見出し画像

「理系学部」は「女子」が少ないと言われるけれど…いったい、いつからそうなった~?母の話から、浅く分析してみる

大学の「理系学部」の「女子枠制度」について、様々な意見がある。

「理系学部」は、女子に馴染まないとする、さまざまな「現状」や「意見」がある。

しかし、母の話を聞いていて、戦前の方が、「理系学部」と「女子学生」の関係が、今よりも、「壁」が無かったのでは~と思う。

母(1929年生まれ)の話を聞いていると、戦前の「女子教育」の中で、女性だから「文系学部が相応し」という感覚は、全く感じられない。

「学科」の選択に、「性別」が影響されている感じはない。

それは、「個人」のレベルではなく「社会」が、「女子」と「理系学部」に「壁」を作っていない。

母の話を聞いて、私は、そう感じる。



母が通っていた「高等女学校」(東京都港区)の敷地に、附設されてた「都立女子専門学校」という学校があった。

母は、「東京都立女子専門学校」を略して、「都立女専」と言う。

母の話によると、「中学校」の「教員資格」を得るための学校とされ、母の同級生に、この学校を卒業している方がいる。

この学校の「学科」は、「数学と国文だったかな~」と、母は言っていたけれど、調べてみたら、「数学科」と「家事科」であることが分かった。

確かに「家事科」というのは、現在の感覚からすると、ジェンダーの視点に欠ける感じはするけれど、もう一つの学科は、「文系学科」ではなく「数学科」だ。

この「都立女専」は、戦後1946年に、「都立」の「女子大学」として「新設」することを東京都に願い出るけれど「時期尚早」として実現しなかった。
この時、申請した学部は、「法学部」と「理学部」の「2学部案」とされていて、「理学部」は、数学・物理学・化学・生物学から成っている。
最終的に、この「都立女子専門学校」は、1949年に発足された「東京都立大学」に、「理学部の母体の一部」として、移行されていく。

ウイキペディア参照

「都立の女子大」が、「時期尚早」だったという事には、なんか納得がいかない感じがするけれど、1946年は「終戦の翌年」で、それまで、日本の女性には、法律上、「選挙権」も無く「一市民」としての「権利」が無かったわけだから…わからないでもない。


母の「物理」の先生は、当時の「女子高等師範学校」(現:お茶の水女子大学)を卒業された、女性の方だった。

また「母の同級生」で、東京大学に進学された方も、専攻は「物理」だった。

絵本作家で有名な「いわさきちひろ」さんの「お母様」も、母の学校で、教師をされていて時期がある。担当は、「数学」だったと聞いたことがあって、調べてみたら、「博物家事・理科」と書かれてあった。

12月15日、岩崎正勝・文江の長女として母の単身赴任先・福井県武生(現・越前市)で生まれる。本名知弘。
父・正勝は陸軍築城本部の建築技師、
母・文江は女学校の教師(博物家事・理科)。

いわさきちひろ美術館HPから

教職を退職された後に、母が入学しているため、母が、直接、授業を受ける事は無かった。(※いわさきちひろさんご自身も、母の先輩で、同じ学校の卒業生です)



つまり「理系担当」だから「男性教師」という事は無い訳で…

母の時代は、「男女、七歳にして席を同じうせず」という時代。
公立の小学校では、「男女別学」が当たり前の時代だった。

だからこそ「女子教育」は、出来る限り「女性教師」で賄うみたいな考えがあったのかな~、そんな気もする。


「母」も、「母の学友たち」も、その時代にあって「恵まれた人たち」だったのかもしれないけれど、「男女差別」「男尊女卑」は、現代より、はるかにあった時代だと思う。しかし「理系は男子」という感覚は、母の学生時代の話からは、感じられない。

一体いつから、「理系は男子」という「感覚」を私たちは、埋め込まれてきたのだろう~と思う。

私の「分析」は、浅いけれど、学校では教えてくれない「戦前・戦後」からの「日本社会の変遷」を、正しく振り返ることは、上澄をすくっただけでない、本当の意味での「男女共同参画」に繋がるのでは~と思う。

母の話は、聞いていると、
いろいろ飛び火して、
チンプンカンプンで、
まとまらない。

でも、確かな史実に基づいている。

私の「知らない事」が出てきて、勉強になるな~!

※いわさきちひろさんのお母様の箇所で出てきた「博物家事」について、ネットで「博物家事とは?」で調べても、分からなかったので、今度、母に面会にいた時、聞いてみようと思います(*^-^*)


よろしければサポートお願いします! 頂いたサポートは、「刺繍図書館」と「浪江・子どもプロジェクト」の運営に使わせて頂きます! サポート頂けたら、大変助かります。