霧の中 12

 やっとその日が来た。日曜日いつもより少し遅くなってひまわりデパートを出た。いつものスーパーに寄る。献立はもう決めていた。彼が普段絶対に食べないものにしたかった。昨夜から、今朝出る前に材料は揃え、できる仕度は済ませてきた。お刺身が欲しかった。でももう店じまい前なので、残ってあるか心配だった。二人にしては多すぎたが、刺身の盛り合わせが半額値引きで一個だけあったのでそれを買った。今日昼休みの時間にひまわりタウンにある店で、彼の下着と歯ブラシを買っておいた。今日は帰って欲しくなかった。私は変な女かしら。うちに帰ると、着替えを済ませお味噌汁の鍋を火にかけ、切ってあった材料を入れお味噌を溶いた。お豆腐は冷奴にして大葉を刻んだ。ご飯はタイマーがなって出来上がったばかり。朝作っておいた肉じゃがをレンジで暖めるだけ。フレンチサラダも冷蔵庫に入れてある。あとは彼が来るのを待つだけだった。仕事が終わって休みになるといつも一人。きょうは彼が来てくれるのだ。彼の優しい目を見ながらお話ができる。寄り添える時間が待ち遠しかった。
 携帯電話がメールの着信を知らせた。彼かな、と思ったがミッチからだった。近日中に引越しをして、O市に行く。えっ、ミッチこっちに戻るの。そう思って電話をかける。
 彼と別れることになった。彼は工場閉鎖が決まって、O市を中心に県外のF市まで広範囲に仕事を探した。でも安定した仕事は無かった。F市では派遣がいくつかあったが、いまの状況を考えるとまた派遣切れや解雇になる恐れが十分あるでしょう。そうかと言ってパートでは暮らして行くのは厳しい。工場の閉鎖は決まったけど、彼の工場はベトナムで生産を始めるの。その指導員を募集していて、彼はそれに行くことにしたのよ。私より仕事なの。言葉もわからないし、いつ帰って来られるかもわからない。でも、こっちにいても仕事がない。私といくら愛し合っていても生活ができない。彼もいまの仕事なら能力を発揮できるし、向こうに行ってみて、もし良ければ来ないか、と言うの。解雇は絶対にないの?定年までベトナムになったらどうする?何年か指導して戻っても、その能力を生かせる職場は国内にはもうない。彼の会社は外資だから、そのとき解雇されるか、違う他国へ行くことだってありうるのよ。私たちに子供が出来てベトナムで育てるの?私は、それは出来ないと思った。私はこの国から出て生活はできない。両親も二人の弟もO市にいるの。何かあったら駆けつけられる所がいい。彼は生きるためにいま選択できる道はベトナムに行くしかない。そう言ったの。私はベトナムには行けない。彼を愛しているだけでは幸せにはなれないのよ。彼も同じことを言ったわ。普通の将来が予測できる暮らしができてはじめて幸せが得られる。愛だって継続できる。ぼくたちには将来の予測ができなかった。彼が大事な人だから、幸せになって欲しいと思う。必然的に別の道に行くことになったのよ。普通の生活ができなくて愛だけがあるの、辛いよ。これから仕事と部屋を探して、それから新しい彼を探さなければいけないの。ねえ、いつかの裃氏はその後どうなの?
 裃氏?翔太さんのことか。ミッチは高校のとき憧れていたのだった。だめよ、あの人はだめよ。私は必死で言った。
 えっ、どうして?この前何もないって言っていたでしょう。ただ残ったお弁当あげただけだって。
 だめ、いま私の大事な人なの。
 あら、そうなの。お弁当だけじゃなくて、あなたもあげちゃったの。そう、でもお似合いかもよ。上手くいくといいね。好きで大好きで愛し合っていても上手くいかないことあるからね。そっちに行ったら、残りのお弁当頂戴ね。
 ミッチは悲しさを越して明るい声をしていた。どれだけ泣いただろうか。別れなければならない彼と、まだ同じ部屋に住んでいるのだ。彼とご飯を一緒に食べ、彼の洗濯物をたたんで、一緒に寝ているのだ。愛し合っているから返って悲しく辛いに違いない。こっちに来ても、部屋はあっても仕事が難しい。出来ることは力になってあげたいと思った。
 九時を過ぎていた。彼からまだ連絡がなかった。

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