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青の彷徨 後編 12

 秋が深くなっていた。国東の山々も紅葉が点在した。その紅葉を縫うように寺巡りに車を走らせる。
 長い石段を登る。三百段の内どれだけ登ったか。友香は息を荒げている。休み休みでいい。ゆっくり振り返って見て、深い針葉樹の隙間の向うに日にあたった紅葉が見える。石段に並んで立ち、後ろを見る。深い木々の間に木漏れ日が射し、隙間の青い空に白い雲が流れている。ノッピだ。周吾はそう思う。友香は一息ついて、また登り始める。周吾は沈黙した友香が修行しているように見える。仏像など、どこが面白いの?そんな風に見える。姿は似ていてもノッピとは違う。そうかと言って毛嫌いするほどでもない。周吾とノッピが一度尋ねたところを、同じコースで行きたい。そう言うので連れて回っている。阿蘇や久住などはまだいい。しかし普通のお寺の庭先に行って、石塔や仏像を見ても、興味のない人は退屈だろう。友香はそれを耐えているようだ。ここには是非もう一度来たい。ノッピはそう言った。文殊仙寺は美しい姿をしている。岩壁の下にへばりつく建物の階上に出ると、絶景だ。登ってきた苦労が一度に吹き飛ぶ。人々は苦労しないと幸福にめぐりあわないことを承知している。だからこんな場所に尊いものを拵える。だから苦労して登らなければ意味が知りえない。
 両子寺だってそうだ。今はお寺の直ぐ下に駐車場がある。そこから歩けばすぐなのに、どうしてわざわざ遠い下の駐車場に車をおいて、歩きづらい石段を登るの?友香はそう聞いた。ノッピとここから登った。そう返事をする。石段の登り口にある、仁王像を見なければここに来る意味もない。本当なら、山の上まで登ることが、当時の隆盛時の姿を知ることになる。
 文殊仙寺は仁王像と宝篋印塔がいい。この石段もいい。しかしそれは友香には興味がないようだった。周吾はノッピと交わした言葉を思い出す。千三百年も続いている力の大きさに感嘆したのだ。ここの水を飲んで賢くなろう。そう言いあった思い出が蘇る。周吾はノッピの思い出を確実にして行く。友香はノッピとの溝を深めて行く。
 岩戸寺、長慶寺、大聖寺と回る。
 「国宝だよ、あれ」
 周吾は岩戸寺の国東塔を教える。友香は不思議そうな顔をする。
 「どこにでもありそうな石塔なのに」
 「普通こういうものは、上から、空、風、火、水、地と五つに表される。万物の構成元素と思われていた。この国東塔は、この地域独特の形をして、それも物凄い数が作られているのがわかった。その中で一番古いのがここの国東塔。だから国宝になった。一番下にもう一つ台座がある。これが他にないのだ。それにしても、こんなのをたくさん作って、どうしたと思う。石を削ったって、ご飯ができる訳ないのに、苦労して彫る。または、寄進のために彫ってもらう。供養か、願いごとか、おそらく不可抗力の縋りたい力があったと思う。その時代に生きてみないとわからないが、凄い力だよ。こんなのがこの国東には、たくさんある。それに宗麟に破壊されたところもある。西の高野山と言われた千燈寺の跡も凄かった。あれにもし建物が残っていたら、想像に絶する仏教文化がこの一帯にあった壮大さをもっと証明できるのに。キリシタン大名を恨みたい思いだ。木造の仏像だって、大きいのがあってもおかしくない。それが少ない。石像は残った。宗麟はね、キリスト教に回収して、この辺一帯のお寺に火打ちをかけたんだよ。それを守った人が大勢いる。もちろん命を落とした人もいたと思う。南蛮貿易をして開明的な名君みたいに言われているけど、自分の治めている人を浚って、南蛮に奴隷として売っていたんだよ。キリスト教の信者のすることか。仏さまの方がましだよ。熊野磨崖仏の不動明王様なんか、かわいい顔してる。僕はあれ好きだよ。この辺が、神仏混合になっているのも、仏教排斥から自衛する方法だった。そう思うと見る所がいっぱいあるんだよ」
 周吾は優しく友香に説明しようとする。
「お姉さんもそう言うの好きだったの?」
 「僕より大好きだった。二人ともこの魅力にとりつかれた」
 周吾は、友香はやはり友香だと思った。ノッピは代えがたい存在だ。
 周吾はノッピと草むらの中に礎石だけ残った千燈寺跡に立った時、二人とも言葉が出なかったのを思い出した。西の高野に相応しい山容、もし当時の壮大な建物が残っていたら、この国東の価値は全く違う評価を受けていたに違いない。南蛮大名と言われ、開明的な治世でもたらされた医療や音楽などに比べても、それ以上の遺産であったに違いない思いを、二人ともしたのであった。京都、奈良、平泉、それに勝る史跡が国東全体に蔓延していた。その象徴が千燈寺であったのだ。ノッピも全く同じ考えだった。二人して大きな溜息をついたのだ。あの時の感動を思い出した。ノッピとは感動を共有できる。友香は友香なのだ。
