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青の彷徨 後編 8

 そこへ小菅友香がやって来た。今村裕史と同じことを聞かれる。周吾は同じことを答える。友香は私も泳ぎは好きだから、向うに見えるブイまで泳ごうと言って、海に飛び込んだ。周吾も後をゆっくり追う。三百メートルはあると思った。ブイはみんながいる方向とは反対の方向だった。
 友香がどんどん遠くなって行く。周吾は友香がブイに着きそうになるとスピードを上げて、少し遅れてブイに着いた。ブイにタッチして引き返す。周吾は友香に合わせてゆっくり着いていく。
 あと百メートルになった頃、友香が急に止まった。足がつったのかも知れない。危険だった。友香は必死に手をバタつかせもがいている。頭が海に沈んだ。周吾はスピードを上げて追いつくと、友香の後ろに回る。友香の顔を空に向ける。あごをあげ、鼻と口を完全に水上に出す。首の後ろを片手で抱えて、斜め泳ぎで浜を目指した。友香に、大丈夫だから力を抜くように言ったが、顔を空に向けるまでは暴れた。友香はかなり水を飲んだはずだ。クロールで泳ぐのとは違う。浜が遠い。ぐったりした友香を片手で引っ張り、斜め泳ぎで精一杯泳ぐ。力を振り絞って友香を運んだ。いくら泳いでも浜は遠い。友香はもうぐったりしている。力がない分、海の中では上手く泳げたが、進まない。やっと浜に着いた。浜にあげるのに重かった。周吾は友香を浜に抱えあげ寝かせると、友香の顔を軽くそして強く叩いた。友香、友香と声をかけるが返事もない。胸に耳を当てて心音を聞く。聞こえる。蘇生だ。周吾はもうためらう余裕はないと思った。友香の胸に上から手をあてて力を入れて押す。友香の鼻を摘まんで友香の口をあけ、周吾の口で完全に覆う。息を一、二と送り込む。胸に手をのせて空気が入っているか見る。よくわからない。胸に上から手を当て、力を込めて押す。これを繰返す。みんなが集まって来ているのがわかった。取り合っている暇はない。周吾は集中した。息を送る。胸を押す。息を送る。胸を押す。周吾は友香ではなくて、ノッピを助けようとしていると思った。友香はノッピに似ていた。
 何分経ったか。友香が反応した。水を口からこぼして、目を開けた。直ぐ横に向かせる。
 戻った。ノッピが戻った。周吾はそう思った。
 ノッピが息をした。大きな安堵がやって来た。友香は手を周吾に差し出した。周吾は友香を抱き起こす。友香はそのまま周吾に抱きつき泣き出した。みんなは拍手した。
 「よかった。よかった。助かった。あっと言う間だったね」
 北島潤一の声だ。周吾はそんなものかと思った。二十分以上は経っているような気がした。
「友香ちゃん、大丈夫?」
 周吾はそう友香に声をかけた。
 「すみません。助けてもらって。私足がつって、それから覚えていません」
 友香は泣いている。
 「大丈夫でよかった。もう大丈夫だ」
 周吾はそう言って友香の背中を軽く叩いた。それで友香も自分が何をしているかわかったようで、周吾の胸から離れた。みんなに取り囲まれて見られている。友香は顔を覆った。
 「師匠は泳ぎもですが、救助も凄いですね。よく一人であんな遠くから助けて来れますね。それにあの人工呼吸法凄かったです。ぼくも研修でやらされましたけど、師匠は完璧でした。だから五分もかからず助けられたんです」
 今村裕史が言った。
 「ほんと、お見事だわ、私達も訓練で何度もやっているけど、あれだけ落ち着いてやれるのはたいしたものだわ」
 小村樹里が言った。そこへ高山隆介と前田孝志がクーラーボックスを一緒に抱えて来て、
 「蒼井さん疲れたでしょう。飲み物を持ってきました。小菅さんもどうですか?」
 高山隆介はそういって勧めた。周吾は友香と並んで座ってお茶をもらって飲んだ。咽喉が渇いていた。友香もジュースをもらって飲み始めた。
 友香を支えながら日陰に移動する。湊紀子と前田孝志がついて来た。他のみんなは海に戻った。日陰に横たわって雲を見る。疲れが襲って来た。ノッピ助かったよ。よかった。周吾はノッピの妹が助かってよかったと思った。湊紀子は友香と話し込んでいる。どうしてあんな遠くに泳ぎに行ったのか、そんなことを聞いているようだ。友香は泳ぐのは得意で自信があったから、まさか足がつって死ぬなんて考えてもいなかった。友香は泳ぐのは上手だ。足がつらなければ問題なく泳ぎきったはずだ。反対に周吾が足をつって溺れたかも知れない。何が起きるかわからないのだ。だから、余裕を持つべきだった。
