霧の中 10

 翔太さんの部屋に連れて行ってもらった。男の人の部屋だと思った。変な匂いはしなかったけど、やはり異質だと感じた。ベッドは布団がめくれていて、いま起きてきた状態だった。でも、さっぱりとして散らかっていなかった。アイドルのポスターもなく、一枚のカレンダーが貼ってあるだけだった。私の部屋と殆ど変わりはなかった。キッチンは全く使った跡形もなかった。靴箱だって、棚があって仕事用の少し廃れた運動靴みたいなのと、今日履いていた白いスニーカーと黒の革靴とサンダルがあっただけ。女の人が来ているような形跡も全くない。殺風景と言うべきか、翔太さんはこの部屋で多分寝るだけだろうと思った。部屋干しの洗濯物がそのままで、会社の制服に半袖のアンダーシャツと黒いボクサーパンツが見えたが、さすがに男だ。何の気遣いもしない。それがほっとする。部屋から公園が見えた。休みの日はあの部屋から外を見たらリセットできそうだと言ったら、ここがカスミンのお役に立てるなら、いつでもどうぞ、だって。嬉しかった。嫌われていないみたいだ。初めてのデートなのに色々とおしゃべりはするわ、部屋には押しかけるわ、夕ご飯まで誘ってしまうわ、こんな私でも翔太さんは包み込んでくれるみたいだ。車は置いて、公園を歩いて行く。お話しながら、と言っても私がおしゃべりして、それに翔太さんが答えるだけ。それでも二人で笑っている。ああ、夢みたいだ。男の人と公園を歩くなんて。この公園来てみたかった。一人だとつまらないし、ただ歩く仲間に入る勇気はない。道路を渡ってスーパーでお買い物をする。お鍋だからお酒も買った。レジでポイントがあるので私が支払いをしたのに、翔太さんは半分以上私にお金をくれた。折半にしよう。いいのに、私は言ったが、結局お金はもらった。荷物は翔太さんが持ってくれた。私は腕を組みたかったが、今日初めてのデートなのに、そんなことをしたら嫌われると思ってしなかった。部屋に入る前に私は荷物をもらって、外で少し待ってもらった。部屋干しにしている洗濯物をしまっておきたかった。洗濯物を取り込んで、薄いピンクのワンピースに着替えた。スカート丈が少し長くなった。翔太さんを入れ、インスタントだけどコーヒーを入れて出し、テレビをつけた。エプロンをしてキッチンに立つ。翔太さんにお尻を向けることになった。お米を研いで仕掛け、野菜を洗って切る。鍋は材料を切ってしまえば殆ど終わりだ。
 テーブルの真ん中にカセットコンロを置いて土鍋を載せる。火をつけ、冷やしトマトに胡瓜、枝豆を並べてビールで乾杯した。翔太さんは野菜を喜んだ。普段こんなに野菜は食べられないから嬉しいよ。ご飯はまだだが、鍋の後に雑炊にすればいい。翔太さんは鍋が大好きだった。普段はあまり食欲がないほうなのに、鍋になるとたくさん食べるそうだ。お相撲さんみたいな食事なのに体は締まって太っていなかった。
 彼は育った家のお鍋の話をしてくれた。彼のお母さんは料理が得意なほうではなく、いつもレシピを検索して作っていた。だからあるもので作る器用さがない。お鍋なら単品料理でバランスがいいし、後片付けも簡単なので、お母さんのお気に入りのメニューだった。味に自信がないから、ポン酢やゴマだれを並べて各自に調整させ、最後は残ったご飯で雑炊になる。冬になると三日に一度はお鍋になることがあった。弟は嫌がったが、彼もお父さんも気にしなかった。弟さんはF市に行って一人で部屋を借りて仕事をしている。正社員ではない。彼は、家族のこと話し出した。
 父は五十五過ぎてまた仕事を無くし、二年も仕事を探したが見つからず、椎茸の栽培をしようと思う、山を見に行ってくる、そう言って出かけ、山道から谷に車で落ちて死んだ。失業保険も切れ、生命保険はかけていなかった。亡くなる前から、これからの葬儀は火葬場での家族葬がいいよ。骨も拾わない。戒名も墓もいらない。墓など作っても、後に迷惑を残すようなものだ。かえって粗末にすることになる。火葬室に送り込むまでが儀式の全てだ。そんな話をよく聞かされた。いま思えばそれが遺言だった。仕事をしないで家にいる父に、ぼくは、働けよ、と言ったことがある。母はパートに出ているし、ぼくも将来性があるとは言えないけど働いていた。弟もまだ家にいてアルバイトに行っていた。家計は父以外の三人が支えていた。国民健康保険も保険料が払えなかった。父はよく足が痛くなった。目も悪くなって一週間は寝ているだけというのがあったが、我慢して直していた。家の中は暗かった。ごめんね。鍋を食べると、うちのことを思い出してしまって。母は再婚した。六十が近いのに相手がいて良かった。母も僕たち兄弟の荷物になるまいとしたかもしれない。寂しさはあるよ。でも母を抱えて暮らして行くのは正直きつい。弟は元々F市に行きたかった。昔父の仕事がF市で、ぼくも中学校二年まで住んでいた。家族の一番いい思い出の場所だ。だから弟はF市に行くのが目標になった。ごめんね、カスミンに関係ないのにつまらない話をして。
 彼は、お鍋から家族の話をしてくれた。
 父が亡くなり、母が再婚して、ぼくは自分が鍋を食べるのを予想できなかった。カスミンのお鍋は?を聞いて、ぼくはもう断れなかった。熱々の鍋に、鍋を囲んだ暖かい雰囲気。冬眠していたぼくの繋がる気持ちが吸い寄せられてしまった。カスミンのお父さんは、確か高校の国語の先生じゃなかったか?
