新六郷物語 第九章 四

 天正十三年(一五八五四年)、純平と佐和が帰郷して五度目の正月が来た。
 正月二日、武蔵から影平久蔵が一人馬に乗って来た。来縄から是永家一家が揃った。六坊家の広間や座敷の仕切りを取って祝言が行われた。影平隆村と是永園である。大勢の祝福を受け幸せそうな息子を見て、影平久蔵は、
「浄峰様、純平殿、私はいまではこれで良かったと本当に思います。武家の家を興したところで、誰が幸せになるのか。一時的な満足は将来の安心ではありません。争いは守るべき土地や人のためにあり、変質で狂乱した主君のためではありません。隆村は守るべき人がいて、支えあう仲間がいます。仲間が地域を守り、六郷を支えています。本来武家の棟梁がすべきことをやっています。親としてこれ程の幸せがありましょうか。
 実は純平殿、大晦日のことだが、やっと元服したばかりの藤本信広殿が母親の美知殿と一緒に武蔵までこられた。十二歳の妹、綾殿が浚われた。亡くなられた父の墓参に、母と二人で行く途中を浚われたと言う。十名程の武家が、母親を突き飛ばし幼い娘を浚って行った。浚ったのは武蔵田原家の者であるらしい。影平久蔵殿は武蔵田原家の重臣である。なんとしても綾を救い出してもらいたい。そう言ってこられた。私はその後直ちに今市城に行き、どこかに監禁しているか。誰がそんなことをしたのか、聞いて歩いた。殿は大友宗麟公に命じられ、六郷全てから娘子供を浚ってくる役目を追い、伊美はもう決められた数を浚って、船で府内に送った後であった。主人に面会を求め、理由を問い質しましたが、姪であったか、許せ、もう遅いであった。何ゆえそのような命令を受けられるのか。宗麟公の命令は、死ねと言われれば受けるしかない。死さえ受ける身である以上、命令に背くことはできん。それが返事でございました。私は昨日、藤本家を訪ね、事実を知らせました。及ばぬ力を詫びました。それしかできませんでした。武家というのは、これが努めです。無念でなりません」
 影平隆村と園は長屋に移った。
 六郷の寺は新築九軒、改修十三軒は全て落慶法要を済ませた。浄周山純和寺も外周に石が積上げられ白壁の塀もでき、後は本堂を待つばかりとなった。四月の上旬に完成する予定である。来春にまでには全ての開拓が終り、水田は全て作付けられることになった。入植者は五十戸を越した。始めて三年は入植者九割、寺一割。四年目以降入植者八割、寺を二割とした。通常の年貢は四公六民か五公五民であった。
 浄峰は、寺は収益をあげる必要は無い。雨露を凌ぎ仏法を学び広められればいい。最小の建物があれば良い。教場は大衆の中にあり、御仏は人の心にある。寺はやって行けさえすれば良い。汗水流した人が報われるべきである。それが広まって、またさらに入植希望者が加速した。しかしもう満杯であった。六坊家では是永園が芳名を控え丁重にお断りをしていた。しかし、それも純和寺に庫裏と僧坊が出来たことによって、六坊家の手間が各段に減った。浄峰は寺に執事を置かねばいけなくなった。伊美の垣添道孝の紹介で、学問は出来るものの千燈寺も伝乗寺もなくなり、高度な勉学をする場をなくした元服前の子を入れた。伊美家に仕えた父を戦で亡くし、母を千燈寺で亡くした芝原太蔵という孤児であった。太蔵は秀才振りを発揮し執事の役を十分にこなした。
 浄周山純和寺の寺領で開拓した川の向こうにもう一段広い台地があり、いまは森となって全容は見えないが、これを開けば三十町歩はある。純平と佐和は、浄峰に入植者を求めるようにしたいと相談した。浄峰の答えは、寺領はもう要らない、いまの四十町歩でもう十二分である。寺は末寺で行くべきだし、以前の中山本寺の千燈寺や、本山本寺の伝乗寺のような寺は、これからの六郷にはもう無理であろうし、不要だ。末寺であるなら、檀家からの収入も見込めるし、年百石もあれば、飢饉などの貯えもできる。いずれ軌道に乗り、落ち着けば寺領を耕作者に与え、純然とした喜捨だけにしたい。だからこの先開くところも寺社領とせず、六坊家所有とせよ。最初の三年を一公九民、四年目以降を二公八民とすれば、寺領と同じだ。入植者は必ずいる。第二期として開拓するところには石堤が半分で済む。伐った木は木材として売れる。第二期の場所の方が木は揃っているから、木材としては値が張るのではないか。それを開墾の費用に当てれば良い。第一期の寺領の入植に漏れた人を救済できるし、是非そうしてもらいたい。安東信助殿や影平隆村殿、広瀬豊治殿、それに田口基之殿が独立するなら分けてもいいではないか。浄峰は、純平と佐和にそう言った。純平と佐和が予想していたとおりであった。
