見出し画像

私のピアノライフ~この1年

昨年の夏(2021年)に、ピアノがある生活が、7年ぶりに戻ってきた。
もう少しで1年が経つ。
レッスンに行くことはしていないけれど、だいたい1時間ぐらいは、ほぼ毎日のようにピアノは、弾いている。

自分の曲を取り戻す!

ピアノがある生活が戻って、最初にやったことは、45歳から再びレッスンに通い習得した「曲を取り戻す」ことだった。あんなに練習してた曲も、7年間ちゃんと弾いていなかったから、思うようには弾けなかった。

50歳を過ぎて発表会で弾いたショパンのノクターン(Op32-No2)や即興曲(Op29)は、どうしても取り戻したかった。だから、楽譜をしっかり見て音取り(譜読み)から始めた。
途中で、「この曲、本当に私は弾けてたの~??」思うこともあったけれど、確かに「私はこの曲をスラスラ弾けた」という「過去の事実」を信じ、数か月、練習に耐えた。

おそらく、この段階の作業(譜読み)が、ピアノのお稽古の中で、一番楽しくない、「つまらない作業」なのだと思う。
でも、自分がこの楽しくない作業こそが、ピアノ練習には、絶対不可欠なもので、その先にある、素晴らしい感覚(演奏する)を知っているからこそ、出来るのだと思った。

よっぽど才能が無い限り、私のような凡人は、この作業に耐えられるかどうかが、ピアノの実力に連結する。

そして、私はこの記事に大変共感した。
⇓⇓⇓⇓⇓⇓

幼い頃から、数えきれないぐらいこの「つまらない作業」をやってきた。
「つまらない作業」の「意義」が、体に染みついているのは、長年ピアノをやってきた賜物だ。

その成果があり、今は、だいぶ曲が自分に戻ってきた。
(暗譜は出来ないけれど~)

「ブルグミュラー/25の練習曲」の楽譜を購入した訳

「ブルグミュラー/25の練習曲」は、ピアノを習った人が、必ず出会う教本であり、子どもがピアノを「習得する過程で弾く曲」というのが定番だ。
私も小学校の低学年の頃、やった。

CDが登場してから、「チェルニー」の曲とか、「バイエル」に至るまでも、あらゆるレベルの教本となっているピアノ曲が、気軽に聴けるようになった。しかし、私が子どもの頃(1960年~70年代)は、有名なピアニストが演奏するハイレベルのピアノ曲の「レコード」しか無いの時代だった。

例えば、ホロヴィッツやルービンシュタインみたいなピアニストは、ブルグミュラーは弾かない。

ところが、福山雅治氏が主演した映画「そして父になる」の中で、ブルグミューラーのピアノ曲(演奏は、グレン・グールド)が使われていた。それを聴いた時、私は、初めてブルグミュラーの楽曲って、本当は「こういう曲なんだ~」と知った。特に「清い流れ」は、衝撃的だった。

それまで、上手なブルグミュラーの曲の演奏を聴いたことが無かった。
ピアニストが、コンサートで、演奏する曲ではないし~
つまり、「上手な演奏」でブルグミュラーの曲を聴いたことが無かった。

だから、映画の中で聴いた時、「こうゆう風に弾く曲なんだ~」と初めて知ったのだった。


で、私も「そんな風に弾いてみたい!」と思った。

ところが、「ブルグミュラー/25の練習曲」の楽譜を私は持っていなかった。

何故なら、私が小学生の頃、楽譜を2歳上の姉と共有していた~というか、私は、姉の「おさがりの楽譜」を使っていたからだ。だから当時、使っていた楽譜は、私の手元には無いのだ。

なので近所の楽器屋さんで、「ブルグミュラー25の練習曲」を、私は購入した。

noteでピアニストの反田恭平くんが、ブルグミュラーを演奏している事も知り、ますます気になってしまったのだ!
⇓⇓⇓⇓⇓

実際、弾いてみると、子どもの頃のレッスンが思い出される。
「自宅でのお稽古」をちゃんとやっていかなくて、先生から注意された事とか、上手に弾けなくて何度も、同じことを先生から言われた事とか、思い出す。
こんな簡単なことが、子どもだった自分には困難で「つらかったんだ~」そんなことを思う。

どんなに簡単と思われるピアノ曲でも、「一曲をちゃんと仕上げて弾くこと」って、ピアノと向き合う「基本となる姿勢」と私は思っている。

どんなに頑張っても、ピアニストレベルにはならないけれど、現在61歳の私なりのベストは目指そう!

