学校のこと

 小学校は家から二、三百m位で近かった。家を出て右に進むと、旗立場と呼ばれた神社の祭りで幟を立てる石塔が、道の両側にあった。これを通り過ぎるとやや左に曲がりながら緩やかに降る。降りきった右には川を前に見た三竈江神社があった。通り過ぎて橋がある。橋桁が高いので上りになる。川の両岸には堤防が築かれ、三竈江神社の大鳥居は堤防から急な石段を降りた直ぐ前にあった。橋を渡って右に曲がり堤防の上を五十mも進むと、幅一m長さ五m位の橋があって、学校の校庭に出た。入学式は古い木造校舎で、講堂は二階にあった。非常に暗くて寒い思いをした。幼稚園は小学校の敷地の中に新築したばかりで、広々と明るい建物だった。サンルームがあり、ぽかぽかで暖かかった。幼稚園に比べ小学校は古くて暗い。それに寒かった。
 小学校は二年生になった年に、鉄筋コンクリート三階建ての白い大きな学校に新築された。村の人は石鹸工場のようだと言った。四方を緑の山に囲まれた村には眩しい校舎ができた。新築された小学校は大きく高く明るかった。生徒の数も、学校が出来た年が一番多く、以降だんだんと減った。いまはもう、廃校になって建物もなくなった。
 私は幼稚園に行くのが嫌で、嫌で、仕方なかった。小学校に行くのも嫌で仕方なかった。近所の子供とはよく遊ぶのに人見知りをする。私の一年上は二クラスあったが、私の年は一クラスに減った。中学を卒業するまで、小学校の高学年から変動はなく三九名だった。幼稚園の時はもう少し多かったと思う。たくさんの集団にいるのが嫌だった。小学校も授業が終われば真っ先に飛び出して家に帰った。私は六年生になるまで全く目立たない子供だった。成績は真ん中より下。運動会にしても目立つことはない。クラスの中で班分けがあったが、その班長すらなれなかった。六年生になって、最初に班変えがされ、どういう訳か、問題児ばかり集まった班ができた。多分その時は、好きな者同士で班をつくれ、となったのだと思う。あいつを入れると班がまとまらないとか、あいつは協力しないからとか、そんなことで入れてもらえない者だけが残った。私は問題児ではなかったが、特別仲の良い友達もいなかったから、誘われることもなく、積極的に入れてもらうこともなく溢れてしまった。結局、問題児たちと私が溢れ、最後の班ができ、私は初めて班長になった。この様子をみんな笑って見ていた。大丈夫か。あの班に何が出来るか。何も決められず、先生に叱られるのは目に見えている。そんな笑いであった。担任は何も言わなかった。学校は広く子供が少ない。掃除は手分けして迅速にしないといけない。高学年の子の責任は重くなる。教室、理科室、音楽室、図書室、廊下、階段、体育館、便所、外回りなどの掃除が、班ごとに一週間単位で替わっていった。その仕事が評価される。掃除以外にもいろいろあったように思う。良い班、悪い班が時々発表になる。教室掃除が担当になった時、私の班の連中は予想された通りまじめに掃除をしない。殆ど掃除が出来ないままで掃除時間が終わった。終わりの会を終えるとそのまま下校だ。明日になればいい加減な掃除の結果が判明する。班長の私は、みんなが帰った後、班の仲間に声もかけず教室の掃除を一人でやり直した。完璧に掃除をし、椅子や机の並びもきっちり揃えた。翌日登校した班の仲間は驚いている。掃除は一週間同じ担当になる。その日から班全員で完璧な掃除をした。それから駄目なはずの班は飛びぬけていい班になった。班の仲間はみんな親友になった。
 中学校は南の山裾にあった。前に川が流れていた。東も西も北も全部山で、山の間の谷川沿いにある村だから、どこにあってもたいして変わらない。それでも中学校は特に酷かった。日が登る東にも山があり、南側には山を背負っているから、日が差してくるのは、夏でも十時過ぎ、冬は昼の前にやっと差してくる。夕方三時にはもう日は落ちている。木造校舎で夏は涼しかったが、冬は寒かった。小学校は給食があったのに中学校はなかった。私が卒業して給食が始まった。職員室の隣にストーブの部屋があって、アルミの弁当箱をストーブの近くに置いた。冬の休憩時間はみんなここに集まった。理科室と技術室、家庭科室が西の少し高いところに別棟であり、一番寒かったが、三年生の教室は東端でもやはり寒かった。三年生になって教室に初めてストーブがついた。 
