祖父

 祖父は普通の人じゃないと、子供の頃思っていた。他所のお爺ちゃんとは違っていた。近所の人や他所から来た人も、祖父に色々相談に来たりした。背は低く、体は細かった。よく一緒に風呂に入ったが、お腹はぺちゃんこで骨と皮しかないみたいだった。酒は飲めず、ゴールデンバットを吸った。新聞が郵便で届くと隅から隅まで読んだ。生まれた家は造り酒屋で、清酒を造っていた。祖父の父は酒豪で、裸馬に乗って尺間山に駆け登ってくる剛毅な人だったという。祖父は四人兄弟の次男で、兄は筋肉質の健康体で男前だったし、一番下の弟は特別大きい体ではなかったが、柔道で当時国内の四天王といわれ、小説「黒帯三国志」のモデルになり三船敏郎の主演で映画化もされた人だった。次男と三男が、体が細く背も低かった。とくに次男は胃潰瘍が持病で、体重は四十kgあったか、という具合であった。旧制中学を出て早稲田大学に進んだが、本人はそんな所へは行く気はない。東京美術学校に潜り込んで絵の勉強をしていたらしい。学歴は早稲田大学中退になっている。役者と絵描きは河原乞食といわれた時代だ。それがばれて連れ帰され、役場で働くことになった。養子の話が決められた。親には反対できない時代である。苗字も同じ。村も同じ。一kmも離れていないところへ婿に入った。孫の目から見ることだが、不思議に夫婦仲は良かった。養父は、体は小さいが元気な働き者。養母はまだ働き者だった。祖父は役場に出るのがやっとで、田仕事や山の仕事は無理だった。次第に戦争が激しくなる頃、昭和十七年、村長になった。村長にさせられたのが事実だ。本人は嫌で、山の中を逃げていたという。前任の村長が辞めたのが、一六年一二月一日、後任の当選が決まったのが十七年三月六日。昭和十六年十二月八日は「ニイタカヤマノボレ」で戦争突入、「トラトラトラ」で真珠湾奇襲成功の日である。祖父は戦争には負けると考えていた人である。「村長にはなりたくなかったから、山に隠れていたが連れ戻された」そう言っていた。満州へは開拓団を送り出し、出兵兵士の壮行会へは顔を出さねばならない。戦死の知らせも真っ先に入ったはずだ。後任者が決まらなかったのだと思うが、前任者との間に三ヶ月も村長不在があった。祖父が村長に就任したのが三十九歳である。当時県内最年少であった。ちなみに前任者は養母の弟だった。祖父は一年と五ヶ月で辞めているが、後任者が就任するのにやはり三ヶ月近く要している。誰もが敬遠した村長であったのではと思う。当時の村長は推薦による知事の任命制で、公選になるには戦後である。
 曽祖父は、村ではお金持ちだったがケチだったようで、伯母が大分で女学校に行っているのにあまり小遣いを持たせてやらなかった。祖父の給料も家の収入として全部管理して、祖父は殆ど自由に出来なかった。絵を描くなどとんでもない。絵の具や紙を買うお金もなかった。新聞に投稿して原稿料を受け取り、それを娘に送っていたそうだ。その当時のことを伯母に聞いたが、祖父の写真を持っていて、「ブロマイドを持っている」そう言われて補導され、親が呼ばれたらしい。写真と実の父親を見比べて納得してもらったが、祖父も若い時はハンサムだった。祖父は一生自分のお金を持たない人生を送った。曽祖父が亡くなると絵は描けるようになったが、油絵などは画材が高価なのでめったに描かない。新聞に入ってくる裏が白紙になった広告紙が画紙になった。私など孫の書き損じたスケッチブックや使いかけの水彩絵の具も祖父が使った。父が筆や画材を買ってきたが、紙は専ら再利用紙だ。  