 そう、県立高校の先生だった。私が三年の卒業前に、急死したの。心筋梗塞だった。父の三周忌が終わると、M県で一人暮らしをしていた母方の祖母が倒れて、母が詰めるしかなくなった。施設に入りたがったのに、順番待ちで、いつになるのかわからず、順番が来てもいまの状態じゃ預かれないらしいの。私はこの町に残った。いつか自立するしかないし、私はここで生まれたし、知らないM県に行こうとは思わなかった。母も荷物になるだけの私は邪魔だったと思う。兄は都会で結婚して、工場に出ている。業績が海外製品に押されてこれからどうなるか心配だけど、私にはどうしようもない。子供はまだいない。母は一人子だったから、M県に行くしかなかった。
 お互いなぜかは知らないが家族の話をしてしまった。彼は、美味しいと言ってお鍋をたくさん食べてくれた。一週間分食べたよ。彼はそう言った。ビールの後で日本酒をレンジでお燗して飲んだ。私は半分だけで赤くなってしまった。彼は一杯だけ飲んでもう飲まなかった。仕事が車の運転だから、明日に残っていたら悪いからだ。心の強い人だと思った。彼は寂しさを耐えている感じがして、堪らないほど愛おしいと思った。私は、ミッチと同棲中の彼の工場閉鎖のこと、臨時教師でいながら不倫をしているトモンのことも、彼は大石純也さんの温泉巡りと釣りの楽しい話をしてくれた。私は純也さんと彼の釣りを想像して大笑いをしてしまった。
 私も海に行きたい。
 いつか連れて行ってよ。私は彼が釣っているのを見ているだけでいい。純也さんみたいに、あっちこっちに行ったり来たりしないから、いつまでも側で見ていられる。私は心の中で思った。海を見たい、のじゃなくて、彼を見ていていたいのだ。どこだっていい。側にいたい。
 私は彼に帰って欲しくはなかった。もっと一緒にいたかった。昼間はまだ暑いくらいなのに、夜になるとさすがに秋だ。涼しさを越して寒さを覚えるようになる。彼にお風呂に入って行く?と勧めようかと思ったが、歩いて帰るしかないから、風邪を引かせてしまうかもしれない。そう思って言うのをためらった。泊まっていく?そう言ったらどう思うだろうか。そんなことを考えていたら、彼が十時過ぎたから、一緒に片付けようか、と言った。いいのよ、私がするから、そう言うと、一人で全部やることないよ。共同責任だから、ぼくも運ぶから働こう。動かないと、ご馳走に悪いよ。私は素直に感謝して、彼が運んでくれたのを洗った。お鍋は片づけが簡単だ。片づけが終わって、私はお茶を入れなおした。彼は感謝してくれた。
 香澄、美味しい鍋ありがとう。母の鍋より美味しかった。彼はお茶を飲むと、この味を忘れないように、ゆっくり公園を通って帰るよ、そう言って立ち上がった。私はもう我慢できなかった。カスミンじゃなくて、香澄と優しく呼んでくれた。みんなと同じじゃない。彼だけの呼びかけ。体がしびれるくらい嬉しかった。みんなより少し近づけているのだ。でも帰られるのは寂しい。彼が立ち上がると、急に目に溜まった涙がぼとぼと零れてしまった。
 香澄、どうした。ぼくは何か悪いことを言ったか?
 私は言葉を出せず立ち上がって首を振った。
 香澄。
 私は彼の前に立って顔を手で覆った。
 違うの、あなたは悪くないの。楽しかった。嬉しかった。もっと一緒に居たくて、時計が恨めしくて涙がでるの。ごめんなさい。迷惑かけて。ありがとう。今日は楽しかった。こんな日が私にあるなんて、夢みたいで。ごめんなさい。変でしょう私。
香澄、ぼくも楽しかった。香澄はきれいなのにお茶目なところがあって、とても可愛いよ。ぼくも夢みたいな日だった。
 ねえ、抱きしめてよ。私は心の中で叫んでいる。彼はハンカチを出して涙を拭いてくれた。私はそのハンカチを彼の手から取って自分で拭いた。自分のうちで他人にハンカチを借りるのもおかしいけど、彼のものを何か手にしたかった。私は彼の胸に顔を埋めたかった。ねえ、抱きしめて、私は心の中で叫んだ。彼は私をやっと抱きしめてくれた。そっと優しく、暖かかった。この充足感、安心感。
 ねえ、私嫌いじゃない?
 大好きだよ、香澄。離したくないけど、明日は仕事だし、楽しいことは積み重ねて行くべきだよ。
 また会えるかな?
 もちろんだよ。
 今度いつお休み。
 月曜日だよ。
 一緒だわ。
 日曜日一緒にご飯食べよう。お仕事遅くなってからでもいいから、うちに来てくれる?
 ありがとう、楽しみにしているよ。
 私は彼の顔を見上げ、目を見つめた。彼は私を包み込んでくれていた。私は目を閉じた。キスしてよ。私は祈った。彼はそっとキスしてくれた。挨拶だけのキスだったが、私は嬉しかった。笑顔になって、ありがとう、気をつけて帰ってね。風邪引かないようにね。

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