 車で家路を辿る。友香は黙っていた。周吾も何も言わない。
 大分に着いた。友香にマンションの手前で降りるか、どうするか聞くと、そのまま降りた。周吾は一人でマンションに帰って来た。
 夕食はまだだった。食欲はかなり戻ったとは言っても、自分で動いてまで食べようとは思わない。それにまだ七時にもなっていない。周吾は風呂に入って、リビングに氷とウイスキーを持って来た。仏壇を眺めながら、今日回ったお寺を思い浮かべる。ノッピと行った時を思い浮かべる。ノッピと仏像の話がしたい。ノッピの話を聞きたい。
 友香は友香だ。懸命にノッピの影を掴み、周吾からノッピの影を消そうとする。しかし友香はノッピではない。外見は似ていても、中身は違う。周吾は友香が苦しんでいるのを知っている。手を出して支えてやるべきかもしれない。しかし今そうすると、友香はかえって苦しむかも知れない。周吾にまだノッピの影を追う癖があるからだ。友香は耐えている。周吾がノッピから独立できるまで、友香は耐えられるだろうか。周吾はノッピも友香も失うのだろうか。周吾は友香に甘えているのだ。友香の厚意を利用しているのではないか。ノッピに似た友香を利用して、ノッピを追想して楽しんでいるのではないか。
 その日はまたウイスキーにチーズを摘まむだけで、ボトルを一本空け、酔いつぶれるように思い出のベッドに突っ伏した。
 ノッピ夢にでてくれ。秋になるともの悲しくなる。涼しくなると人肌が恋しくなる。周吾はノッピを思い浮かべる。柔らかな薄いピンクの肌。豊かな胸。ノッピ。あの国東にはやはりノッピだよ。二人であの空を見たいよ。今日も空は青かったよ。周吾は涙を流し眠る。
 仕事に集中するも夜になると秋は寂しい。ノッピを亡くした後のような気持ちに戻る。食欲の秋というのに、酒に涙をこぼす日に戻った。遺骨を抱いて寝たい。周吾は墓に取りに行きたくなる。しかし我慢する。異常だという意識はまだ持っている。胸のノッピに手を当て、窓から空を見る。暗い中に夜景が見える。ノッピの服はすこしずつ友香が持って行くが、まだたくさん残してある。周吾はその中の一枚を取りだし、胸に押し当てる。ノッピ会いたい。どうしてもノッピに会いたい。会えないのはわかっているのに会いたい。涙を流す夜がまた続いた。
 週末が来た。結局友香には連絡もせず。友香からも何もなかった。金曜日の仕事を終えて周吾は帰って来た。もう九時近かった。周吾は上着を脱ぎ、ネクタイをはずして、ふとカレンダーを見る。十月二六日。二年前の今日だ。ノッピに運良く拉致されてこの部屋に来た。お互いの気持ちを確かめ体も確かめた。まだ二年。ノッピとは一年と五ヶ月も一緒にいなかった。その間、殆ど単身赴任だった。三分の一も一緒じゃなかった。そんなものだったのか。嘘だ。ノッピとはもっと一緒にいた。心も体も未だにノッピと一緒になりたい。
 周吾はあの日を思い出すように、シャワーを浴びバスローブを着る。ウイスキーをロックで飲む。窓から夜景を眺めて乾杯する。ノルウエイの森の話をしたよね。あの時、ノッピは、
 「私、緑になれるかしら」
 そう言ったよ。ノッピ間違いじゃないか。ノッピは直子になったじゃないか。ノッピは赤だったのか?僕は、赤は嫌いだよ。ノッピのピンクが好きだよ。周吾はウイスキーを飲む。ソファーに座りまた飲む。あの夜ここで初めてキスをした。シャワーを浴びて乾杯して、それからセックスした。二人は足りないものを足しあうように、心も体も繋がったのだ。あれから幸せが始まった。二年前の今日だ。入籍より、披露宴より一番大事な二人の記念日だよ。ノッピ覚えている?ノッピ夢でいいから。出て来ておくれよ。周吾は浴びるように飲んだ。どのくらい時間が過ぎただろう。電話が鳴った。ノッピか?ノッピは電話なんかしない。誰だっていい。今日は出たくない。大事な日なんだ。しばらく鳴っていた電話が切れた。周吾はほっとする。時計はもう十一時だ。ノッピ寝ようか?そう思ってまた飲み干す。電話がまた鳴った。煩い。そう思って、周吾は受話器をとる。
 「私、友香、何してる?行ってもいい?」
 「・・・」
 「ねえ、どうしたの?行ったらだめ?」
 「今日はもうほっといてくれ、ごめん」
 周吾はそう言って電話を切った。
 さあ、ノッピ一緒に寝よう。

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