 友香は、自分は子供の頃から川で毎日泳いだ。潜るのも好きだし、長く泳ぐのも好きだ。蒼井さんが最初に遠くまで行ったのを見て、どうしても行きたくなった。だから蒼井さんを誘ってブイまでなら近いと思った。足がつるなんて考えてもいなかった。申し訳ないことをした。そう言った。周吾は、友香にどこの川で泳いだのか聞いた。
 「耳川です」
 と友香が言った。周吾は延岡にいた頃、日向市に毎日行っていたし、耳川で泳いだことがあると話した。
 「友香ちゃんは耳川の近くで生まれたの?」
 周吾は聞いた。
 「はい東郷町です」
 「そう、ぼくは坪谷川と耳川が合流するあたりのところで何回か泳いだことがある。万丈に来る前は延岡にいて、日向市の担当だった。西聖病院と一緒に行った。あの先の牧水記念館にも行ったし、山陰の診療所には配送の手伝いで何回も行った」
 周吾は懐かしい思いだった。
 「私その診療所の近くだったんです。家が」
 「そう、世の中狭いね。いいところだよね、耳川はきれいで流れも速くて、それに大きいから、泳ぎは上手くなるよ」
 「でも今はもう日向市に家を建てて、両親は日向に住んでいます。私は中学まで山陰でした」
 前田孝志は、
 「僕は宇佐の海のすぐ近くで生まれたけど、蒼井さんみたいに泳ぎは上手くなれなかった。なぜですかね」
 と言った。湊紀子も、
 「あら、私中津なんです。海は近いですけど、泳げません」
と言った。
 周吾は、
 「僕は万丈の上流だし、友香ちゃんは耳川の急流で、二人とも子供時代、夏は川で遊ぶしかなかった。川に入ったら手や足を動かさないと流されるし、浮かばない。海だと、浮かんでいられる。泳ぐのは川の流れが少し速いところに入れてあげればいい。誰だって泳げるようになるよ」
 周吾はそう言った。友香も
 「私もそう思うわ。川はね、じっとしてると流されるし冷たいし、絶対泳げるようになるわ」
 と言った。みんなが上がって来て、スイカ割となる。若い順にスイカ割に挑戦し、さすがに剣道部だった高山隆介がきれいに半分に割った。高山隆介は市内の配送経験があって、その時薬局の事務をしている田原茉里とは顔馴染みだと言った。随分前から二人でくっついて話しこんでいたし、前田孝志は湊紀子と話が弾んでいるようだ。スイカを食べ咽喉を潤し、みんなはまた海に戻っていった。周吾は友香を誘った。大丈夫だ。怖がっちゃだめだよ。友香は頷いて周吾の手を掴むと立ち上がった。近くで遊ぼう、そう周吾は言って友香を海に引きずり込んだ。怖がっていた友香も笑った。
 「大丈夫だよ。誰だって溺れかかることはあるから。慢心しないでいれば大丈夫。また助けてあげる」
 周吾はそう言って友香に水をかけた。友香も反戦する。泳いだり浮き輪につかまったりして、空を見る。白い雲が笑っているように見えた。
 潮につかった体をきれいにして着替え、夜のバーベキューの準備に取り掛かる。雨も降りそうにないいい天気だ。周吾は火を熾し炭につける。民宿の庭にテーブルや椅子を並べて、魚や肉を焼く。焼けるまで新鮮な刺身がどっさり盛られてきた。大皿に三つ。一皿四人分?とんでもない大盛りでみんなびっくりする。幹事の北島潤一が確認に行った。心配しなくても予算内に収まっているから。また持って来た。サザエや緋扇貝、大きな伊勢海老まで出てきた。それも凄い量だ。これでも予算内?北島はまた聞きに行った。大丈夫と言う。まともに請求されたら予算の三倍以上は取られそうな気がする。美味しい魚を食べ楽しい話をして盛り上った。周吾もよく食べた。小村樹里や湊紀子が心配して見ていたが、安心したようだった。友香はみんなに、
 「友香、命の恩人にお酒とか、お魚とか、取って上げたら」
 なんて言われてる。友香は、
 「ほんとだわ、命の恩人にお返しをしないと」
 そう言って、取り皿に伊勢海老や緋扇貝や魚の焼けたのを盛り分けて持って来た。
 「命を助けて下さってありがとうございました。さあどうぞ召し上がって下さい」
 友香も大げさにやった。周吾は困ってしまって、それを受け取ると、今度は自分で別の皿に取りに行った。友香が取って来たように、伊勢海老や緋扇貝や魚をのせて、友香にささげた。