 第一期の目処がたったこと。入植に漏れた人が多かったこともあり、純平は信助に相談した。第二期も信助に頼みたい。六坊家の荘園として、入植者を入れる。条件は寺領と同じだ。信助は真意をわかっていた。寺領が増えれば没収される恐れがあるから、何年も寺領を持ち続ける考えは無い。軌道に乗ればいまの寺領も手放すに違いない。それで寺領を断わられたから、六坊家で拓くことにしたのだろう。信助は純平の考えをそのまま言い当てた。純平は、
 「そこで信助に頼みたい。第二期も信助に監督してやって貰いたい。三十町歩はあると見た。六坊家は、来客が多いので掛かりが多い。支流沿いの開墾もいずれ手をつけたい。その費用を捻出したい。それで半分は残して貰いたい。あとの半分は信助に任せたい。小作を入れてやってもいいし、家人を入れてやってもいい。同じ六郷を大切に思う者が規模を大きくしないで持ち合うことが理想だと考えている。田口基之や広瀬豊治がしっかりしてくれば、追々別けていく積りだ。これからも協力してやって貰いたい」
 「純平、佐和様はそれでいいのか。わしと有里にとってはいまのままで十分幸せなのだ。独立したいなどとは夢にも思わない。純平や佐和様と毎日顔を合わせ、六郷の行く末を話し合えるのが楽しくて仕方ないのだ。六坊家で持っておればいいではないか」
 「信助、六坊家は富や利がそのまま幸福だとは思ってもいない。富や利が大きくなり豪族になれば危険が近づく世の中だと思っている。利が増えれば六郷のために還元するまでのことだ。しかし、富や利がなければ、人のために何かしなければいけないときにできなくなる。それも困る。いまは寺領が没収される世の中だ。豪族になる気は全くない。私も亡き父のようにありたい。なるべく小さく生きる。同じ考えの仲間に分散して持ってもらうことが最も良い。信助なら間違いない。だから信助にとりあえず半分持って欲しいのだ。佐和も全く同じ考えだ。小作地を手放したように、しっかりした者なら与えていいと思っている。しかし最初からそうすると必ず混乱する。信助ならそこはわかってくれると思う。隆村には支流の奥を分ける積もりだ。いま馬を飼うために暇をつくっては山に行き柵を巡らしている。奥の方が本人も都合が良いようだ。だがそれは、今すぐには手が回らんし、予算も目処がない。信助に頼るしかない」
 信助は妻有里と相談して決めると言った。有里も信助が独立するとなると、それなりの覚悟がいることになる。家人を置くなら束ねなければならないし、小作を入れるならその管理もしなければならない。有里は信助から話があると、真っ先に佐和に相談した。相談する相手が違う気もするが、信助は有里の考えを支持した。有里は当然佐和から勧められた。佐和の方から勧めた話であるから当たり前なのだ。が、有里にとっては、使用人の子でありながら家族同然に育てて貰ったその主人から独立を勧められ、同じ立場に立てと押されているのを、信じ難いような気持ちであったし、佐和様と同じように振舞えるのか、それが心配で堪らなかったのだ。夫信助には一家の主として独立させてあげたい。自分はその奥向きの仕切りが出来るだろうか。もし家人を置くようになった時、佐和様のようにできるだろうか。佐和は有里に、
 「有里は私以上にできます。だって使用人の気持ちや家人の気持ちを誰よりよく知っているから。その人の気持ちを大事にするようにすれば、間違いなく上手く行きます。信助様を助けられるのは有里だけですよ」
 有里は佐和の助言に安心して夫を支える決心をした。信助は園が名を控えた記録を元に人選を始めた。寺領荘園は入植者だけで残りの開拓は完了できる見通しが立った。浄峰様の寺を建てるということで、六郷全域から労力の喜捨が多く、予想以上に捗った。三年を見ていたのが実質二年と少しで目処が立った。木材の乾燥が進まないため寺の本堂がまだだが、極めて順調だった。
 信助は第二期の仕事にかかった。木を伐って材を売るのである。売った金で信助の屋敷を建て、土地の開拓を始める。開拓小屋を建て入植者を決めれば、費用はそう掛からずに開拓できる。先はまだ長いが課題をこなす楽しい日々が続く。
 一方で六郷調整役からは、悲しい情報しか届かなかった。六郷絆衆が総員で人浚いの情報を収集していた。さらわれた子は府内沖の浜の収容所に入れられていることは間違いなかった。

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