『さよ俺』配信ライブのレジュメ

・読後の率直な感想 

私はさよ俺を読んで「意義」とか著者の「意図」を読み取るよりも、清田隆之という興味深い仕事をしてきたおもしろい人物のおもしろい為人をこそ感じとりました。

そもそも読書は、著者の思惑を救いとるよりも勝手に自分なりの読み方で読むのが、おもしろいわけで、著者の思惑どおりの反応をして本人にリツイートさせようとしたりすると、大変つまらないことになります。

私は著者が、エゴサーチをして、うわあ、これはリツイートしたくねえなあ、というアクションを積極的にしていきたい。

清田さんは、フェミニズムとの出会いがサブカルチャーからだった、と書いてますが、私も同じで、雨宮まみさんの初期のサブカル色強いものから、読み継いで自然とフェミニズムに接近していきました。雨宮さんのその先が失われたことは、かなりの損失でした。

同じようにサブカルとして『さよ俺』をよんでフェミニズムの扉を開く人がいるはず。

日本の書店におけるフェミニズムは、今が過渡期なのかもしれません。

フェミニズムの棚に差してある本は、確実に着実に増えていて、ここ最近のうちに「フェミニズム」の棚板を設けた書店とかもあるんじゃないでしょうか。

それは素晴らしいことですが、そこにある本の著者は、ほとんどが女性かもしれません。

さよ俺はその状況に一石投じた、というだけでも価値が高い。

フェミニズムと対にしないで、男性学の本を並存できるような棚をつくっていくのが、これから課題になるかな、とおもう。

さよ俺は、その橋渡しの役割りを担える本、と位置付けていいかもしれませんね。
(とまあ「意義」も「意図」も読み取っちゃってますが…)
・コロナ離婚のくだり、例えば「話を聞く」ことなどで、意識すること

女は話が長い、とかおしゃべり好き、みたいなイメージがいまだ残存してる弊害なんですかね。男は黙ってサッポロビール、とか。くだらない印象論に左右されない対話をしないとこじれるのは当然ですよね。

・自分の行為や発言を「男性性」が出てると思う具体的な場面は

男性学の田中俊之先生が「平日昼間問題」というのを著書で提唱してます。男が平日昼間に普段着で往来にいると、特別な目線を向けられる、という現象のことです。私こないだ無職になり、やはりこの問題を多少意識してしまいました。

・今回清田さんはこの本の中で過去の自分と向き合っていますが、ご自身にもひりひりするエピソード

あります。痛恨。ポエトリーリーディングの会で性をテーマにした自作詩を朗読された女性に、打ち上げのような場で、話した際に〇〇さんはセックスが好きなんですか?って冗談まじりに言って、困惑させ、軽蔑をされました。

・男性と話しているとき、また友人知人の男性の行為や態度に違和感を感じたとき、どんなふうに対応するか

そういう場面は、わりとありますよね。これからは「さよ俺」を献本します。

・ジェンダーの考え方は、かなり個人差があると思いますが、そのギャップを最近感じた例

電車のって、視界に強引に割り込む広告群を浴びると、これが当たり前な人たちとのギャップを感じたりは、しますよね。この問題は、最近、小林エリカさんと長田杏奈さんのツイートで意識するようになりました。

・ジェンダーについて、誰かとゆっくり話す場は、今まであったか

ないですね。本が対話の相手です。李龍徳さんの『あなたが竹槍で私を突き殺すまえに』という小説にキムテスという在日韓国人が出てきます。妹がヘイトクライムで殺害されます。あるきっかけで彼女がフェミニズムを学び活動していたことを知り、自分も一から学びはじめます。そして草稿が残っていた彼女の書きかけの論文を完成させます。むちゃくちゃアツくないですか?

・女性から「男性だから」「男性なのに」というような目線や態度を感じたこと

あんまりないような気がしますね。幸いなことに。自分のキャラクターといいますか、人徳といいますか。親兄弟からもないし、一番身近な女性である妻からは、皆無ですね。

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