 「僕の方こそ、友香ちゃんに、ご飯が食べられない時に、食べられるご飯を作ってもらって助けてもらいました。どうぞ召し上がって下さい」
 とやった。みんなは呆気に取られていたが、意味はわかったようだ。周吾の隣に座っていた北島潤一が席を友香に譲って、
 「僕はあっちに行きますから、恩人同士仲良く食べてください」
そう言うと移動していった。周吾は魚と貝は食べたが伊勢海老はそのままだった。友香はそれを見ている。そこへ民宿から、カサゴの味噌汁が運ばれて来た。まだ予算内?みんなそんな気持ちだったが、この味噌汁は最高だった。変な顔付きのカサゴがこんなに美味しいとは。不思議な気もするがとにかく美味しい。周吾はカサゴをきれいに骨だけにして汁も全部飲んだ。大きな丼二つくらいの器だった。
 「いっぱい食べた」
 つい周吾はそう言った。友香は、
 「ほんと。だいぶよくなったわ」
 「友香ちゃんが四十九日に来てくれてほんとうに助けられた。あの後も二回来てくれて僕は立ち直れた。ほんとうに食べられるようになったのは友香ちゃんのお陰だよ。ありがとう」
 周吾はそう言った。
 「でも海老さんが残っているわ」
 友香が言った。すると湊紀子が
 「そう思い出したわ。蒼井先生がね、うちのアオに苦手があるのよ。それがかわいくて、もうほんとうにかわいいんだから、そんな話してたでしょ」
 と言った。
 「そう、思い出したわ。うちのアオはお魚食べるのは天才なの、お箸を使うものは何でも、カレーだってお箸で食べられるんだけど、手を使って食べるのは苦手なの。それがかわいいの、そういって惚気ていたわ」
 小村樹里も言った。
 「まあ、そうだわ。それで海老さんが残っているの。今日は私がお姉さんになってあげる」
小菅友香はそう言うと、周吾の伊勢海老を手に取り殻をむいた。身だけを皿に乗せ、周吾にどうぞと勧めた。周吾はお礼を言った。小村樹里は、
 「友香、ああんって、やらないとだめかも、よ」
 周吾は慌てて海老を口に入れた。
 「ああ残念。もう少しで、海老で白くまが釣れたかも知れないのに」
 小村樹里はそう言った。友香は顔を赤らめたが、周吾の食べたカサゴの味噌汁の器を見て、
 「凄い、お姉さんが言う通りだわ。カサゴさん、きれいに骨になっている」
 と言った。すると、小村樹里や湊紀子が覗きこんで、
 「先生の言う通りだわ、素晴らしい」
 と言った。バーベキューは周吾もかなり食べた。みんなも十二分に食べた。新鮮で美味しかったが、それでも量が多かった。浜に出て花火をあげる。澄んだ夜空に星が見え、花火が上がって星が消える。花火が散ると、星が見える。周吾の食欲は復活した。
民宿に戻りシャワーや風呂に入って寝た。四つの部屋にそれぞれ分かれる。
 翌朝、もう一度海に行く。友香は大丈夫だった。周吾が、
 「もう一度ブイまで行こうか」
 と誘うと、
 「途中でだめになったら助けてくれる?」
 と言う。
 周吾はいいよ、と言って友香を先に行かせる。友香はゆっくり泳ぎ出した。周吾も続く。並んで泳ぐ。ブイにタッチして戻る。昨日溺れかかったところも無事通過する。友香はスピードを上げ周吾を置いて行こうとする。周吾は差が広がってから猛然と追いかけ並んだ。同時に浜に着いた。友香は息が上がっていた。ああ、置いて行けそうに思ったけど、やっぱりだめだわ。
 海から上がって着替え、民宿に戻って荷物を積み込む。小村樹里が民宿の電話で話をしていた。高山隆介と前田孝志のむさ苦しい二人だけの所に、湊紀子と原田茉里が乗ることになった。帰りの車中で話がしたいらしい。北島潤一は念願の宮沢麻美薬局長と二人になれるし、高山隆介、前田孝志も原田麻里と湊紀子と同乗出来て気分はいいだろう。
 十一時に波当津を出た。万丈まで一時間かからない。周吾の車には小菅友香と小村樹里が乗っていたが、車が走り出すと、小村樹里は、自分を万丈に降ろしてくれと言う。実家があるので寄って行く。帰りは弟が夜大分に行くのでそれに乗って帰る。万丈の小村樹里の家は西岡医院の近くだった。小村樹里を降ろして小菅友香と二人になった。周吾は友香を誘って、万丈にいた頃よく行った小福鮨に行った。美味しくて安い隠れた名店だった。周吾は一人前を完食した。もう大丈夫ね、友香はそう言ってくれた。周吾は改めて友香に感謝した。友香のお陰だ。あの頃はほんとうにきつかった。
車に乗って大分へ向かう。周吾と友香は日向の話をした。ひょっとこ踊りが面白いこと、あれを忘年会でやると大うけした話をすると、友香は大笑いした。
