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438年経過

 堂ノ間供養塔

 因尾物語<因尾通路斬の事> ―――主として大友興廃記による ――― 羽柴弘

 <略>日州薩摩の武士、府内へ往来の時は、佐伯の内因尾という所を折々通路とす。
 さる程に、天正十四年(1586)丙戌12月17日、佐伯太郎惟定の居城栂牟礼より、軍勢数多を因尾表に差向けられる。すなわち惟定の下知を受けたる因尾の武士、柳井左馬之助、同じく外記、同じく平兵衛、同じく弥右衛門、同じく兵庫ノ介、三代勘解由、柳井喜衛門、同じく弥右衛門尉、吉良舎人、杉谷兵部、同じく源次郎、稗田右馬ノ介、同じく嘉右衛門尉、柳井雅楽ノ介、これらの人々因尾に打出し、峯々山々に物見を置いて待ち受くる。
 翌る十八日、日州縣の住人戸高将監を大将として、三十騎にて押寄せる。物見急いでこれを告ぐ。
 かねてより傳り岩という所の下、三竈江大明神の前、河をへだてて両方、また板屋という里、ここもかしこも伏兵、どっと鬨の声をあげて攻めかかり、日州勢を川に追い落とす。向かいの岸に這い上がるを、大明神の一の鳥居の右左、杉木立松原から勝手知ったる地の利によって、おっ取り囲んで雑兵に至るまで残らず討ち果たす。即ちその日の大将戸高将監は、柳井左馬之助に打ち取られ、屈強の武士三十七人、悉く討ち果たされたという。
 続いて押寄せたる日州勢、敗戦驚いて逃げ帰るを、因尾勢今一戦と勇み立ち、追い打ちをかけようとするを左馬之助押し止め、大将戸高を打ち取れば勝利は十分とし、皆栂牟礼の城に引揚げたり。
其の後は日州、薩州の者ども、再び因尾表を往来すること叶わず。直入ノ郡、朽網をまわって府内へ往還す。 以下略
 <解説>
 時は戦国時代の末期、大友宗麟と島津義久が九州の派遣を争っていた。戸次川の戦いに敗れた大友は遠く宇佐の竜王城まで逃げ、府内は島津の手中にあった。その時の物語である。そして前回の穴囲の戦いの直後である。柳井一族を中核としていた因尾勢は、平素は因尾に住んで農事に励み、いざ合戦ともなれば一族郎党率いて馳せ参じていた。
 たまたま薩州の軍勢、北上して豊後に侵入というので、栂牟礼の下知に応じて因尾勢は、堂ノ間、板屋に迎え撃ったのであった。
少々勝ち過ぎた戦である。本当にこの通りであったか。

 佐伯史談会の会報にある羽柴弘氏の文章を、名文であるのでそのまま載せた。この戦の供養塔にと建てられたのが写真の塔である。438年経過し風化も進んでいる。違う仏が六面に刻まれているが、風化のせいか、判別が難しい。奥の栗の木は何度切っても伸びてくる。この土地は、今はご高齢になった一人暮らしの女性の所有である。

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