 通学路の三竈江神社手前の曲がり角に、冬になると氷柱が出来た。大人の親指より大きく五十cm以上になることもあった。小学生の時はそれを折って、チャンバラをしながら学校に行った。中学は自転車通学だった。それでも一kmもなかった。時々昼飯に家に帰って来ることもあった。山の中にある学校の遠足は、山か川しかない。一番遠いのが佩楯山で、往復二十五kmはあった。標高七五三m、八合目あたりまで登ると山肌に貝の化石が出た。大昔海だったのだ。山上にはテレビ塔が建っていて、大野の平野が一望できたし、登って来た後には、山、山、山が脈を打って連なっている。三百六十度のパノラマだが、風が強く冷えたのを覚えている。弁当を食べると、遊ぶ場所も広くない。また徒歩。ひたすら歩いて学校に戻る。途中に家がある子はそのまま帰宅していいが、学校より遠い子はさらに歩いて帰らねばならない。通学と佩楯山遠足を入れると往復四十km近く歩く子もいた。一番遠いのが、佩楯山を降りきった集落に住む子だった。彼はそのまま家に帰らず一緒にまた学校まで歩いて行った。学校で暫く遊んでみんなと別れ、また佩楯山の麓の集落まで、十km以上ある登り道を歩いて帰るのだ。その子は中学のマラソン大会では毎年一位だった。
 運動会は、秋に小中学校合同で、小学校のグラウンドで行われた。なぜか運動会には、新しい運動着に、一日しかもたない運動用の足袋靴を買って貰えた。殆どの子が運動会には新しい運動着に足袋靴を履いていた。学校行事ではあったが、村の行事であった。村中から総出で見に来た。大人は子供の運動会を見ながら酒盛りをはじめ、出店の屋台が学校の門前に並んだ。家の帰り道は校庭から小さな橋を渡るので門を通らない。出店で買って貰った記憶はない。それでも何か嬉しくなるのだ。神社の祭り以上に華やかだった。子供の数が少ないので、子供が出る競技は多い。紅白リレーが唯一選抜競技で、あとは全部出なければならない。最高の盛り上がりを見せたのは、地区対抗リレーだ。五つの地区に分かれて幼稚園から中学三年生まで男女混合でバトンを渡す。私の地区が殆ど毎年勝った。村の中心部で子供の数が多かったからである。足の速さはそう変わらないと思うが、数が多いと足の速いのがいる確率も高くなる。子供の憧れは応援団長である。中学三年生になって出来るのだ。応援団に入るのも人数は決まっている。さらに応援団長である。憧れの的だ。私はどういう訳か応援団長になった。紅白対抗で紅組だったが、負けたと思う。優勝旗を返還したのは覚えているが、貰った記憶はない。
 小学校六年までは班長にもなれなかったのに、中学に入ると学級委員長や生徒会長までやってしまった。中学は毎週月曜日全校朝礼があって、体育館も講堂もないのでグランドにでる。校庭に置かれた朝礼用の演台にあがって、司会の生徒会長は喋ることが多い。ある朝礼の日、靴を履こうと下駄箱に行くが、私の靴がない。登校時は靴を履いて来たからあるはずだがない。朝礼はもう始まる。生徒会長が出なければ朝礼は始まらない。私は思いつくところを探しても見つからないので、上履きのスリッパのまま演台に登って、何もなかったように朝礼を始めた。演台の向こうに立っている生徒は、生徒会長が上履きのスリッパのまま外に出て演台に上がっているのを見たはずだ。スリッパで上がるか、裸足で上がるか、あるいは出て来ないか、色々憶測して楽しんで待っていた奴もいたはずだ。隣の校長の視線を感じたが、何も言われないからそのままやり過ごした。朝礼が終わると、正面玄関の前にある水道でスリッパの裏を洗って、そのまま中に入った。校長や何人かの先生は見ていた。私は靴が無くなったことについて何も言わなかったし、誰からもスリッパで外に出ていたことについて何も言われなかった。靴は下校時にはちゃんと下駄箱に戻っていた。その後同じことが起きたこともなかった。


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