 「蒼井さん、あの格好になるんですか?」
 「そうだよ」
 「ああ見たいなあ」
 「何見たいちゃろか?踊り方?腰つき?それとも褌姿?見せてんいいじゃろか?どげんしたもんじゃろかね」
 周吾は日向弁で返事をした。
 「きゃあ、そんな、全部です。だって蒼井さんのひょっとこ、見たいとよ」
 変な話になったが、方言のことや、宴会でノッピがやったセイコちゃんが忘れられないとか、話は尽きなかった。周吾は妻の残したものをどうしようか迷っていた。処分するには惜しいし。全部失くすと寂しい。そうかと言って、いつまでもそのままでは良くない。少しずつ誰かに貰ってもらうのがいいか、と思っていた。友香は妻の妹みたいだし、体型も同じだから、服は友香が貰ってくれるといい。そう思っている。でも遺品みたいな服を貰ってくれるだろうか。全部持っていかれると、周吾は寂しい。そんな複雑な思いをそのまま友香に話した。友香は、
 「私はお姉さんのファッション大好きだったので、貰えるならとても嬉しい。遺品だなんて、お姉さんの形見分けだし、大事に着たい。でも一度に貰うと蒼井さんが寂しいのもわかるし、蒼井さんの良いようにしたらいいと思う」
 そう言った。周吾は整理をして連絡するから貰ってくれるよう頼んだ。友香をマンションの手前で降ろして帰って来た。ノッピの仏壇に手を合わせる。周吾はノッピに嫌われないように部屋の片付けをし、トイレもキッチンも全部掃除した。洗濯物も片付け、妻のクローゼットを開けて見る。服がたくさんある。どれもみんな思い出のあるものばかりだった。これを自分だけで処分していいのか。そんな気持ちになる。そうだ、埼玉の父に相談しよう。そう思って電話をかける。今日は日曜日だし、まだ四時前だがいるかもしれない。電話には義母が出て、蒼井周吾だと言うと、少しは元気になったかと聞かれた。最近なんとか持ち直していると答え、父に代ってもらう。
 周吾は妻の残した物をどうしたらいいか、相談したくて電話した、と言うと、
 「周吾君、そんなの、君の好きなようにすればいい。まだ置いていたのか?邪魔にはならないか?もう私が貰ってもしょうがない。信枝の友達でも誰でも、貰ってくれる人がいればあげて欲しい。もう私は関係ない。そんなことより、周吾君はどうか、まだ再婚する人は見つからんか?」
 「お父さん、そんな余裕ないです。僕はあれ以来、食事も出来なくて、丸三月苦しみました。最近何とか食べられるようになりましたけど、体重は十キロ落ちました。まだ六十にも戻ってないんです。寂しいんです。まだ寂しいんです。でもこのままじゃいけないし、少しずつ処分しないと。今日思いついたんです」
 「そうか、わかるよ。信枝はほんとうに幸せだった。ありがとう。周吾君のお陰で信枝は満足しているよ。でもね、信枝のものは早く処分しなさい。そうしないと君の立ち直りが遅くなる。信枝もそんなままの周吾君は望んでいないと思うよ。私だって、信枝の母が死んだ後、一月で全部処分した。早く立ち直ろう。そう思ってね。それでも完全に区切りがつくには十年かかったけどね。遺品があるなしは関係ない。周吾君いいね。早く処分しなさい」
 「わかりました。そうします。お父さん、また電話してもいいですか?」
 「ああいいよ、周吾君の新しい嫁さんが決まった話を待っているから」
 周吾は電話を切るともう一度妻のクローゼットに行った。
ノッピこれを着てここを歩いてよ。ついそう思う。ノッピはいないのだ。ベッドに座り込んでまた寂しくなる。そうだノッピ、服は友香ちゃんに全部もらってもらおうか、体型も一緒だって言うし、他にサイズがあう人はいないし、友香ちゃんならいいかな。ノッピの妹だろう。エプロンだってお揃いじゃないか。下着はさすがに悪いだろうから処分するよ。僕が大事にしておくのも気持ち悪いだろう。お父さんは全部処分しろって、言うけど寂しいよ。このままなら、ノッピがいつでもいるように思えるから、やはりまだ置いておこうか。周吾は悩む。リビングに出て窓を見る。ノッピの雲がないか。夏の空に白い柔らかな小さい雲が流れていた。ノッピだ。周吾はあの雲はノッピだと思った。周吾は雲が見えなくなるまで見続けた。 

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