 村長を退き役場を辞めると、農家の仕事しかなかったが、それは体力的に無理で、隠棲するかのような生活を送る。胃潰瘍持ちなので、祖父が寝るあっちの家にはセンブリがあり、煎じて飲んでいた。私もそれを嘗めてみたが苦くて酷い思いをした。ご飯も一人だけお粥だった。朝食は一人だけ食パンをホットミルクにつけて食べていた。卵は底を箸で少しだけ割って穴を開け、白身と黄身を混ぜてそのまま飲む。殻は乾かして絵を描く。新聞の折り込みチラシの裏に絵も字も書く。また盆栽を育てる。これが祖父の仕事になったが、収入はなかった。缶詰の空き缶の底を開け鉢にして、サツキの挿し木をいっぱい作ったことがある。挿し木、接木、取り木もした。小学校や中学校の、入学式や卒業式の時、演台の隣に松の立派な盆栽が置かれていたが、祖父の庭から運ばれたものだった。毛筆も達筆だった。もとは左利きで、食事は左右どちらでもできた。祖父の八畳間の和室アトリエは、自分が座る部屋の真ん中に座布団が一枚あって、その前は絵を描くスペースがあり、左右には筆や絵の具などが、そのさらに周りには過去に描いたものや、本が積み重ねられて、同じ部屋に二人座ることはできない。辛うじて縁には半畳ほど隙間があり、そこに腰かける。竹を伐ってきて竹笛を作って吹いたり、尺八を作って吹いたりもした。縁にもガラクタが一杯あった。卵の殻を取っておいて絵を描いてあるもの。川から石を拾ってきて絵を描いてあるもの。石そのもの。木の根っこ。瓦の欠けたものに絵を描いたもの。障子や襖も画材になった。張替えすらできない。一度だけ描いた絵を展覧会に出品した。売る気は全くないのに、手違いがあり、その絵に買い手がつき、絵は買い手に渡ってしまった。探し当て取り戻しに行ったそうだ。和室アトリエの床の間においてあった。里山に梅が咲く風景画で、冬に真っ白な梅の花が、寒さに耐えて凛と花開く絵は気品があった。梅花の香りが漂いそうないい絵だと思った。それ以来、出品はしない。いい紙には決して絵は描かない。
 私が大学生の頃、毎週のように祖父から葉書が来た。返事は殆ど書かなかったが、葉書には絵が書かれ文字が書かれていた。いまこそ絵手紙などと言われているが、祖父の葉書はその絵手紙であった。通信は宛名を書く下半分にあった。近況である。その葉書を大事に取っておけば良かったと思う。その中にあった一説をいまも覚えている。夏のことだが、「時雨来て 水やる日課 今日はなし」盆栽に雨が降る様を絵にしてあった。夏は朝晩、盆栽に水をやる。一鉢ごとに水加減が違う。鉢ごとに土の色をみながらやるから一時間以上はたっぷりかかった。日が落ちて少し涼しくなってからやる。簡単ではなかった。時々その水遣りを手伝ったことがある。水のやり方を覚えてしまえばいいが、それでも半端な量ではなかった。祖父が寝込んだりすると、中学生だった私も代わって水をやった。高校、大学でいなくなると父が代わった。祖父が亡くなったのは、私が結婚して夏に生まれた娘を見せてその年の冬だった。病弱であったが、曾孫まで見られたのは僥倖だったかも知れない。
 祖父には絵描きの友達が多かった。時々大分や臼杵や佐伯から、祖父を訪ねて遊びに来た。あの八畳に座る場所をつくって語らった。絵描きの人達は珍しいお菓子を持ってきてくれた。私がチョコレートを初めて食べたのも臼杵の絵描きさんから頂いたのだった。祖父を訪ねてくる絵描きさんはおしゃれで、美味しいお菓子をくれるから好きだったが、少し変わっていると思った。佐伯の絵描きさんは、決まって小便をした後、ズボンの前を閉め忘れる、またはちゃんとしまわずにチャックを上げ、痛がって声をあげる、無頓着なのだ。興味がそこにはなかった。祖父は一見難しそうな顔をしているが、近所の小母さん達が来ると、よく冗談を言って笑わせていた。私は父親から躾をされた覚えは殆どない。いつも側にいたのは祖父だった。箸の持ち方、鉛筆の持ち方、ご飯の食べ方など全部祖父が教えてくれた。夏休みの工作なども、手伝いはしてくれないが、相談に乗ってくれるのは祖父しかいなかった。祖父のアトリエには手本が一杯あった。学校から帰って来ると、母屋には被介護者の姉、妹、弟が寝ている。多いときは三人。少なくなって一人。父母は仕事でいない。祖母が留守番で時々見ている。祖父は一人であっちの家のアトリエだ。遊び仲間のところへ行かない時は、決まって祖父のところへ行く。絵を描いていたり彫刻をしていたり、子供から見ても面白いのだ。祖父は盆栽を曲げなかった。形は自然を活かし、余分を落とすだけの作法だった。祖父の人生も知足。余分のないものだった。

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