「ソナチネ」の素晴らしさに気が付く

さらに私は「ソナチネアルバム」を、もう一度、ちゃんと弾いてみようと思った。

ショパンの曲は、指を滑らせるように弾く感じで、そればかり弾いていると時々、「しっかりとしたタッチ」で弾くベートーベンの曲が、弾きたくなるのだ。

「ソナチネ」レベルであれば、譜読みは、難しくないので、楽譜さえあれば、どうにかなる。

しかし、指がもたつくのは何故だろう~老化なのか~

そんなことも感じつつ、「ソナチネアルバム」に収められている曲を弾きながら、ベートーベンの曲ってやっぱり、いいな~と思った。

ベートーベンの「テンペスト」第三楽章は、ピアノを弾く人なら「弾けるようになりたい」と思う曲の一つだ。私も、大人に成ってレッスンを再開した時、先生に「やりたい」と申し出た。

何度も何度も、同じような激しいメロディーが、繰り返されていく曲の後半部分で、一瞬、「心をぐっと掴まれれるような旋律」が出てくる。

そんな時、ベートベンの激しさは「彼の心の奥にある繊細さ故なのだろ~」なんて、私は勝手に思うのだ。

子どもの頃は「作曲家の思い」に気持ちを向けるなんて、絶対にできなかった。
当然だよ、わからないよね~、ベートベンの気持ちなんて、子どもだからね~

大人に成ると、ピアノを弾きながら「作曲家のことを感じながら弾く」ことができる。

「ソナチネアルバム」に収められている2つベートーベンの曲は、特に「二楽章」が、可愛い曲だな~と思うのだ。
あんな怖そうなおじさんが、「可愛い曲、書くんだ~」とか思っている。

また、和声的には、この音でなくてもOKなのに~どうして、ここで「この音にしたんだろう~」とか思う時がある。そこがその作曲家の感性が表れているところなのだろう。

さらに、シューベルトの曲の美しさを知ったのも「ソナチネアルバム」だった。高校生の時、シューベルトの「ピアノソナタ」をやりたいと珍しく自分から申し出たことも思い出した。

ブルグミュラー同様に「ソナチネアルバム」も、「おさがりの楽譜」をしばらく使っていたため、やった曲の譜面に、何も書き込まれていない。

高校生の頃から、捨てずに持っていた楽譜の譜面の殆どに、当時の先生の書き込みが無いのは、本当に残念だ~

「ショパンの曲はちゃんと弾ける、おばあちゃん」への道は続く!

以前書いた記事に、私は、日常生活に人の手が必要になっても「ショパンの曲はちゃんと弾ける」そんな「おばあちゃん」になりたいと書いた。
⇓⇓⇓⇓⇓

その気持ちは、変わらない。

斎藤孝氏の著書「読書する人だけがたどり着ける場所」という本がある。
(私は、まだ読んでおりません~申し訳ごさいません…)

斎藤氏の言い方を用いるのであれば、「ピアノを学んだ人だけがたどり着ける場所」がある。コンクールに出場することや、ピアニストを目指すということとは、「別次元」として存在していると思う。

私のような凡人が、ピアノを弾くって、生活には何の役にも立たないけれど、間違いなく人間の持つ「普遍的価値」を自分自身に示してくれる。

自分がもっと、おばあちゃんになった時、ピアノに対してどんなことを思うのか、それもまた、楽しみな私なのだ。

よろしければサポートお願いします! 頂いたサポートは、「刺繍図書館」と「浪江・子どもプロジェクト」の運営に使わせて頂きます! サポート頂けたら、大変助かります。