで高橋由一の作として紹介されてることにあきれるエピソードがいきなりおもしろい。伊野作品は、高橋由一の代表作で描かれたモチーフを自画像に全部乗せした、ある意味むちゃくちゃコスパの高い絵になっている。一枚に納めちゃえばいいじゃん!みたいな雑なノリがあり、なんだか今日の「映画を早送りで見る人」的なものへの批評性を勝手に受け取った。
 もしやコスパ重視の人は美術館を早歩きで作品鑑賞するスタイルを持っていたりするのだろうか。いやそもそも絵を観る行為はコスパが低そうな感じがする。じっくり鑑賞して書き手の意図を読んだり、時代背景に思いをはせたり、技法や工夫に目を配ろうとするととても時間と労力がかかる。現代美術に関してならさらなるリテラシーを求められる場合があるだろう。
 どんなふうに観るかが、人それぞれなのは当然なんだけど、絵は時空をこえてその場に存在する特異点だとおもうので、この宇宙でその作品がどう位置づけられるのかを想う時間は確保しておいたほうがいいような気はする。
 話がすごく横道にそれた。伊野さんと南さんの語らいのなかで「写実」とどう向き合ったのか、という論点がでてくる。正確に緻密に絵を描く、という志向性をそれぞれの画家がどの程度意識しているのか。そしてどんな風に逸脱しようとしてきたのか。このモノサシを使うと古今東西の画家たちのポジショニングがつかみやすくなりそうで、便利だ。
 私は美術を愛好し、美術なくして生活はない、とすらかんがえている者だが超不勉強なので、対話のなかで語られている、原始のカメラによる撮影技術であるカメラオブスクラの登場によって急に絵の精度が上がっている事実を知らなかった。でも二人はそれ以前の絵のほうが良かったよね~みたいに話していて、絵と写真の関係は一筋縄にはいかない。
 ツイッターを眺めているといわゆる「超絶技巧」の絵で、水道の蛇口を描きました、みたいな画像がまわってくることがある。写真と見紛う絵画表現。お二人があれに対してどういうスタンスなのかは、まあ読んでみてください。
 それにしても伊野さんが実作者としてかんがえる「いい絵」に関する発言の数々は実に興味深い。例えば、最初に「うまい」とおもわせる絵は実は失敗していて、「なんだこれ!?すげえ」のあとに時間をおいて「あ、すごくうまいんだな」と気がつくようなのが「いい絵」なのだと、説いている。確かにそうなのかも。
 湯村輝彦が定義した「へた」と「うまい」を組み合わせて四分類する有名な説にもふれていて、南さんが語るのは「へた」の素質がある人が引く無意識の線についてだ。その素質とは何なのかというと、自分がいいとおもったものに対する絶対的な自信なのだ、と。なるほど、それもすごく腑に落ちる。自信を持って「へた」をやることが絵に迫力をもたらし、その作品の観賞者が持つ第一印象に「すげえ」をもたらすのだろう。
 この本で初めて知ったマルケと耳鳥斎の絵に魅了された。お二人の推しに対する愛のある紹介ぶりは、とても愉しい。カラー図版をたくさん用意した編集者もグッジョブだとおもう。 やはり絵にたいして、ああでもないこうでもないと語らうのってすごく刺激的なのだ。そして刺激的なのに耳あたりが良いのは、二人の人徳でしょうか。だってこの読み味は、聞き慣れた深夜ラジオに耳をかたむけてるときのような感じなんだもの。

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